【神保哲生さんに聞く日本の政治とメディア】 「つぶす」発言の以前にある問題とは(上)

インターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム」を主宰するビデオ・ジャーナリスト神保哲生氏に、最近の政治によるメディアへの圧力、日本の政治メディアの現状について聞いた。

 インターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム」を主宰するビデオ・ジャーナリスト神保哲生氏に、最近の政治によるメディアへの圧力、日本の政治メディアの現状について聞いた(取材日は7月7日)。カッコ内は筆者による補足。

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 このところ、大きな話題を集めたのが、例の新聞を「つぶす」発言が出た自民党の会合だった。6月25日、安倍首相に近い若手議員による勉強会「文化芸術懇話会」の初会合が自民党本部で開催され、これまでにない強い口調のメディア批判があったという。朝日新聞、毎日新聞、沖縄タイムズなどの報道によると、「マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番だ。文化人や民間人が不買運動などを経団連に働きかけて欲しい」と言った議員がいたほか、講師として呼ばれた作家百田尚樹氏が「沖縄の二つの新聞者は頭にくる。つぶさないとけない」と発言したという。同氏はその後のツイッターで、「本当につぶれてしまってほしい新聞」として朝日、毎日、東京新聞をあげた。まず、この問題から、神保氏に聞いてみた。

文化芸術懇話会の会合の本当の意味とは

――安倍政権や自民党のメディアへの圧力については近年も幾つか目立つものがあったが、まず、今回の「つぶす」発言をどう見ているか。

神保哲生氏:自民党の文化芸術懇話会の性格が、必ずしも正確に理解されていないと思う。

 一部では私的な会合でのオフレコ発言がメディアに報道され、それが問題になるのはおかしいとの主張があるようだが、あの会合を単なる私的な会合と考えるには無理がある。

 確かに、あれは自民党の当選1、2回の若手議員の会合であり、政府の正式な会合でもなかったし、党の正規の部会や委員会の会合でもなかった。あくまで若手議員たちの私的な勉強会という位置づけということになっているようだが、しかし、実際は安倍チルドレンと呼ばれる、首相を支える立場にある若手国会議員の集まりで、しかもそこに首相に非常に近い立場にある、党と政権の幹部の二人が参加していた。

 一人は安倍さんの特別顧問を務める萩生田光一さん。萩生田さんは特に自民党でメディア対応の窓口となっている人で、前回の総選挙の直前に、萩生田さんの名前で、報道機関に対して公立中性な報道を要請する書簡が届いたことは周知の事実。

 その書簡は、中立性を損なったとしてテレビ朝日の報道局長が国会に証人喚問された件((注:「椿事件」:1993年にテレビ朝日が放送法で禁止されている偏向報道を行ったと疑われる事件)を「以前にこういうことがあった」という形で仄めかすことで、放送局を威嚇する内容だった。

 会合に参加していたもう一人の首相側近は、加藤勝信官房副長官。官房副長官なので、日頃から総理官邸で首相を補佐する立場にある。いずれも首相と日常的に直接会っている人たちだ。

 萩生田さんは4回当選で、加藤さんは5回当選なので、本来は今回の若手の会合に顔を出すような立場の人ではない、言うなれば大物だ。他の参加者がいずれも1、2回生だったことから、安倍さんの若手応援団の会合に首相の代理としてその側近中の側近の2人が参加しているというのが、あの会合の位置づけだった。ちなみに自民党の1、2回生というのは、いずれも安倍政権になってから初めて当選した人たちだ。

あえて政権中枢の大物を招いた

 つまりその会合には、あえて官邸と党の首相側近の二人が招かれていた。もしあれが若手議員だけの集まりであれば、メディアも取材はしていないかもしれないし、その場での発言内容があそこまで大きく報じられることもなかっただろう。

 しかし、あえて政権中枢の大物を招いて、なおかつあえて、保守的な立場から物議を醸す問題発言を繰り返している著名なベストセラー作家の百田さんを呼んでいる。そうすることで、意図的に会合の注目度を高めている。つまり、そこでの発言をあえてニュースに取り上げられやすいように、しっかりと「メディア対策」を講じているということだ。

 しかも、聞いたところでは、あの会合はメディアに頭撮り(注:冒頭部分をメディアに公開し、映像や写真の撮影を認めること)をさせている。これもまた、メディアに取り上げてもらうことを意図した「メディア対応」をしているということだ。

 会合の参加者などからは、会合自体は非公開であったにもかかわらず、記者が壁耳(記者が壁に耳を当てて部屋の中の話を聞くこと)をして内容を盗み聞きしたことに対する批判も聞かれたようだが、それもおかしな話だ。

 あえて話題作りのための様々な設定を施し、メディアに頭撮りまでさせた上に、会合ではわざわざマイクを使って、外からでも声が聞こえるように大きな声で話していた。私的な会合で、外部に聞かれては困る話を、マイクを使って大声でやるだろうか。

 要するに、どう見ても「私的な会合」とはとても言えないような設定を、自ら率先して図っていたということだ。

 これは、頭撮りの段階で既に今日は徹底的にメディア対策を議論するぞ、というポーズとも脅しとも受け止められる発言をしてみせることで、「統治権力はメディアのことを厳しく監視しているし、その対策も色々考えているぞ」というメッセージを発するところにその目的があったと考えるのが普通だ。

 もしそれを意識せずにやっていたとすれば、あまりに素人すぎて、お話にならない。国会議員や政権というものが持っている権力の存在をおよそ認識できていないことになり、政治家失格と言わねばならない。

 もしそれを意図的にやっていたのであれば、発言が暴走気味になったことが批判されたくらいで、簡単に旗を降ろしてしまうとは、何とも情けない。

 首相に近い人たちが参加する政権与党の政治家の会合で、メディアへの圧力のかけ方がまことしやかに議論された。そして、そこでのやりとりが問題になると、あれは私的な会合だったと言い訳するのは、権力の座にある者としては、あまりにも見苦しい。

 最近は安保法制の国会審議で、憲法学者が口を揃えてこの法案を「違憲」と断じて以降、大手メディアも勇気づけられたとみえて、いつになく安倍政権に対して批判的な報道を続けている。

 それが政権を逆風に晒している一因となっていると考えた政権周辺の人たちが、メディアを牽制するための1つの手段として、あのような会合を企画したところ、逆に、やぶ蛇になってしまい、かえって批判に拍車が掛かってしまった。まあ、だいたいそんなところではないか。

 しかし、それにしても、言っていいことと言ってはいけないことの区別が付いていない人たちがあんなにいるということには、正直驚いた。

 あの会合での発言は問題外の発言なので、それを批判をすること自体は大切だが、それはあまりにもレベルの低いところの議論でしかない。

 この問題はもっとずっと根が深い。だから、問題発言をした政治家を批判するだけで終わってしまってはだめだ。

メディアが圧力に脆いことに気づいた政権

 安倍政権になってから、メディアに対する露骨な圧力が目立つようになった。これは安倍政権が、日本の大手メディアが意外と圧力に脆いことに気づいた結果だと思う。

 実際に経団連に頼んでメディアへの広告の出稿を減らしてもらうことなど、現実的ではないし、経団連に広告を減らすよう言ったところで、経団連の会員企業が実際に広告を減らすとはとても思えないし、沖縄の新聞を潰す話にしたって、彼らに認可業種でもない新聞を潰す手立てなど何もない。

 しかし、政権与党がそのようなメッセージを発すれば、メディアは厭が応にもそれを意識するようになる。

 いざ真正面から圧力がかかればメディアも抵抗するだろうから、実際に圧力をかけて報道内容を変えさせることは容易なことではないが、特に日本ではそうした発言でメディアを萎縮させ、自主規制を引き出すことがそれほど難しくないことに、権力が気づいてしまったような気がする。

 今回の若手の会合は批判を受け、それが安倍政権にとっても支持率の低下など、よりいっそうの悪影響を与える結果となった。しかし、長期的にそれがどのような波及効果を生むかは、現時点ではわからない。

 目先では百田氏に対する批判とか、参加していた議員の発言への批判とかが目立ち、結果的に政権与党にとっては誤算となっているが、「この政権は常にそういうことを考えながら、メディアを厳しくウォッチしているぞ」というメッセージだけは、確実にメディアに伝わっている。その意味では、長期的にはこの会合を開催した当初の目的は果たしていると見ることができるからだ。

メッセージ効果

――メディアを怖がらせてしまった?

 あれしきの発言で萎縮する記者はいないだろうが、メディア企業の経営陣に対する一定のメッセージ効果はあったのではないか。

 テレビ朝日の「報道ステーション」とか、TBSの「報道特集」のように、大手メディアの中にも現時点では安倍政権に対して厳しいスタンスの報道を続けている番組がいくつかはある。

 同じ放送局の他の番組では必ずしも同様の政権批判スタンスを取っていないことを見ると、これらの社内にも色々な考えがあることが窺える。例えば、社内で政権批判路線を快く思っていない人が、今回の一件でスポンサーがびびりだしているなどと言って、政権批判を控えるべきだと主張し始める可能性は十分にある。

 今回の会議自体はやり方も稚拙だったし、内容がひどすぎた。しかし、これを安倍政権になってから続いている、ある種の「メディア・コントロール」の一環として理解することは重要だ。

 文字通り、飴と鞭を使ってメディアをしっかり押さえることが、政権を安定させ、政権が持つ政治的なアジェンダ(達成目標)を実現する上では不可欠であることを、安倍政権は前回の政権時に痛いほど思い知ったのだろう。今回、安倍政権が戦略的にメディア対策を行っていることは間違いない。

 統治権力がメディアに手を突っ込むことには警戒が必要だが、どこの国でも政権はメディア対策に力を入れるものだ。安倍政権のメディア対策は、決してそれほど高度なものとは思わない。しかし、特に長年政治とメディアの蜜月が当然視されてきた日本では、メディアの側がそれしきのメディア対策にも太刀打ちできていないところが、とても心配だ。

日本における、報道の「中立性」とは何か

――政治家が特定の報道メディアの取材を拒否する、あるいは政党が報道番組への出演を「公平さを欠いている」という理由で出演を事実上拒否するという例も近年、あった。そのほかにも似た様な事例があるが、今回の例も含め、政治が戦略的にメディア対策を進めているということか。

 安倍さんあたりは戦略的に動いているというよりも、心底、日本のメディア報道が偏向していると思って怒っている可能性はあるが、そもそも首相のそうしたキャラクターも含めてメディア対策を考えるべきだ。

 安倍さんは「ニュース23」という番組に出た時に、街頭インタビューを聞いて、自分の政策を批判する人が多く出ていたことに怒りを露わにした。政策を支持する人もいるはずなのに、報道が偏向していると言うのだ。

 実際のオンエアでは政策を支持する人も何人かは紹介されていたようだが、人数的には批判の方が多かったそうだ。しかし、そもそも街頭インタビューというのは世論調査ではないので、そこでの賛成・反対の比率に何か重要な意味があるわけではない。

 「賛成の人はどういう理由で賛成なのか聞いてみました」と言って、賛成の意見だけを集める企画があってもいいし、その逆があってもいい。そんなところにメディアの「中立性」を求めるのは間違いだし、編集権の侵害だ。それは中立性の問題ではなく、単に「平板」な報道をしろと言っているに過ぎない。

――その安倍さんの発言自体も批判されたが。

 若干裏話になるが、例えば安保法制について、今、実際に街頭でインタビューをすると、圧倒的多数が安保法制には反対だと言う。そこには、あえてマスコミの取材に応じようという人の中には、何かに反対していたり怒っていたりする人が多い傾向があることからくる、メディア特有のバイアスの部分もある。しかし、仮に実際の街頭インタビューをした結果、9割が反対意見だったとしても、放送局としては9人の反対意見と1人の賛成意見を紹介することは憚られるだろう。局としては、あえてバランスをとって、実際の比率以上に賛成意見を多く紹介している。

 安倍さんの主張が正当だとすれば、局はむしろ取材結果を曲げて、政権への賛成意見を水増しして報道したことになる。政権にとって都合のいい偏りは許されるがその逆は許されないというのでは、全体主義国家だ。

 日本では報道の中立性という時の中立性の意味が、かなり初歩的なレベルで誤解されているように思う。中立とは真ん中に立つことではない。賛成意見と反対意見を同じ分量だけ報じれば中立性が担保されるわけではない。

 この話を始めると長くなるが、ジャーナリズムにおける中立性の最も初歩的な定義は、どこに立つかは記者自身、あるいは報道機関自身の判断に委ねられているが、そこに立った上での報じ方については、ジャーナリズムのルールに則らなければならないというもの。

 そして、そこでいう基本的なルールとは、批判は自由だが、批判をする以上、批判をされた側に反論の機会を与えなければならないというもの。中立というと、どうしても真ん中という意味に受け取られるので、中立・公正、もしくは公正原則(フェアネス・ドクトリン)と言った方がわかりやすいかもしれない。

 これが日本での例え話として適当がどうかはわからないが、自分がアメリカのジャーナリズム・スクールで学んでいた時に教わった例は、フェアネス(公正さ)とは何かを理解するためには、裁判をイメージするとわかりやすいということだった。つまり、被告の罪を立証するためにどこを攻めるかは、それこそ検察の裁量に委ねられるべきものだが、その裁判が公正(フェア)なものであるためには、検察が証人なり証拠なりを立てて一箇所を攻めてきたなら、必ず弁護側にも反証、反対尋問の機会が与えられなければならないというものだ。

日本のメディア産業の特殊さ

――イギリスでは「インパーシャル」(偏らない、公平な、という意味)という言い方をしてる。Aという見方と、Bという見方がある、と。この2つの見方を出して、それで公平さが担保された、と見る。「取材に応じなかった」という一言でも出す。その点では、日本のメディアは傷つきやすい位置にあるのではないか。「中立で」と言われたら、議論を返せないような?

 それは重要な論点だ。日本のメディア産業は、かなり、世界のメディア産業の中でも特殊な性格を持っている。

 それは日本のメディア、とりわけ新聞とテレビと通信社が、あまりにも大きな特権を享受しているという点だ。そしてその特権はいずれも政治との関係において与えられているものだ。そのため、欧米基準でのインパーシャリティ(中立性)が担保されていたとしても、日本のメディアは政治からの要求をそう簡単には無視できない、ある種の弱みがある。

 その中には最近結構知られるようになってきた記者クラブという制度もある。他にも日本では新聞社が放送局に出資する上で全く制限がないこともその中の一つだ。いわゆる、クロスオーナーシップと呼ばれるもので、その制限がないために日本では5つの全国紙を中心に大手メディアがことごとく系列化し、コングロマリット化している

 これは、メディアの多様性を担保する上でも障害になっているし、新聞とテレビという世論に最も影響力を持つ2つのメディア間に相互批判が起きないという意味でも、日本のメディアの腐敗や堕落の重大な要因となっている。しかし、こうした特権はその一方で、特権の恩恵を受けているメディア企業には莫大な利益を約束してくれる貴重な経営のリソースとなっている。

 他にも、たとえば日本の新聞は世界でも希な再販価格維持制度(再販制度)というものによって守られていて、市場原理の競争から免除されている。新聞社が一定の利益が出る水準で販売価格を決定し、販売店に対しその値段で売ることを強制することができる。電力会社の総括原価方式と似ていて、元々利益を確保した価格に設定されているので、新聞社は利益が約束されるビジネスとなる。

 日本は市場原理を採用する資本主義国家なので、製品の値段は本来は市場が決めることになっているが、この制度の下では、価格が統制され、販売店は勝手に値下げすることができない。

 これは、戦後、日本がまだ焼き野原からなんとか復興しようとしているときに、新聞という公共財を過当競争に晒してしまうと、例えば公共性の高い良質な新聞が競争に負けてしまい、商業主義優先のセンセーショナルな報道をする新聞だけが残ってしまうかもしれない。それが戦前の翼賛体制を礼賛する新聞を生んだという反省もあり、日本は戦後、再販制度で新聞を守ることを選択した。

 その結果、新聞は短期的な競争原理から解放され、利益が約束される中で、ある程度長期的な計画の上に立った経営や報道が可能になった。その利益で全国に販売網を整理して、今日の非常に安定した新聞産業の基礎を築くことができた。

 インターネットの時代に日本の新聞がまだ比較的安定している最大の理由は、販売網が整備されているため、広告費への依存度を低く抑えられているからだ。また、主要新聞は世界でも群を抜く発行部数を持つようになった。日本の人口は1億2千万で世界で10番目だが、読売と朝日は世界でも1位と2位の発行部数を誇る。

 私自身は戦後、再販で新聞を守り、新聞社が全国津々浦々まで販売網を整備したことは、先人たちに先見の明があったと思うし、大正解だったと思う。

 しかし、未だに市場原理に逆らって消費者から余分な料金を徴収することで、世界で最も巨大な新聞社を未だに守っているのはおかしい。しかし、なぜそれが変えられないかと言えば、再販によって守られたらばこそ新聞社は世論に強大な影響力を持つようになり、その影響力を使って再販に対する批判を抑圧したり、それを擁護しているからだ。

 また、本来は再販の直接的な当事者ではないテレビも、クロスオーナーシップによって新聞社と系列化しているため、新聞社にとっては虎の子の再販問題を一切扱わおうとしない。

 忘れてはならないのは、再販は市民にとっては取るに足らないマイナーな問題ではないということだ。一般の市民が毎日、新聞や書籍や雑誌を買うために支払っている料金が、日本では再販によって統制され、実際の市場原理よりも高いものになっている。消費者は本来必要な値段よりも余分にお金を支払って新聞社や出版社を守っている。守りたいと思って守っているのであれば、それでも構わないが、余分にお金を払っていることを知らされていないため、自分たちがそれを守っているという意識もない。

 しかも、余分なお金を出して守っているという意識もないので、その前提にある「公共性」を要求するマインドも起きない。新聞社はそうして溜め込んだ利益で、不動産投資をしたり、クロスオーナーシップ規制がないのをいいことに、全国の放送局に出資して、役員を天下らせたり、他の新聞社を買収して傘下に収めたりしている。一体、消費者の中に、そんなことのために新聞に本来よりも余分なお金を支払わされていることを自覚している人が、どれほどいるだろうか。

なぜ政権に近づく必要が?

 記者クラブとクロスオーナーシップ、再販の3つを私は日本のメディアの三大利権と位置づけているが、そうこうしているうちに、大手メディアはものすごく大きな特権を享受することが当たり前になり、その特権を維持するために、どうしても政治に近いところにい続ける必要がでてきた。

 例えばテレビ局と、テレビ局を管轄する総務省は、当たり前のように人事交流をしている。テレビ局の職員が総務省に出向している。それは、総務省の行政機能をいろいろと勉強するためとか言っているけれど、実際は自分たちの生殺与奪を握る監督官庁から情報を得るためだったり、ロビーイングするためだったりする。報道機関としては取材対象であるはずの政府の部局に、職員を人質として差し出すようなことを平気でやっているのだ。

政府が直接放送免許を出す日本

 日本では総務省は放送免許を付与する主体だ。日本では放送免許の付与が、アメリカのFCC (連邦通信委員会、電報・電話・放送などの事業の許認可権をもつ独立行政機関)とか、イギリスのオフコム(放送通信庁。放送・通信分野の独立規制・監督機関。放送・通信免許の付与権を持つ)のような、第3者機関方式になっていない。政府が直接、放送免許を出している。

――独立性の面で、問題だ。

 その通りだ。政府はメディアとして監視をしなければならない対象だ。そこから放送事業の命綱となる放送免許を頂いている。

 実は、戦後の直後は日本にもアメリカのFCCやイギリスのオフコムのような制度があった。GHQは戦前、放送が翼賛体制を支える一翼を担ったとの反省の上に、電波監理委員会という独立した機関を設立した。

 しかし、日本がサンフランシスコ講話条約に署名して主権を回復したのが、1951年の9月8日、条約が発効して主権を回復したのが1952年の4月28日だが、何とその年の7月31日には郵政省の設置法が改正され、電波管理委員会は廃止されている。再び放送が国家管理に戻ってしまった。

 主権を回復した日本で、吉田内閣が最初にやったことの1つが、独立して放送を管理する電波監理委員会を潰し、放送を国家管理の下に戻すことだった。以来、日本では放送の国家管理が続いている。

――公的な組織に委ねられないだろうか。

 実は民主政権の時代に、原口総務大臣が民主党は日本版FCCを目指すという発言をしているが、大手メディアはどこもそんなことは報じなかった。(神保氏がやっている)「ビデオ・ドットコム・ニュース」は重要な改革の一つだと考え、結構力を入れて報じたが、マスメディアが軒並み黙殺したニュースは、それほど大きなニュースにはならない。

 ビデオニュースのような小さなメディアが報じたニュースが、後にマスメディアにも取り上げられた大きなニュースになった例はいくつもあるが、このニュースに関してはマスメディア側に「報じない」インセンティブが働いているため、ほとんどニュースにはならなかった。マスメディアがこれをニュースにしないことに成功したと言った方がより正確かもしれない。

 メディアが横並びで黙殺したり、明らかに論点化を避けたがっている問題に踏み込むことは、メディア関係者はもとより、政治家も一般の企業人も、できれば避けたいこととなる。誰も大手メディアを敵には回したくない。ましては、大手メディア全体を敵に回すことなど、もってのほかだ。

 企業にとってもメディアとの関係は重要な経営資源になる。メディア関係者に至っては、大手メディアを敵に回せば、仕事がこなくなる。政治家だって、必ずしも市民の間に、そのような問題意識がないところで、メディア問題の手を突っ込んで、メディアを敵に回すばかりか、言論への介入だなどの誹りを受けるくらいなら、問題を避けて通りたいと考えるのは当然のことだ。(「下」につづく)

(2015年8月4日「小林恭子の英国メディア・ウオッチ」より転載)

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