「戦後もっとも良好な日台関係」
昨今、日本と台湾の双方の関係者が自信を持ってそう語り合っていた日台関係が、突如、大きな衝撃に見舞われた。
台湾の屏東県の漁船「東聖吉16号」が日本の排他的経済水域(200カイリ内)である沖ノ鳥島沖で違法に操業していたとして、4月25日に海上保安庁が拿捕したことに対し、台湾側が強硬に反発しているのだ。
「報復措置」として沖ノ鳥島200カイリ内に再び漁船を出航させ、台湾の政府機関である海巡署と漁業署からそれぞれ1隻ずつ船を派遣しただけでなく、同じ海域に台湾海軍のフリゲート艦も派遣して待機させるという過激な行動を取っている。
台湾の船団は5月6日時点には沖ノ鳥島200カイリ内に到達したとも見られるが、台湾メディアの報道では、日本側も海上保安庁の船が多数、この海域に待機しており、一触即発の状況が出現する可能性もある。
芽生えていた「報復心理」
この事態について、台湾の馬英九政権で対外関係を担当する幹部の1人は、筆者の取材にこう答えた。
「これは馬総統が仕掛けた2週間の期間限定のチキンレースです。もう事務レベルでは処理できない話になってしまった。日本には、申し訳ないが、ひたすらこらえてほしい。台湾側にケガ人が出るとか、船が損傷を受けるとか不測の事態が起きた時は、目も当てられないことになる」
2週間とは、国民党の馬英九総統が退任し、蔡英文・民進党主席が総統に就任する5月20日までの期間を指している。ここまでヒートアップした台湾の挑発的行動を、果たして日本は無視できるのかどうか。
確かに、台湾漁船らに対する放水だけでもさらに大騒ぎになるだろう。仮に拿捕などしようものなら、同行している台湾側の公船との衝突も起きかねない。台湾側の対日関係を心配する人々は、この幹部の発言にあるように、ひたすら祈るような気持ちで、この2週間、日本側が抑制した対応を取ってくれることを願っている。
ところが、実は馬英九総統自身にとっては、台湾研究者である東京外国語大学総合国際学研究院准教授の小笠原欣幸氏が指摘しているように、まさに「棚からぼたもち」のような話だった。つまり、日本に「一撃」を加えてから政権を去りたい「報復心理」が馬総統に芽生えていたと考えられるのである。
台湾政府内の見解を綜合すると、米国や日本において、中国と距離を置こうとする蔡英文政権の誕生を待ち望む声が広がり、実際に昨年6月の訪米時に米国政府が総統候補者としての蔡英文に与えた異例の厚遇は、馬総統に強いショックを与えたとされる。
加えて、慰安婦問題で、日本政府が韓国政府に新たな資金の拠出に応じるとした昨年末の日韓合意も影響を及ぼした。かねてから慰安婦問題にこだわりのある馬総統は、同じ台湾の慰安婦たちにはどうして日本は平等に対応しないのかと不満に感じ、同等の待遇を求める声明も出していたが、これに日本側が反応しなかったことも"しこり"として残っていたという。
「日本の蔡英文重視、馬英九軽視」という疑念
馬総統は総統選後の1月、南シナ海で台湾が実効支配する太平島を訪問した。中国との対立を抱えた米国の制止を振りきったもので、米国政府は「失望した」というコメントを、8年間の馬政権の任期中に初めて出すに至った。
それでも、馬総統にとっては、対中関係を改善させ、習近平と歴史的な会談を成し遂げた以上、「米日など何するものか」という気持ちになり、政権退場が決まった以上、一層大胆になれる環境になっていたのを日本側も見落としていたようだ。
蔡英文氏が総統選で圧勝した直後の1月17日、日本側台湾窓口のトップである大橋光夫・交流協会会長は台湾を訪問し、蔡英文氏に会って祝辞を伝えている。
それ自体は問題ないのだが、そこで大橋氏は馬総統に会わずに日本に帰ってしまった。週末が絡んでアポイントが取りにくかったことは確かだが、週明けまで滞在を延ばして待つか、少なくとも週末でも馬総統への面会要請を出すことだけは礼儀上しておくべきだった。この件が、馬総統や政権内の対日強硬グループの「対日不信感」を募らせる1つのきっかけになったようだ。
しかも、その際に台湾側から内々に日本への懸念は伝えられたが、その後も大橋氏による馬総統との面会のための訪台は4月まで行われることはなく、馬政権での「日本の蔡英文重視、馬英九軽視」という疑念はより固くなっていったとされる。
もちろん日本政府側にも言い分はあろうが、あくまでもこれは対外情勢分析として、日本の外交関係者が馬総統の心理をどこまで把握しきれていたのか、という問題なのである。
馬政権の「狙い」
その代償を、今回、偶発的な海保の台湾漁船拿捕による対立のエスカレートという形で払うことになってしまった。
海保が台湾漁船を拿捕したのは日本としては正当な法執行の範囲内であり、過去にも2005年と2012年に同様の拿捕が行われているが、台湾側から強い抗議があった形跡はない。
ただ、沖ノ鳥島近海は、日本漁船にとっては遠すぎるために採算のコストが合わず、ほとんど操業をしていない海域である。
そのため、台湾だけでなく、フィリピン、インドネシア、中国など数カ国の漁船も普段から操業を行っており、「東聖吉16号」が拿捕された時間帯にも200カイリ内で複数の違う国の漁船が操業していたとされることも、馬総統に「怒り」の理由をさらに与えることになったと、別の台湾の政府関係者は解説する。
この関係者によれば、今回、台湾の漁船に対して海保が出した「速やかに200カイリ内から離れなさい」という警告は台湾の政府にも届いていたが、台湾の漁業署は「上(総統府)からの意向」で、漁船に対して「その海域は公海であり、立ち去る必要はない」という指示を与えていたという。
もしそうだとすれば、ある意味で日本側の法執行を期待する馬政権の「狙い」に、日本側がまんまとはまってしまったということになる。
日本漁船が出入りしているわけではなく、日本漁業への経済損失が起きていない以上、台湾における政権交代間近という敏感な時期だけに、日本で海の安全に詳しい関係者の間でも「この時期に、あえて捕まえる必要はあったのだろうか」という疑問の声も少なくない。
「ナショナリスト・馬英九」の顔
東日本大震災、台南地震、熊本地震への相互の暖かい支援が示すように、日本と台湾は空前の良好な関係をエンジョイしていた。その空気が今回一挙に暗転してしまった形であり、大変に惜しいことである。
日本側には、いまの台湾での険しい空気が理解しがたいかもしれないが、「台湾人が傷つけられた」「外国からなめられた」といった問題に対しては、国際社会で常に不利な立場に置かれてきた台湾の人々は、細かい事実確認などを放っておいて一致団結して立ち向かう傾向がある。
内心には異論はあっても、メディアも政治家も反発一色のなかでは当分はそうした冷静な声は容易には発せない。実際、謝長廷・次期駐日代表のように、冷静な対応を双方に呼びかけただけでメディアに袋だたきに遭ってしまう。
馬総統の狙いを想像すると、沖ノ鳥島での対立構図を政権交代時期にまで引きずることで次期政権も対日強硬路線を取らざるを得ない状況を創り出し、同時に、沖ノ鳥島問題で中国と共同戦線を張った手柄で、今後、中台関係での自分のポジションを確立するところにあるのだろう。
それは、尖閣諸島問題で中国を出し抜いて日台漁業協定を結んだ「リアリスト・馬英九」ではすでになく、中国大陸からの日中戦争経験の伝統を受け継ぐ中華民国総統のプライドを掲げて、主権・領土で日本に強硬な立場をとる「ナショナリスト・馬英九」の顔である。
そして、馬総統の本質的なDNAは後者に近いと筆者は考えている。その馬総統の「最後の1カ月」の心理の変化を十分に読み切れなかった日本側には、悔いと反省が残るに違いない。
「島」を「岩」と強弁するなど、台湾側の主張には国際法などの観点から反論可能で理不尽な点も多いが、いま真っ向から馬政権に反論しても実質的に得られるものは小さく、日台分裂を願う中国を利するだけだ。今後も良好な日台関係維持するためにも、この「2週間」の対応には細心の注意が必要である。
野嶋剛
1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。
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(2016年5月6日フォーサイトより転載)