「#保育園落ちたの私だ」の威力
いまこのハッシュタグがされたツイートがツイッターを席巻している。「保育園落ちた日本死ね!!!」のブログをきっかけにして、これまでたまりにたまっていた怒りが表面化したということだろう。国会前でのスタンディング活動も展開された。夏に参院選が控えているという状況の中で、政治的な課題が大きくフィーチャーさせることは政策を前進させる大きな原動力となるはずだ。この声がどんどん国会に届けば、この問題が政策的に極めて優先的な課題であるということが多くの政治家に分かるはずだ。
このブログが匿名かどうかについては正直あまり意味を持たないと考える。それは、これまで保育所を希望する多くの者が待機児童を余儀なくされ、仕事を諦めざるを得ない結果になったというのは紛れもない事実だからだ。
これはどう考えても健全な社会とは言えない。筆者が考える理由は大きく2つある。
人は生活するため、自己実現するために働くのだ
1つは、人は幼児期から高校・大学、さらには大学院までかけて、生活をするため、自己実現するために学んでいるということにある。性別や貧富に関係なくそれは人としての権利だ。人は自分が学んできたものを活かしながら、仕事を得たり、自分で仕事を起こしたりする。そして、人々が働くことで国は支えられている。それを考えれば、ライフスタイルに応じて働ける環境を提供することは国としての責務であろう。働くことができなければ、教育的投資としても相当な損失となる。それを見過ごしていいのだろうか。
同時に、子どもを生み育てることも当然の権利だ。未婚者が増える中でエゴと言われるかもしれないが、子どもを生み育てることは自分の人生にとってかけがえのないのものであるとともに、それは社会を支えることでもある。子育てしながら働き続けることは決してエゴではない。仕事と子育てが両立できる仕組みを整備するのは国の義務だ。
「国のため」に働くことは基本的には結果論であって、「自分の人生のため」が結果的に「国のため」になる働き方、生き方こそ求められるべき社会だ。しかしいま、所得の格差が広がる中で子どもを生み育てる権利すら行使できないという惨状にある。逆に言えば、2人で働いて世帯を成り立たせるようにすることも国としての責務であろう。
実際に子どもを生み育てないことを選択する人生があってもいい。ただし、「次世代」をともに育てあうことは必要だ。そうした機運が起きなければ社会は一層持続的な可能性を失うことになる。少子化の問題を問題と捉えない向きもあるが、高速化する少子化は、津波の引き潮のように強力に日本の国力を根こそぎ衰退させることになる。少子化をソフトランディングさせ、急激な人口減を鈍化させることができなければ、年金・介護・医療が加速度的に増加する中で、日本は2020年のオリンピックを契機に危機的状況に陥るのではないだろうか。
そうした課題を食い止めるには、労働力人口を維持していくことがまずは必要であり、それは女性だけではなく、高齢者や障がい者、外国人が働ける環境を整えることが前提となる。そして、女性が働き続けるためには、長時間労働を改善し、父親も子育てに関わることが必須であり、その上で基本的には子どもを預ける場所が当然必要になってくるということだ。
国だけではなく企業の責任も重い。事業所内保育所の整備については、国は2016年度予算案の中で事業主拠出金を引き上げ、「仕事・子育て両立支援事業」を新たに創設するとしている。事業所内保育業務を目的とする施設などの設置者に対して助成や援助を行い、事業所内保育所を拡大する方針だ。
ただ、都心に本社を抱える企業の足元に事業所内保育所がバタバタと設置され、電車通勤で子ども同伴という形はあまり普及するべきではない。たとえフレキシブルな勤務だとしても、働く側、子ども側双方の負担が大きいからだ。都心にわざわざ子どもを連れてこなくてもいいように、テレワークを進めたり、企業ごと郊外や地方に移転するなどの対策を講じるべきだ。都心に一極集中させる事業モデルは少子化には悪影響だということを企業がもっと自覚する必要がある。
海外に商品を輸出し多くの収益を上げる大企業の中には、「少子化ゆえに海外戦略を進める」という声も聞こえる。しかし、少子化を招いているのは大企業の責任も大きく、それ相応の社会的な負担をするべきであろう。
勤労の権利・義務があるのに働けない環境とは
以上のような考え方とともに、健全な社会と言えないもう1つの理由は、現在の日本国憲法の理念から逸脱したものだからだ。第27条第1項は次のように明記している。
すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
国が保育所の整備をこれまで怠ってきたことは、憲法が定めるこの「勤労の権利」に照らして憲法違反状態であるとともに、同時に国は勤労の義務を課しているわけだから、義務を果たさせないという意味でも憲法違反状態であると考える。
つまりは、保育所に入所できないことによって、国は国民が「働きたい」という意思を実現させないばかりか、さらには国民に対して「働け」と言っているにもかかわらず、働かせない環境を作っているのだ。これを憲法違反と言わずになんと言うのだろうか。しかも、これは第2次世界大戦終結後の2年後に制定されたもの。70年近くも憲法違反の状態を放置していることになる。
それにもかかわらず、高度経済成長期は男女役割分業主義が蔓延り、ほとんどの女性は結婚退職を余儀なくされ、憲法がないがしろにされた。自民党は憲法を改正したいようだが、この条文を特に変えようとはしていない。2011年に発表された自民党憲法改正草案をみてみると、
全て国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
ーーとなっており、意味はまったく変わっていない。しかし、現状の予算配分をみる限り、勤労の権利を行使させず、義務を負わしてさえくれない状態が今後も続くのではないかと思わざるを得ない。
明日ゼロにできない待機児童のジレンマ
昨年4月に子ども・子育て支援新制度が始まり、待機児童の解消や、保育の質の向上に向けて大きな転換が行われた。2012年8月の民主党政権時に民主・自民・公明で合意した時点においては、消費税増税分から7,000億円を、さらに他から財源を確保し、計1兆円超の財源を確保して、保育の質・量を向上させることになっていたが、残念なことに3,000億~4,000億円は一向に確保されず、財政的に不十分な形で新たな制度が始まってしまった。
年金・介護・医療という社会保障の牙城に「子ども・子育て」という分野が加わったのは画期的ではあるが、その財源の格差は歴然としている。高齢化が進行し、さらに年金・介護・医療が増え続ける中で、子ども・子育て予算は新たに7,000億円が確保されたに過ぎない。保育士の賃金も1兆円超の財源を確保した際には、5%の賃金引き上げを目標としていたが、現状3%に留まっているのが現実である。
5%でも十分とは言えないのに、たったの3%。保育士に安定した賃金を保障することなくして、保育士は長く働き続けることはできない。保育士が確保できなければ、当然保育所を開所することもできず、ましてや東京ではその場所すらなかなか確保できない。
新制度では、小規模保育や家庭的保育なども新たな認可の保育施設として盛り込んでおり、受け皿は間違いなく拡大した。しかし、受け皿が拡大することで、いままで諦めていた潜在的な入所希望者が顕在化し、待機児童数を減らすことはできなかった。しかし、この働きたいと思う親の動きを誰が批判できようか。
我々は働くという権利に基づいて働き、働けという義務に基づいて働いているのだ。
いまのままでは、憲法違反の状態は続くことになる。