1月3日、浜野保樹東大名誉教授が亡くなりました。62歳。
ぼくが毎日のように会っていたのはメディア教育開発センター助教授時代。90年代初め、彼のハイパーメディア論に感化され、ぼくはデジタルに突き進むことにしました。ぼくの師匠に当たります。そして、10歳年上の兄ちゃんであります。若すぎます。
初めて浜野さんにお目にかかったのは92年。ぼくは郵政省でコンテンツ政策を立ち上げる画策をしていました。80年代のニューメディアブームが過ぎ、アナログからデジタルへの移行が話題となっていたころです。映画、テレビ、書籍、音楽、ゲーム、いろんな情報がデジタルに転換し、コンピュータや通信・放送メディアで利用されるようになる。前年、電気通信審議会の事務局を担当して、電話網、衛星、地上波などの通信・放送の伝送路を「情報通信インフラ」と命名し、トータルな政策が必要とぶちあげたんですが、その次、その上を流れる情報をどうとらえるかは行政として全くプランがないので、コトを起こそうとしたのです。
でも郵政省に知恵なし。人脈もなし。当時、月尾嘉男東大教授と浜野さんがタッグを組んで、ライバル通産省を土俵にデジタルメディアに関する検討をしていました。この方々しかないと思い、通信政策局江川晃正次長のご紹介でお目にかかり、その人脈をごっそり引き連れて郵政省で政策を立ててほしいと頼みました。
それが「メディア・ソフト研究会」。コンテンツという言葉がまだなく、造語でした。その報告書「ギガビット社会」は、全家庭が高速回線で結ばれるコンテンツ像を描くものでした。高速といっても当時はせいぜい1.5Mbps専用線。インターネットも登場していません。せいぜいB-ISDNが構想されているだけで、ギガの公衆網が定額で使えるなんて夢の数乗でしたが、当時みんな夢多きおじさんでした。
浜野さんには、その中のマルチメディア委員長を引き受けてもらいました。マルチメディア時代でした。テレビや電話やワープロに代わり、1台で全てを処理するマルチメディア=PCに集約され、アナログの通信・放送網も1本のデジタル網に統合される。そのマルチメディア委員会の報告は、世界初のデジタル(CD-ROM)でした。まぁそれがやりたくてやっていたんですが。すると海外からたくさん問い合わせが入って、役所は大騒ぎになりました。予算措置をせず、ぼくらがゲリラでやってたからです。
浜野先生はインターネット推進や通信・放送融合の急先鋒で、商用化前のブロードバンドを田舎の有線放送電話で仕掛けようとしたり、タブーとされていた地デジの構想をぶちあげてみたり、それらをぼくと政策として仕掛けてはバレて、物議をかもすこと多数でした。
すんなり政策が進んだわけではありません。通信・放送融合は省内でも反対は強くタブー視されていました。ところがメディア・ソフト研究会の報告をもとに、関西学研都市で光ファイバーを用いた実験予算30億円が認められ、反対していた放送行政局が了解、「融合は議論してもいい」という地点までゲインしました。
当時、ネットやら融合やらを推進する輩は通信からも放送からもメーカからも危険視されてましたが、郵政省幹部はガンガンやれと後押し。そのトップは小泉純一郎郵政大臣でした。
ウィンドウズ95の発売の2年ほど前、このままじゃマイクロソフトやらアップルやらインテルやらタイム・ワーナーやらアメリカに根こそぎやられるぞシンポを開いたところ、電電ファミリーメーカーの偉い人たちに、「日本メーカーは競争力がありすぎて輸出を手控えなければならんのに無礼なことを言うな」と面罵されました。浜野さんは笑い、ぼくは怒っていましたが、まぁそんなもんでした。
残ったタブーはデジタル放送。アナログからデジタルへの移行は必然だと思いましたが、硬い岩盤でした。
アメリカの放送デジタル化は高精細が目的ではなく、テレビをコンピュータに、放送を通信にすることだ -- MIT Media Labネグロポンテ所長の唱える戦略を解釈し直しシャワーのように浴びせたのも浜野さんです。それはぼくが官僚の王道を踏み外し渡米する遠因ともなりました。
93年の全米放送大会NABでアップルのスカリーが基調講演だと聞き浜野さんと飛びました。この意味を日本の放送局にどう伝えるか、ラスベガスでフローズンマルガリータを飲みながら夜を明かしました。
結局、政治を動かすしかないんじゃないか。でも郵政族は動きそうにないし。後藤田さん(当時副総理)に頼むしかないか。でも知り合いいないぞ。みたいな謀議を繰り返していたら、94年2月、ぼくらを紹介してくれた江川放送行政局長が政治家の会合で「アナログはもうダメ、世界はデジタル」というネグロポンテ著「ビーイング・デジタル」にも紹介される爆弾発言。結局、政府からの発信でゴトゴトと動いたのでした。
20年前のおはなしです。
90年代の終わり、ぼくが役所を辞めて渡米する際に、神楽坂のカウンターで送別してもらいました。でもいつものように浜野さんの映画論を聞く会になったのでした。もともと浜野さんは黒澤「どですかでん」の助監督だったというのが自慢で、でも小津安二郎の本を書き、だけど一番好きな監督はキューブリックだと言ってました。ぼくのようなパンク出身からみると、ちゃんとした作家によるちゃんとしたコンテンツに重きを置く。
99年に東大に移られてから浜野さんは、ますます映画・アニメの作家主義に進まれました。ぼくはデジタルがコンテンツの大衆化をもたらすことに重きを置き、ユーザ志向・ソーシャル志向に進んだので、会う回数が減りました。だから近況を知りませんでした。
今度、浜野先生にはグレイの和服を着こなすコツを聞こうと思っていました。残念です。
浜野さんが展望したマルチメディアは完成しました。コンピュータもインターネットもデジタル放送も普及しました。そして時代はその次、マルチスクリーンでクラウドでソーシャルへと移行しました。しかし、これからどうなるのか、どうするのかの展望は描けていません。夢多きおじさんは少なくなり、明日のビジネスに汲々としています。
このあたりで、次の展望を描く挑戦を、若い方々にしていただきたく、その場を作ろうと思います。浜野さんにはそれを見守っていただければと存じます。失礼します。
(この記事は1月6日の「中村伊知哉Blog」から転載しました)