私が「戦争指導者」の責任と、「国策を誤り」という点にこだわるようになったのは、日米開戦前夜に存在した「総力戦研究所」と、祖父の弟であり南シナ海で戦死した細野光男の存在が大きく影響しています。
昭和16年に設立された総力戦研究所は、対米開戦について外交、財政、輸送、食糧などについてあらゆるシミュレーションを行い、同年8月に、「緒戦は成果を挙げるものの戦争は長期化し、最終的にはソ連の参戦もあり国力の劣る日本は必ず負ける」という結論を出しました。この結論については、当時の近衛総理、日米開戦時の総理になった当時の東條陸相も説明を受けています。後に行われた極東軍事裁判において、総力戦研究所の教官であった堀場一雄氏は、「研究の成果を政府が採択してくれたならば、大東亜戦争は起こらなかったであろう」と語ったということです。
歴史は総力戦研究所が出した結論が正しかったことを証明しています。ハルノートに見られるように、開戦前夜のわが国が追い詰められていたことは間違いありません。それでも、当時の指導者は何としても日米開戦を阻止すべきだったと私は考えています。
以前にも書きましたが、細野光男は18歳になった次の日に海軍に入隊し、2年の訓練期間を経て、昭和19年11月に経て南シナ海へ向かいます。その二週間後、光男が乗る水雷艇は撃沈され戦死しました。わが国はすでに制海権を完全に失っていましたので、祖父の話によると、送り出した両親も本人も死を覚悟していたようです。
もう一つは、原発事故と福島の問題に直面したことです。3.11の直後、我々は自衛官、警察官、消防職員、そして原発作業員に過酷な環境での作業を強いることになりました。ある危機管理官庁の幹部から、「補佐官、あそこは安全なのですか」と問われた時、「行ってください」と言うしかありませんでした。あの時、私自身が彼らの代わりに現場に行きたいという衝動に駆られながら(私が行っても何の役にも立たないことはわかっていましたのでそのような選択肢はありませんでしたが)、彼らが命を落とすようなことがあったら、責任を取って政治家を辞めようと腹を決めていました。有事において、「行った人間」と「行かせた人間」の立場に彼我の差があり、結果に対する責任は「行かせた人間」にあります。
原子力発電は、国民の一部に反対はありながら、全体としては国民の支持を得て進められてきました。先の大戦もそうだったでしょうが、新聞などのメディアが世論に決定的な影響を及ぼすのも事実です。だからといって、国の指導者が、結果に対する責任から免れるとは私は思いません。
昨日(2月4日)の委員会で私の質問に対し、石破大臣は「何も知ることなく召集令状1枚で戦地に送られ、1発の弾も打つことなく飢えて死んでいった人たちへの責任というのは誰かが取らなければならないし、情報をきちんと知り、決断した人はそれなりの責任があると思う。国が焦土と化し、多くの人々がなくなった。国策を誤っていないとは言えない」と答弁しました。この点で、石破大臣と私の見解は一致しています。
先の大戦について、国民の中に様々な意見があることは私も理解しています。しかし、政治家は、国策を誤ったこと、そして戦争指導者の責任を正面から認めるべきだと思うのです。自戒を込めて。