■球界が悲しんだあの日
5年前の2010年4月2日、突然悲劇が起こった。
広島東洋カープ-巨人戦の試合前、木村拓也内野守備走塁コーチがMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のグラウンドで倒れ、病院に搬送された。地上波中継をしたフジテレビは、その映像を流していた。練習中に誰かが倒れるとは想像するはずもない。
木村氏はくも膜下出血と診断され、すでに意識不明で手術ができない状態だった。この日、私は旅支度をしている最中で、一報を聞いたときから落ち着かず、生還を心より願った。旅先では木村氏のことが頭から離れられず、何度もiモードを使い、mixiにログインしては最新のニュースをクリックしていた。しかし、吉報が入ってこない。
清武英利巨人軍球団代表が急きょ広島入りして、木村氏の容体を確認した。先述の通り、報道発表はよくないことばかり。私は"ウソでもいいから「絶好調です。快復しました」と言ってほしい"と何度も思った。
木村氏の意識が回復しないまま、同年4月7日3時22分、37歳の若さで永眠した。プロ野球シーズンが始まったばかりに倒れ、誰もが奇跡を信じていただけに、悔しい思いでいっぱいだ。
この日は球界全体が悲しみ、プロ野球全試合は全球団が半旗を掲げ、試合前に黙祷をした。今まで、こういう光景を見たことがない。巨人と広島の選手及び首脳陣、阪神タイガースは元同僚の金本知憲選手、新井貴浩選手が喪章をつけて試合に臨んだ。私は巨人以外でも喪章をつける方の温かさに感銘を受けた。
テレビ朝日の『報道ステーション』で、古舘伊知郎キャスターは「御冥福をお祈りいたします」「お悔やみ申し上げます」という"定型文"を使わず、自身の言葉で天に旅立った方をねぎらっている。しかし、今回は悔しい思いが強いのか、苦々しい表情を浮かべ、ねぎらいの言葉が見つからない。視聴者にお詫びをするかの如く、思いっきり頭を下げたのが印象に残る。
新聞報道によると、年間14,000人がくも膜下出血で死亡するという。それにかかって生還する人もいるが、社会復帰をする確率は低いというのが現実らしい。意外にも30~50代という働き盛りがかかりやすく、私と木村氏とは年齢が4つしか違わないので、恐ろしい。
くも膜下出血の予防法の1つとして、脳ドックの利用を勧める医師がいる。私は「脳ドック」という言葉を知っているが、その言葉を聞くのは数年ぶりで、今まで忘れていた。ちなみに脳ドックを受けるのに25,000円以上もかかり、これでは安心して受けられない人が多いと思う。
今後、健康診断のメニューの1つに脳ドックを入れてほしい。そうでないと、安心して生きられない。健康診断自体も40歳以上と同じメニューに統一したほうがいい。
■背番号0がよく似合う男
木村氏は1990年、ドラフト外で日本ハムファイターズに入団。当時は東京ドームを本拠地にしており、宮崎から上京した。ちなみに「ドラフト外」は逆指名制度の適用でドラフト会議制度が変わったため、今では日本人選手獲得が禁止されている(外国人選手は、よほどのことがない限り、ドラフト会議にかけられることはない)。
1995年から広島のユニホームを身にまとい、11年間に渡りチームを支えた。広島でユーティリティープレーヤーを確立し、球団の看板選手に上り詰めた。
2006年6月6日、シーズン途中で巨人に移籍。私は"なぜ広島の主力選手が巨人へ?"と疑問だった(実は巨人にトレードされたとき、ファーム暮らしだったことを知らなかった)。しかし、その疑問を跳ね飛ばす活躍ぶりで、ユーティリティープレーヤーとしての存在感を発揮し、2007年以降の3連覇に大きく貢献した。
移籍当初、背番号は「58」という"空き番"を与えられていたが、2007年から広島時代につけていた、"定位置"といえる「0」に変わった。
巨人の背番号0といえば、川相昌弘選手のイメージが強かったが、木村氏はそれを払拭させた。本当に背番号0が似合っていた(広島に移籍した当初の背番号は「41」だった)。巨人の背番号0は"いぶし銀"の選手にふさわしいのだろう。
2009年9月4日の東京ヤクルトスワローズ戦では、延長11回ウラに加藤健捕手が死球退場し、控え捕手がいない危機に直面したが、木村氏が急きょキャッチャーマスクをかぶり、12回表から10年ぶりにホームベースの後ろを守る。豊田清投手、藤田宗一投手、野間口貴彦投手との呼吸もピッタリ合い、ヤクルト打線を三者凡退に抑え、巨人が勝ちに等しい引き分けで試合を終えた。
このプレーで彼の名は輝きを増した。プロ入り後、投手以外のポジションをこなしたのだから、野球殿堂入りの値打ちがあるはずだ。
■特別献花台
2010年4月24日、東京ドームへ。この日は巨人-広島戦が行なわれ、40・41番ゲート付近では、すでに巨人と広島、それぞれのファンが階段に坐りこんで開門を待っている。この日は木村氏の追悼試合である。そのため、22番ゲート近くにあるNPBの旗と巨人の球団旗は半旗だ。
特別献花台は22番ゲート付近に設置され、10時から20時まで献花を受け付けている。一方、都内のホテルでは球界関係者が約550人集まり、お別れの会が行なわれた(テレビ局やラジオ局に所属するプロ野球解説者のほとんどが参列したという)。
特別献花台の左上にあるスクリーンには、木村氏の輝かしい野球人生を5分間繰り返し上映し、ファンや通行人は足を止め、食い入るように見つめる。巨人ファンと広島ファン、普段は"敵同士"だが、木村氏が倒れた翌日の試合では、双方の応援団が「拓也ぁー」という盛大なコールを送り、生還を信じあった。巨人も広島もこの日はなんとしてでも勝ちたい。
特別献花台には木村氏の元気な姿のパネルが4枚掲出され、1枚は広島時代のもの。映像やパネルは広島ファンも納得するだろう。"ハムの木村であり、広島の木村でもあり、巨人の木村でもある"のだと。
いよいよ、特別献花台へ。巨人のホームページでは花輪、供物、香典の辞退を明言しており、球団は白い菊の花を用意している。お悔やみの花束を持つファンもおり、木村氏の偉大さを物語っている。
私は白い菊を一輪取り、4人1列に整列する。特別献花台にそっと白い菊を置き、合掌。目が少し潤んだ。どうして、37歳の若さであの世へ旅立たせてしまったのだろう? 野球の神様は、どうして助けてくれなかったの? それと共に"煙草を吸っていなければ、こうならなかったのでは?"と考えてしまい、いろいろな思いが交錯する。
14時30分を過ぎると、長蛇の列となり、最後尾のプラカードがあがるほど人の数が増えた。あと3時間30分で試合が始まるのだから、増えるのはごく自然の流れだ。
両チームのファンの一部は、レプリカのユニホームを着ている。現役時代の背番号0がそろい踏みする光景のほか、津田恒美投手の背番号14(昭和末期のビジター用ユニホーム)を着る広島ファンも見られた。津田氏は33歳の誕生日が近づいていた1993年7月20日、脳腫瘍のため、32歳の若さで黄泉の国へ旅立った。
あれから17年がたち、背番号14のレプリカユニホームを見ると、感慨深いものがあった。私は33歳だったせいか、"津田氏の人生は、あっという間に駆け抜けていった"のだと。4年後(2014年)に38歳を迎えると、同じことを感じるに違いない。木村氏は38歳の誕生日が近づいていた頃に逝ってしまったのだから。
■巨人木村拓也コーチ追悼試合
両球団の選手、首脳陣のほか、ボールボーイも喪章をつけ、試合前に追悼セレモニーが行なわれる。そのあと、木村氏の長男(10歳)が背番号0のユニホームを着て、始球式を行なう。見事なストライクで試合が始まり、手に汗握る攻防で熱戦を展開する。
巨人1点のビハインドで迎えた8回ウラ、木村氏と同級生の谷佳知選手が代打逆転満塁本塁打を放ち、7-4で勝利。広島はここまで巨人戦未勝利のため、特別なこの日の試合は勝ちたかったに違いない。
試合後、谷選手がヒーローインタビューを受け、インタビュアーが木村氏についてきかれると、感極まり、ファンの声援があと押しして胸中を明かした。私も目が潤み、この日は巨人が勝った嬉しさよりも木村氏を失った悲しみが改めて身にしみた。そして、木村氏の偉大さを再認識した。
この日、特別献花台は11,789人が訪れ、追悼試合の観客動員数は東京ドーム2010年春季最多の46,673人を記録した。両軍の選手や首脳陣の皆様、素晴らしい試合でした。ありがとうございました。
あの日から5年。改めまして、木村氏の御冥福を心よりお祈りいたします。
(Railway Blog.「球界が悲しんだ日」、「巨人木村拓也コーチ追悼試合」より転載。一部、加筆修正しています)