いきなり結論から書くと、ものすごい面白い映画なのだが、この映画は、何を期待して劇場に足を運ぶかが大変重要になると思う。というのも本作は「メディアが見せない衝撃の真実」を白日のもとに晒す、という作品と思ってはいけない。マスメディアは彼を嘘つきの悪人だと断じた、しかし本当はそうではないんだ!ということを主張する作品ではない。かといって佐村河内守氏について、悪者なのかメディアスクラムの犠牲者なのか、その両論のバランスをとるようなスタンスでも全くない。そんな冷静さを装って作られた作品では全くないと思う。そういう「バランスを取る風」の記事ってパッと見、真実語ってそうに見えるけども。
このレビューを書いてる最中にこんなはてブコメントを見つけたのだが、本当にこの3つをグルグル回ってるなーと思う。
森達也監督は「ドキュメンタリーは嘘をつく」という本を以前に著している。ドキュメンタリーは客観的で、真実をありのままに見せてくれるものだ、という一般的なイメージに対してそんなことはないのだ、どんな作品でも作り手の主観から逃れることができず、むしろ主観があり作為のかたまりなのだと説いている。メディアの公平原則である「両論併記」についても森監督は主観の産物だという。
メディアで「散見」する「両論併記」という手法がある。Aの対論がBであるとの前提でAとBを等量に併記して、中立性を担保するという理屈だが、しかしAとBとが対を成す論理であるとの保障は、実のところない。Aの対にあるのは、CかもしれないしDかもしれないのだ。そもそも中間点を決めるためには両端の座標を確定しなければならないが、これを決めるのも主観なのだ。
(ドキュメンタリーは嘘をつく:第3章より)
本作は「ドキュメンタリーは嘘をつく」の著者が、ペテン師と言われた佐村河内守氏を題材にして、しかもタイトルが「FAKE」である。二重三重に折り重なっている。何が本当なのか探すスタンスで本作を見ると、森マジックに騙されるかもしれない。なにせドキュメンタリーは嘘をつくし、佐村河内氏もかつては(少なくともある程度は)嘘をつきながらメディアに登場していたわけだし。
じゃあ、どんなスタンスで観賞すればいいのか。ドキュメンタリーも主観的なものであるのならば、その主観を追体験するのがいい。映画監督森達也はどう感じ、何を思ったのか。乱暴にざっくり言ってしまえばこの映画に映っているものはすべて森監督の感じたことであってそれ以上でもそれ以下でもない。しかし、だからこそ大変に豊かな感性を持った作品になっている。
一言で言うと「森達也ワールド」を堪能するつもりで見に行くといい、ということだ。
愛妻家・佐村河内守
本作の主人公は佐村河内守氏であるが、もう一人重要な登場人物がいる。彼の妻である。本作は2人のラブストーリーと見ることの出来る作品に仕上がっている。この2人、仲睦まじい夫婦なのである。(一応注意書きするが、この映画の中では仲睦まじい夫婦です。森監督のカメラの前では、と言い換えてもいいですが)
森監督は、耳が聞こえないと偽ったペテン師というイメージに対して「愛妻家」というイメージを対置することを選択した。もちろん、これだけでなく彼の多面的な一面を見せているのだけれど、本作は恋愛映画としてとても感動的なのだ。実際森監督も二人の関係性が作品を作る上で大きな動機の一つだったようだ。愛は障害がないと成り立たないとよく言うけれども、世間のバッシングは強烈な障害となったであろう。佐村河内夫婦の愛はまことに美しく映画を彩っている。
事実を求めて見ると袋小路に迷い込む
とはいえ、多くの人が最も興味関心の高いであろう「耳」についても本作は描いている。聾唖、あるいは難聴というものに関して健常者である僕らはかなり無知なのだ、ということを思い知らされる部分がこの映画には確かにある。一口に耳が聞こえないと言ってもその度合いは100人いれば100通りのパターンがあるといってもいいぐらいレイヤーがある。健常者も「人それぞれ」だが聾唖も「人それぞれ」なのだ。この人それぞれである、という当たり前の感覚を本作は観客に取り戻させる。
この当たり前の感覚を取り戻した上で、佐村河内氏を巡るもう一つの疑念、「作曲能力」についても本作は迫っていく。耳の問題に関してはある程度数値のファクトを示すことができる。しかし作曲能力にそうした数値の基準はない。なのでこの問題には容易な決着がつかない。少なくとも本作を見ただけでは、彼の作曲能力と新垣隆氏との本当の関係の真実は結論づけられない。
森監督の手にするカメラの前で佐村河内氏はある行為を確かにしている。しかしそれが事実である保障はどこにもない。それを保障するような撮り方や編集も可能なのかもしれないが、森監督の意図は事実を公表することではない。そうした事実関係の一切は宙ぶらりんにしているが、それが森監督の作家性でもある。
先にも書いたが真実を暴くという態度からは、程遠い作品なのだ。むしろ、本作を観賞していると、そうした真実を求める姿勢が不毛なんじゃないかと思えてくる。自分の目に写ったもの、耳に聞こえたものは真実だと思いたいが、自分の目や耳がきちんと機能しているかどうかの確信はどのように持つことができるのか。この映画を見ていると、自分の感覚機能にすら疑いをはさみたくなる。
情報が洪水のように氾濫しているので、ますます僕らはわかりやすい事実を求めたくなのだけれど、そもそも絶対の事実など存在せず、世の中は玉虫色だ。Aという論の対のBの間を取ると真実っぽい。5という主張に10と言ってみたり、反対に0という極論があって、やっぱり5だとなるといかにも安心できる事実のように聞こえるのだけど、それらのやり取りでわかることは実は、「世の中は玉虫色だ」ということだけではないか。
本作はそのことを、とてもスリリングに思わせてくれる。世の中は玉虫色だらけであるという当たり前のことを深々と納得させてくれる。