オランダのウィレム・アレキサンダー国王とマキシマ王妃が10月28日から31日まで国賓として初来日した。昨年4月に即位した国王は皇太子時代、10回を超える訪日歴がある知日派で、欧州以外では国王となって初の外遊となる。これに応え、日本側は異例の厚遇で迎えた。
滞在中、国王と王妃のために3つの饗宴がもたれた。まず29日の宮中晩餐会、次が翌30日の御所での天皇、皇后両陛下による私的な昼食会。最後が迎賓館での安倍晋三首相主催晩餐会だ。両陛下が公式な晩餐会と私的な食事会を2回持つのは異例で、オランダ王室との関係抜きにはあり得ない。
11年ぶりの雅子妃の出席
宮中晩餐会の日、東京タワーは午後5時前の日没から午前零時までの7時間、オランダ国旗の青白赤のトリコロールと、王室カラーのオレンジで特別ライトアップされた。
「オランダ大使館からお話があり、東京タワーとオランダ大使館がお隣さん(同じ東京・港区芝公園)なので、ではやりましょうとなりました。前例? この4月にオバマ米大統領が来日した時に続き2回目です」
と、日本電波塔(東京タワー)総合メディア部は語る。
皇居・宮殿の豊明殿で開かれた歓迎晩餐会には両陛下のほか、皇太子ご夫妻をはじめとする皇族、安倍晋三首相ら163人が出席した。長期療養中の皇太子妃雅子さまが宮中晩餐会に出席したのは、メキシコ大統領を迎えた2003年10月以来11年ぶりだった。
この日のメニューである。
清羹
甘鯛牛酪焼
羊腿肉蒸焼
サラダ
アイスクリーム
果物
コルトン・シャルルマーニュ 1999年
シャトー・ラトゥール 1994年
ドン・ペリニョン 1998年
白ワインの〈コルトン・シャルルマーニュ〉は仏ブルゴーニュ地方の最高級、赤の〈シャトー・ラトゥール〉も仏ボルドー地方メドック地区の最高級の1つ。乾杯のシャンパンもここぞという祝宴に出される銘柄だ。皇室は誰に対しても最高のもてなしをするが、皇室と親密な関係にあるオランダ王室とあれば言わずもがな、である。
本音を伝え合える関係
この晩餐会で私が注目したのは、ウィレム・アレキサンダー国王が答礼スピーチで、どう歴史問題に触れるかだった。別の言い方をすると、これまでの両陛下とベアトリックス女王(在位1980年~2013年)の歴史問題をめぐる阿吽の呼吸は国王にどう引き継がれたのか、である。経緯を説明するため、これまでの双方のやりとりを振り返っておこう。
第2次世界大戦の緒戦、オランダ植民地だったインドネシアを占領した日本軍は、オランダの兵士と民間人13万人を強制収容所に入れ、食料不足や風土病で約2万2000人が死亡した。
戦後、旧植民者たちの日本への恨みは両国のノドに刺さった骨となった。1971年、昭和天皇が非公式でオランダに立ち寄った際には激しいデモに見舞われ、投げられた魔法瓶で天皇の乗った車の窓ガラスが割れた。日本の首相が植樹するとすぐ切られることも続いた。
ベアトリックス女王は日本との歴史問題の克服に努め、両陛下もこれに呼応する形で問題解決に意を注がれた。91年10月、国賓で来日した女王は晩餐会で厳しいスピーチを行った。抑留されたオランダの兵士や民間人の具体的数字を挙げ、
「これは日本ではあまり知られていない歴史の1章です。多数の同胞が命を失い、帰国できた者も、その経験は生涯、傷跡となって残っています。私たちはあの戦争の記憶を避けて通るべきでないと思います」
と述べられた。
この時、女王は晩餐会に先立って両陛下にスピーチ内容を伝え、オランダ国内の反日感情を増幅しないためにも大戦中の出来事に言及しない訳にはいかない旨説明している。
これより前の89年の昭和天皇の大喪の礼の時、オランダは王族の出席を取り止めたが、この時も女王は、
「両国関係のため自分が出席しない方が良いと判断した」
と手紙で伝えられた。双方は率直に本音を伝え合える関係にあった。
劇的に改善した「対日世論」
転機は2000年5月、天皇、皇后両陛下の国賓でのオランダ訪問だった。当時、駐蘭大使だった池田維氏は、
「女王が両陛下の受け入れのため払われたご努力には頭が下がる思いでした」
と語っている。
その1つに、両陛下が戦没者記念慰霊塔に献花し、黙とうを捧げる際、脇に立ってあたりを払う随従役の指名があった。女王は人望厚い退役将軍を王宮に呼び、役目を引き受けてほしいと依頼した。この将軍のハウザー氏はインドネシアに生まれ、少年時代、日本軍の強制収容所で4年間を過ごした。一緒に収容されていた母親を栄養失調で亡くし、孤児となって帰国した。
ハウザー氏は私に、
「女王は私に両国の架け橋になってほしいと望まれたのだと思い、お受けしました」
と語っている。日本軍の強制収容所体験者の元将軍を随従役に据えることで、女王は並々ならぬ決意をもって両陛下を迎えることを国内に示し、反日世論を封じたのだった。
この時、王宮の歓迎晩餐会での天皇陛下のお言葉は10分に及ぶ異例に長いものだった。
天皇は江戸時代、開国後の交流に触れたあと、
「両国が先の大戦において戦火を交えることとなったことは、誠に悲しむべきことでありました。この戦争によって、さまざまな形で多くの犠牲者が生じ、今なお戦争の傷を負い続けている人々のあることに、深い心の痛みを覚えます」
「戦争による心の痛みを持ちつつ、両国の将来に心を寄せておられる貴国の人々のあることを私どもはこれからも決して忘れることはありません」
と述べられた。明らかに女王が来日時に触れた「帰国できた者も、その経験は生涯、傷跡となっています」の部分に呼応した内容だった。
滞在中、両陛下はインドネシアの元オランダ植民者と面会し、オランダの元慰安婦問題に取り組むNGO関係者とも懇談された。先の池田氏は、
「このご訪問でオランダの対日世論は劇的に改善し、両国関係は新たな段階に入りました」
と語っている。
友好関係を前面に
以上の流れを念頭に置いた時、ウィレム・アレキサンダー国王のスピーチはどう読めるだろう。国王は芭蕉が1679年に詠んだ「阿蘭陀も 花に 来にけり 馬に鞍」の俳句から両国の交流を説き起こし、歴史問題にこう触れた。
「第2次世界大戦で我が国の民間人や兵士が体験したことを我々は忘れません。忘れることはできません。戦争の傷跡は、今なお、多くの人々の人生に影を落としており、犠牲者の悲しみは今も続いています」
「捕えられ、労働を強いられ、誇りを傷つけられた記憶が、多くの人々の生活に傷跡を残しました。日本の国民の皆様もまた、先の大戦において、とりわけ戦闘が苛烈さを増した終戦間近、大変な苦しみを経験されました」
これは2000年に両陛下を迎えたベアトリックス女王の歓迎スピーチを踏襲している。この時の女王のスピーチは91年に比べてずっと穏やかで、オランダ人の被害に触れる一方、「日本国民も戦争最後の日々は、恐ろしい結果に見舞われました」と、両国の痛みに等しく言及した。
もう1つ女王のスピーチと重なるのは、未来志向である。女王は両国民の被害に触れた後、ある賢人の「歴史の役割は、思い出すことのみではなく、将来への意味を与えることにある」との言葉を引いた。国王も両国民の被害に言及した後、「幅僅か5メートルの(出島と本土を結ぶ)狭き橋が何世紀にも渡って両国の縁を取り持ってきました。そしていまや、両国を繋ぐ友好と協力の架け橋は数えきれないほど存在しており......」と、両国の友好関係を前面に打ち出した。
女王の助言
女王のスピーチとの違いを挙げるなら、国王は東日本大震災で被害を受けた宮城県の園芸農業復興へのオランダの貢献や、オランダに日本企業が450社以上進出し、3万5000人以上の雇用を創出していることなど具体的に語ったことだ。
国王のスピーチには女王の助言が入っていると私は感じる。女王のスピーチを踏まえつつ、また1つ前に歩を進めた内容だからだ。幾つかのメディアは「国王は歴史問題を取り上げた」とそこだけクローズアップしたが、これまでの流れを押さえるならば、より前向きで、より具体的なものになっている。
晩餐会が終わって、国王と王妃が宮殿を辞したのは午後10時すぎだった。黒々とした皇居の森の木立の向こうには、オレンジ色に輝く東京タワーの尖塔が遠望できた。
西川恵
毎日新聞客員編集委員。1947年長崎県生れ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、論説委員を経て、今年3月まで専門編集委員。著書に『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、本誌連載から生れた『ワインと外交』(新潮新書)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)、訳書に『超大国アメリカの文化力』(岩波書店、共訳)などがある。2009年、フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。本誌連載に加筆した最新刊『饗宴外交 ワインと料理で世界はまわる』(世界文化社)が発売中。
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(2014年11月17日フォーサイトより転載)