Photo by hana*hana
先週、朝日新聞の「声」欄に、12歳の男子中学生による「学校かばん10キロは重いです!」という投稿が掲載された。
彼はリュックで登校しているのだが、「教科書やノートを詰め込むと約10キロになりました。これには自分でも驚きました」と書いている。
私も小学生の娘のランドセルの重さに毎朝驚き、玄関まで送るつもりが、つい学校まで送って行ってしまう始末である。ただ、娘は「小学生はランドセルを背負わなければならない」と強固に信じているので、サブバッグしか持たせてくれない。
私が小学生の頃は、まだ合成皮革のランドセルは少なく、本革が主流であったため、ランドセル自体は今より重かった。しかし、教科書は今より小さく、紙の質も悪かったため、中身は軽かった。
今は教科書もノートも大型化し、カラー印刷の教科書は紙自体が重い。なおかつ、「ゆとり教育」終了後、教科書や教材の量が一挙に増えた。一説には25%増とか。中学生のかばんが10キロというのもうなづける。
ランドセル以外にも、家庭科や図工、クラブで使うもの等が入ったサブバッグや、学校からそのまま通う習い事のバッグ、月曜日には体育着や上履きが加わり、小学生の持ち物はやたらと多い。
投稿した彼によれば、「米国では、教科書は学校用と家用で二つずつあるようです。これならわざわざ持ち帰らなくていいし、家でも勉強できるのでいいなと思いました。インドの一部の州では、子どもの健康を考え、学校かばんの重さは自分の体重の10%までと決められているそうです」とのこと。最後に「こう考えると、やはり10キロは重いです。なんとかならないでしょうか」と問いかけている。
とりあえず、「置き勉」を解禁することでかなり楽になるだろう。日本では「置き勉」はいけないこととされているが、自宅での学習に必要のないものを持ち帰っても意味がない。
それから、投稿した彼はリュックを使っているのだが、ランドセルだともっと重い。
何より、小学生に重すぎる荷物を当たり前のように背負わせてしまう目くらまし的な存在がランドセル、正確には「ランドセル文化」ではないかと思う。
ランドセルは小学校入学の象徴であり、それを初めて背負うとき、たいていの小学生はうれしくて仕方がない。だから、祖父母や両親は、少しでも子どもの意に沿うものをと「ラン活」に精を出す(1)。また、真新しいランドセルを背負う新1年生の姿は傍目にもまぶしく、ほほえましい。こうしたランドセルに対する特別な思い入れの総体が、日本独特の「ランドセル文化」である。
ランドセル文化の前に、大人たちは思考停止してしまい、中身のことなど二の次である。また、お祝い品であるため、値段についても思考停止しがちなのだ。
同じものだからこそ、売る側はブランドやデザインで差別化を図ろうとし、「シックスポケット(両祖父母と両親合わせて6人分の財布)」を期待して高級化を進める。しかし、平均4万2400円(2)という値段が経済的に厳しい家庭も少なくない(ちなみにうちは、2万円台で収めた)。きょうだいが多ければなおさらである。お下がりをもらうという手もあるが、なにしろランドセル文化の下では、1年生のランドセルはピカピカであることが望ましいということになっている(3)。
ランドセルを廃止したものの、また復活させた自治体が存在するのも、この強固なランドセル文化のためだろう。
私もラン活(「卵活」ではない)に精を出した1人であり(できるだけ安くあげようと精を出した)、入学式に子どものランドセル姿を撮りまくった1人なのだが、過熱する一方のラン活には疑問を感じるし、重すぎる中身もどうにかしてほしい。
(1)「"ラン活"なせ早まっているの?」NHK NEWS WEB
(2)ランドセル工業会
(3)家計の負担を考慮し、ランドセルを無料配布する自治体もある。
(2017年6月23日「田中ひかるのウェブサイト」より転載)