バラク・オバマ大統領の広島訪問は、原爆使用の歴史的決断をめぐる通説を考え直す良い機会を与えてくれる。考え直すことで、どうすれば未来の核兵器の使用を防止できるかという問題に焦点を当てる一助にもなる。今の核兵器は1945年当時に使用されたものより何千倍も強力になっている。
まずは、ワシントンにあるアメリカ海軍博物館の原爆投下に関する展示を見てみよう。これらはあまり一般的ではないし、それほど知られてもいない。展示物の解説にはこう書かれている、「広島と長崎は原爆で広範囲にわたって破壊され、13万5000人の犠牲者を生んだが、日本軍にはほとんど影響を与えなかった。しかし、8月9日のソヴィエトの満州への侵攻(2月のヤルタ会談での密約を実行に移すもの)で、軍の考えは変化した」
1945年9月8日、原爆投下から1カ月経過した広島市内
この説明には驚かされるが、一般に広く受け入れられている「原子爆弾が第二次世界大戦を終わらせた」という主張とは整合性がない。それでも、日本の降伏の経緯を記した史料には忠実だ。日本政府、特に軍部の首脳たちは、実際には原爆投下によって降伏を決めたわけではなかった。広島への原爆投下に至るまで数カ月間、日本は自国の都市を米軍の空襲にさらすことも厭わずに戦争を継続させた。最も顕著だったのは3月10日の東京大空襲で、およそ10万人が犠牲になったといわれる。
日本軍の指導者たちが注視していたのはソ連軍だった。ソ連軍は満州に駐留していた日本軍を攻略しようと備えを進めていた。史料からは、アメリカの首脳がこの状況を十分に理解していたことも明らかになっている。たしかに原爆の実験が完了する以前は、アメリカの首脳はソ連軍がドイツ降伏後に日本を攻撃するという確証を求めていた。大統領が強く助言されていたのは、もしソ連が動けば日本は降伏するだろうが、その時は天皇の地位が何らかの象徴的役割として保障されることが条件になる、ということだった。
これはそれほど問題とは思われなかった。アメリカの軍部は長い間、天皇を象徴的役割に置いておくことで、終戦後に日本を占領した時の統治を容易にしようと考えてきた。しかし原子爆弾の実験が成功すると、1945年のポツダム宣言に明記されていた天皇制の保持は削除され、ポツダム宣言を黙殺した日本は戦争を継続することが確実になった。海軍博物館の解説も正確に説明している、「トルーマンの政治アドバイザーたちが、軍首脳部や外交政策立案者の意見を無視し、アメリカ国民は天皇に対する寛大な措置をゆるさないだろうと主張した」
ここでは原爆投下が軍事的な理由ではなく政治的な理由で行われたことが示唆されてはいるものの、その判断にははっきりしない点も残る。事実なのは、歴史的資料によれば、共和党の首脳陣が当時アメリカ議会上院やそれ以外の所で、大統領に天皇の地位の保証を迫っていたということだ。まさにそれが戦争終結につながると信じていたからである。
1945年9月2日、東京湾のアメリカ戦艦「ミズーリ」上で行われた降伏文書の調印式
天皇の地位の保証をポツダム宣言に再び盛り込むため、アメリカ統合参謀本部は、現代では「エンドラン」(回避する戦術)と呼ばれる方法をとることに躍起になっていた。彼らはイギリスの軍首脳部に対し、ウインストン・チャーチル首相からアメリカのハリー・トルーマン大統領に、天皇の問題を宣言に盛り込むよう説得することを働きかけてほしいと要請した。それに応えてチャーチルはトルーマンに説得をこころみたが、結局は無駄足に終わった。
もちろん最終的にアメリカは、占領統治を容易にするため、日本が天皇制を保持することを許した。だがそれは原爆が使用される前ではなく後のことだ。日本は今日にいたるまで、象徴として実権のない天皇を戴いている。
この出来事の奇妙ないきさつ(人命を救う可能性のある行動を強く促すアメリカの軍部指導者と、それに抵抗する大統領という組み合わせ)には、もちろん多くの人々が、もっと他の問題が関わっていたのではないかという疑いをいだいた。
他にもっともわかりやすい解釈が、戦後すぐ批評家によって提唱された。彼らは(日本に関する軍事上の理由ではなく)ソ連に関する外交上の理由が重要であった可能性を示す、明らかな証拠があると指摘した。たとえば核科学者たちのグループが、トルーマンの原爆投下についてのチーフアドバイザーだったジェイムズ・バーンズ国務長官にと面会した後に、ある者がこう証言した。「バーンズ氏は、戦争に勝つために日本の都市に原爆を落とすことが必要不可欠だと主張したわけではなかった。バーンズ氏の考えは、我々が原爆を保持し使用して見せることでロシアがより御しやすくなるということだった」
1945年8月6日、最初の原爆投下から数時間後、広島上空にきのこ雲が上がる
アメリカのヘンリー・スティムソン陸軍長官の日記にもまた、次のような記述がたびたび出てくる。「満州やポート・アーサー、中国北部の各地との関係、それから中国と我々との関係について、ロシアとは徹底的に話し合わなければならない。こんな複雑に絡み合った問題の全てに対して(原爆に関する)秘密が重要になるだろう......」彼は続ける。「特別なものとなるべき武器なら使用して当然だ......彼ら自身のために我々は行動をもって語ろう」
鍵となるいくつかの日付に注意するといい。ソ連の対日参戦は、5月8日のドイツ降伏の3カ月後と予想されていた。つまり赤軍が攻撃を開始するのは8月8日ごろと思われた。広島は8月6日に、長崎は8月9日に破壊された。
このようにして、天皇の地位の保証をポツダム宣言に盛り込むことを原爆の使用後まで遅らせた原因が、主に外交上の思惑からだったという話を証明するのはむずかしい。証明できるのは、天皇制の保証は本当のところ、原爆を使用することのないままに、そしてアメリカ軍の沖縄への上陸よりも(ましてや日本本土への侵攻よりも)ずっと早い段階で戦争を終わらせうる、と大統領が聞かされていたということだ。だから天皇の地位が保証されても日本軍が降伏しなければ、原爆を使用する時間は十分にあった。
海軍博物館の解説以外にも、アメリカの軍首脳が広島と長崎の一般市民のほとんどを標的とした原爆の使用について強い懸念を抱いていた証拠はある。たとえば、大統領首席顧問(ウィリアム・リーヒ、陸軍元帥で統合参謀本部を指揮していた)は、1950年の回顧録でこう記している。
私の意見では、この野蛮な兵器の広島と長崎への使用は、実質的に日本に対するわれわれの戦争の助力にはならなかった。日本はすでに負けていたし、降伏の準備もできていた......私自身の思いは、原爆を世界で最初に使用したことについては、我々が採用した倫理的基準は中世の野蛮人並みのものだった、ということだ。戦争のやり方がそんなものだとは教わらなかったし、女性や子供を虐殺することで戦争に勝てるなんてことはないはずだ。
1945年8月6日に原爆を投下したB-29戦闘爆撃機エノラ・ゲイ
同じように、陸軍元帥で第二次世界大戦でのアメリカの勝利を見届けて後に大統領となったドワイト・アイゼンハワーは、1963年に公式にこう述べている。「彼らにあんなおそろしいものをぶつける必要はなかった」。回顧録でアイゼンハワーは、スティムソンから原子爆弾が使われる予定だと知らされた時のことをこう回想している。
私は彼に対し強い懸念を口にした。第一に私の確信としては、日本はすでに負けており原爆の投下はまったく不必要だ。第二に私の考えとしては、アメリカ国民の生命を守ることに必ずしも結びつかない兵器を使用して、国際社会にショックを与えるべきではない。
原爆投下の数週間後には、カーチス・ルメイ空軍少将(第21爆撃集団を率いて日本に関わる多くの爆撃作戦に関わった)が公式にこう述べた。「戦争は2週間以内に、ロシアの参戦も原子爆弾もないままに終わるはずだった......原子爆弾は戦争終結に対して結局なんの役割も果たさなかった」
そして1945年5月29日に書かれたアメリカジョン・マクロイ陸軍次官補のメモによれば、アメリカ軍の最高責任者、ジョージ・マーシャル元帥は次のように考えていた。
これらの兵器は初めて、巨大な海軍施設のような軍事的目標に対して直接使われることになるだろう。もしもその趣旨から完全な成果が得られないようなら、彼の考えでは、広範囲にわたる生産施設から人々を退避させなければならない。日本国民に我々が街の中心部の破壊を意図していると伝えることになる。
広島と長崎の破壊を決断するまでの日々に実際には何が起きたのか、明らかになることはないのかもしれない。それでも、未来に向けた重大な教訓を示すのには十分な事実が明らかになっている。基本的に人間は、そしてとくに政治家たちは、みんなあまりにも頻繁に、本質的な人道上の問題よりも短期的な政治の利害に基づいて決断を下しがちだということだ。
核兵器の脅威に対するただ一つの真剣な対応とは、世界中の兵器庫からそれらを完全にとりのぞくということだ。オバマ大統領が推し進め、おそらくは広島への歴史的な訪問によって改めて再確認するはずだ。
ガー・アルペロヴィッツは原爆投下に関する研究書を2冊執筆している。『アトミック・ディプロマシー--広島とポツダム』『原爆投下決断の内幕』。この文章で参照されている重要な記録史料は、これらの本でも見ることができる。
ハフポストUS版より翻訳・加筆しました。
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