朝3時の電話。義弟からだと知っていました。
朝がくる度に、妹の命がもう一日続く事を喜びながら目覚めていたけれど、その終わりが近い事は、電話が鳴る前にはもう解っていたのかもしれません。
魅力学研究家の中原晴美です。
祖母は美容家山野愛子、母も美容講演家のマダム路子、熟年再婚した義父は俳優、長弟は映像プロデューサー、妹はライター、そして次弟は、お笑い芸人の品川祐。美容とエンターティメントの分野との違いはあれど、みんな人を楽しませ、喜ばせ、笑顔を創る事を仕事としています。
私はNY、長弟はLAと、それぞれ長く暮らしていて家族兄弟4人が揃うことなど、20年近くなかったのですが、2010年2月、妹の実花が突然の余命宣告を受けた事で家族が集まり、2年間妹の命を見守る日々を送りました。
6年前の11月。妹の言動がおかしいという事に気づいてから、あっという間に、病状が進み、歩けなくなり記憶も曖昧になるまで、4ヶ月。医師から告げられた病名は、「脳腫瘍 膠芽腫 グレード4」。余命数ヵ月と宣告されました。
突然の妹の病気に家族は戸惑うばかりでしたが、検査のために大きく頭を切ったにも関わらず、大脳にベッタリとついた腫瘍のせいで、記憶や自己認知があいまりな妹は、「みんな何を騒いでいるの?」とあっけないくらいに屈託ない表情。
その様子を見て芸人の弟が言いました。「姉ちゃんは悲しんでいない、俺たちが悲しむのはやめよう、泣くのはやめよう。笑って、楽しませて、きっと免疫が上がれば、奇跡が起きるに違いない」と。
その日から、にわか芸人のようになった家族や友人達。表情の乏しくなった妹を笑わせるためにあれこれと工夫を凝らし、どれだけ妹を楽しませられたかを競うかのように 日々笑って過ごしました。
妹は小さい頃から、近所のご老人の所や赤ちゃんのいる家に出入りしては、お話相手をしたり世話をしたりと、老若男女分け隔てなく付き合える不思議な力を持っていました。女の子の友達も多いけど、負けないくらい男の子の友達も多く、友達に子供が生まれれば、映画や遊園地などへ一緒に遊びに出かけ、友達親戚の子供たちにも慕われていました。
妹は、相手を見た目や、職種、学歴、年齢で、区別する事なく、いつも柔らかな心で、受け入れる事が出来た人でした。だから、病室はいつも沢山の人で溢れていて、笑い声が廊下まで響き渡るほどに。
当時私が、妹の病状や治療の経過を家族友人に、知らせるために始めたブログのタイトルは「極上の笑顔で」。
その内容は、誰が訪れ、どんな事に妹が笑い、どんな言葉を妹が言うのかを毎日綴るような私の日記。その最後には、「今日も極上の笑顔で」と毎日自分に声かけるつもりで書いていました。
そんなみんなの笑顔の持つ力は妹に奇跡を起こしました。新薬による治療もあって、腫瘍が10分の1までに小さくなり、車椅子から立って自分で歩けるようにまで。
「極上の笑顔で」ブログを読み、芸人の弟に配慮して偽名にしていたので、「私、リカ、だったのね。へえ~みんなこんなに大変だったのね」と読むことができるようにまで回復。家族兄弟みんなで揃っていろんな事を楽しみました。中心はいつも妹。
偉そうな長弟、生意気な次弟、外面が良いのに暴君姉(私)の無理難題を全部引き受けて、ブツブツいいながらも兄姉弟の喜ぶ事をしてきてくれた妹へ、優しい言葉をかける私たち。20年の空白を埋めるかのように。母は4人が揃っている時間を眩しげに見つめていました。
それでも、病はその手を緩めませんでした。大脳から、小脳へ転移。今度は身体の機能を奪い、三半規管や、視覚などに不自由が始まり、真っ直ぐ歩けない、目の焦点が合わない、声がでない。あと数ヵ月との余命宣告がまたも下されました。
発病のときから寄り添ってくれてい同級生だった彼が、結婚の決意をしてくれたのは、2度目の余命宣告をされた時でした。最期の日々を夫婦として過ごしたいからと。
また歩くことが難しくなった妹に、メイクとヘアーを施す。美容師として姉が出来ること。「おねーちゃん、そばかす綺麗に隠してよっ!!」元々おしゃべりな妹は、病気になってから、女王様のように私たちを意のままに動かすごとく命令口調で言います「女王様、お任せあれ!」と私も受け答えします。
そんな些細なやり取りが、楽しくて、嬉しくて、妹が、そこに幸せそうにウェディングドレスを着て、柔らかく微笑んでいる姿が、誇らしくて、余命が数ヶ月だろうと、今、ここに生きている妹の存在がすべてなのだと感じていました。
私はNYで911を経験しています。
日本でも311や、そして世界中で紛争や、テロ、災害が、いつもどこかで起きています。それは政治も宗教も関係ない、愛する者がある日突然この世からいなくなる、という事実。
「人は死ぬ」そんな当たり前の事を、突然につきつけられる時に、私は「今日の命の奇跡」を思うのです。
妹がだんだんと弱っていって、声が出なくなり、食べる事も難しくなり、それでも相変わらず下手な芸人のようにお笑いを続ける私に、「おねーちゃん、だめねえ」とダメだし、突っ込みを入れてくる妹が、ただ、そうしてそこに存在し続ける事が奇跡なのだと、毎日命を数えた日々でした。
朝3時、身支度を整えて外に出ると、14番目の月、冬の空気が凛として美しい朝でした。妹は意識がなくなり、呼吸の間隔が、だんだん遠のいていました。
私は魅力学として、心と体を綺麗に健康にする勉強した中で、ヨガで学んだ事を思い出しました。「呼吸」という言葉は、生と死を表現しているということ。
呼~~赤ちゃんは息をオギャーと「吐いて」生まれでる。吐く力は生きる力。
吸~~人は息を吸い込み、吐く力が亡くなった時に、「息を引き取り」生を終える。吸う力はエネルギーの吸収。
だんだんと間隔が長くなり、呼吸が小さくなっていく妹のひと呼吸ひと呼吸に寄り添いました。小さく吸う、吐く。もう一度吸う。次の吐く息が、こない。「もう一度もう一度」と声をかける。
吸う...
そして、次の吐く息は戻ってきませんでした。
「もう頑張れないかな、疲れちゃった?」義弟が声をかける。
「よく頑張ったね、お疲れ様」と私。
静かな、静かな、旅立ちでした。
無意識に毎秒続いていく呼吸、その一息一息が、また続いていくと、私たちは信じているけれども、次の呼吸がもういちど戻ってくるということは、「奇跡」なのだと妹が教えてくれました。
だからこそ、今日どう生きるか。呼吸とともに、流れている時間をどう生きるのか。
妹が死にゆく旅立ちを呼吸とともに見守った静かな時間。その時に妹から私へと、命が紡がれたのだと思っています。妹が生きたかった命を私は他者へと活かして行かなければならないと心に光が灯った瞬間でした。
悲しみは不幸ではないという言葉が、後に私の中の希望となりました。妹の死は悲しいけれども、私たちが妹を見つめた2年間は、決して不幸ではなかったから。
妹という存在がこの世に42年間生きてくれたことを、精一杯喜び、愛した時間。いまも悲しみはそこにあるけれど、悲しみすらも愛おしんで生きて行きたいと家族みんなが思っていることだと思います。
この度、父母の熟年結婚がテレビで取材を受ける事になり、その結婚を後押しした妹の存在に焦点が当たり、初めて妹の死が、マダム路子の娘として、品川祐の姉として、テレビで放映されることとなりました。
妹と私たちの過ごした時間は、誰と比べようもない、私たちだけの宝物であるけれど、家族が病を得たり、旅立っていくことは、誰にも同じようにやってくる。特別なことじゃない。悲しみをテレビで訴えるのではなく、妹の生きた時間の喜びを伝えることで、すべての人が自分の命の奇跡に気づき、一呼吸ごとの生き方を大切にして欲しいということが伝わればという気持ちです。
妹の命は私の中で生きている。
愛する者を失った時、残された者が、どう生きるのか、死者の生きたかった時間をどう生きるのか、それが死者への祈りだと思っています。
スーパークールな姉の私、慣例的生き方に反発気味の長弟、自由に好き勝手に生きる次弟、世界中に散らばり好きなように生きてきた兄弟を呼び集めてくれて、柔らかな心で、沢山の人に愛される姿を見せてくれた妹。
兄弟の私たちにもその生き方をすこし分けてくれたのかもしれません。笑顔の持つ力を信じ、それぞれの仕事を通じて人を喜ばせたい楽しませる事ができればと弟達も随分柔らかくなりました。
私自身も妹への祈りを込めて、「生きることの奇跡を知り、日々の命を喜んで大切に生きる事、そして、柔らかな心で相手を受け入れていくことが本当に周りを変えていく強さなのだという事」を伝えていきたい。
妹の死は悲しみではあっても不幸ではなく、その死によって、妹の命を私の中で、永遠に生かして行けるように、今日も極上の笑顔で幸せに一日を生きるのです。
テレビ放映は、
11月23日(月) TBS 私のなにがいけないの