子供のイジメがなくならない原因

子供のイジメの問題をいかにして解決するのか、という話は大切な話です。しかしその議論の大半はまったくマトはずれなものになってしまっています。この種の議論がマトはずれになってしまう理由ははっきりしていて、自分が子供の時にどういう気持ちで生活していたのかを覚えていない人はまったくマトはずれなことしか言えません。そういった人達は、子供というのは無垢で純粋なものだという前提で話をします。彼等や彼女等は意識的にか無意識的にかは分かりませんが、子供の頃の自分がズルくて自分勝手だったということを忘れてしまっています。

子供のイジメの問題をいかにして解決するのか、という話は大切な話です。しかしその議論の大半はまったくマトはずれなものになってしまっています。この種の議論がマトはずれになってしまう理由ははっきりしていて、自分が子供の時にどういう気持ちで生活していたのかを覚えていない人はまったくマトはずれなことしか言えません。そういった人達は、子供というのは無垢で純粋なものだという前提で話をします。彼等や彼女等は意識的にか無意識的にかは分かりませんが、子供の頃の自分がズルくて自分勝手だったということを忘れてしまっています。

忘れてしまっている人には何を言ってもムダなのかもしれませんが、そうでない人は子供の頃の学校生活を正直に思い出してみてください。子供の頃、イジメられないためのとても簡単な方法を本当は知っていたはずです。

イジメられないための最も簡単な方法、それはイジメる側にまわることだったのではないでしょうか。イジメを積極的に主導しなくても、イジメている集団の後ろで一緒になって笑っているだけでイジメる側にとどまることができました。イジメの矛先が自分に向かわないようにするためには、イジメる側から降りることができませんでした。

心の中では本当はこんなイジメはちっとも面白くないと思っていても「もう、やめろよ!」なんて言ってしまうとイジメの矛先が自分に向かうことは分かりきっていますから、一緒になって笑っています。何も面白くないのに笑っているのです。もしあなたが上司のくだらない冗談に一切愛想笑いをしない大人なら、どうぞ彼を非難してください。もしあなたが日常的に何も面白くないと思っているのに笑っているのなら、そういう大人の背中を見てそういう子供が育つというだけのことです。

子供の社会というのは、良くも悪くも大人の社会の真似ごとです。

周囲の人達とお互いに空気を読みあって、一対一ではもめごとを起こさないことなかれ主義で、お互いにストレスを溜めあって、多対一になった時にだけ安全な場所から立場の弱い人を一斉に攻撃してストレスを発散します。大人の場合、より安全な場所にとどまるためにまったく無関係のアカの他人を攻撃の対象とすることも珍しくありません。ちょっとした不祥事を起こしたそれほど強く批判される必要のない芸能人を安全な場所からバッシングし、サッカーや野球の代表チームが負けると監督の采配を安全な場所から批判します。自分よりモテそうな俳優や自分より裕福な起業家が転落してマスコミに小突き回される姿を安全な場所から眺めて喜びます。大人の社会がそうであるかぎり、子供の社会からイジメはなくなりません。

子供の社会を変えるためには、まず大人の社会が変わるしかありません。大人の社会が変わるためには、すべての大人が生き様を改めるしかありません。それができないのであれば、子供のイジメはなくなりません。

現状では残念ながらこういった状況が変わる気配はありません。それどころかインターネットやSNSの普及に伴って「安全な場所から誰かを糾弾して喜びたい人達」の存在感が増しています。

人ごみの中からヤジることを、匿名の掲示板で他人を中傷することを、すでに攻撃されている人を一緒になって攻撃することに罪悪感すら感じていないことを、恥ずべきことで改めるべきことなのだと気づかないかぎり大人の側の生き様は変わりません。反撃できない立場の相手に誰の仕業かわからないやり方でしか攻撃できない、というのがミジメでなさけないことだと理解しないかぎり大人の社会の陰湿さは変わりません。子供の社会の陰湿なイジメは鏡に映った我々大人の姿そのものです。子供のイジメを醜いと思うのなら、まずは自分から変わるべきではないでしょうか。

さて、あなたはどう思いますか?

ふとい眼鏡の電子書籍「愛というストレス、幸せという強迫

注目記事