「ホヤ(海鞘)」をご存じだろうか。三陸の珍味とされる海産物だ。2011年3月11日の津波で産地の養殖ホヤは全滅し、昨年ようやく復活したものの、大消費地・韓国の輸入規制の壁で販路は失われた。復興も遅れる中、若い漁業者はある挑戦に懸けた。9月11日で東日本大震災から4年半を迎える被災地の現状とともに報告する。
韓国の輸入規制
石巻市の牡鹿半島の先端近くに、太平洋に面した鮫浦(さめのうら)湾というリアス海岸の入り江がある。全国でも希少なホヤの天然種苗産地で、湾内の多くの漁業者がホヤ養殖に携わってきた。しかし、2011年3月11日の津波による被災と、福島第1原発事故後から韓国が実施している東日本の水産物輸入規制で、二重の打撃を受けた。鮫浦漁港から阿部誠二さん(32)、父の忠雄さん(65)の船・栄漁丸に同乗し、震災後の初水揚げを取材したのは昨年6月下旬の早朝だった。
湾内の養殖ホヤは津波で全滅した。湾内の一漁港である鮫浦では、28世帯あった集落が跡形もなく流された後、なお海で生きようとする漁業者は11世帯に減った。ボランティアの支援を得て、採苗の受け皿になるカキ殻を集め、養殖いかだを作り直し、11年末に採苗と養殖を再開した。ホタテは稚貝から1年、カキは種苗から2年で育ち、全域が被災した牡鹿半島でも既に12年から水揚げ、出荷を再開したが、ホヤの場合は3、4年も掛かる。だが、復興の頼みの綱がホヤしかない漁業者たちは、ひたすら待つほかなかった。
今年5月、震災後養殖再開2年目のホヤを水揚げした阿部さん親子(写真はすべて筆者撮影)
14年6月の初水揚げの朝。待望のホヤは赤茶色のボールのように丸々と肥え、勢いよく潮水を噴きながら引き揚げられて甲板を埋めた。「いいなあ。予想したよりも大きい。津波の後、湾内の水質が良くなり、まるで『4年もの』のように育った」と阿部さんは話した(同様の話を、三陸各地のカキ、ワカメ養殖の現場で聞いた)。殻を割ると、鮮やかな黄色のホヤの身はトロリとして、しかも歯応えがあり、口の中で微妙なえぐみが甘さに変わった、深い味わいも、恵みの海も戻ったが、生産者の前途には大きな壁が生まれていた。
震災前、ホヤの大消費地は韓国で、海鮮料理やキムチなどの具として重要が大きく、宮城県産ホヤ(震災前は年約9000トン)の大半を占めた。ところが、福島第1原発事故後の11年4月4日、東京電力が汚染水約1万1500トンを海に放出した問題に対する同国の輸入規制で、販路が一挙に閉ざされた。他には宮城県内などの地元消費が主だった。再開された14年産の水揚げ量は約2000トンとみられたが、「震災前はうちでも、水揚げするホヤの7、8割を九州などの業者が港に来て買い付け、水槽に入れて韓国に輸出した。ホヤは足が早く(傷みやすく)、保冷パックで2日と持たず、築地にも多く出ない。だから、味が遠くまで伝わらない。一から販路を開拓しなくては」と初水揚げの後で阿部さんは語った。
地元の家庭料理
鮫浦港の風景も、ホヤ復活の安堵を厳しい現実に引き戻す。「浜の復興には格差が生まれている」と阿部さん。防波堤をはじめ港の再建、拡張工事が着々と進んだ同市桃ノ浦、寄磯など宮城県管理の港と比べ、石巻市管理の小規模港の鮫浦は復旧が遅れに遅れた。漁港入り口の防波堤は津波により破壊されたままで、南風が荒れるたびに高波が押しよせる。14年2月、南岸低気圧がもたらした大しけで、阿部さんの(養殖用の小型船とは別の)刺し網漁船が流され、陸に打ち上げられて壊れた。阿部さんはやむなく代わりの船を調達しようと探し、遠く苫小牧で買い入れた中古船を曳航したのが同年9月。その間、「ホヤの減収分を、金華山沖でのヒラメ漁で何とか稼ぎたかったが、全く漁ができなかった」と話した。
震災後4年半の今も「復興」の風景が見えない鮫浦漁港
牡鹿半島の仙台湾側にある桃ノ浦漁港は、村井嘉浩同県知事が導入を運動した「水産業復興特区」(地元漁協にだけ認めてきた養殖業を営む権利=漁業権=を民間企業に開放する国の新制度)の拠点で、工事資材、人手の不足や入札不調が深刻化する中でも防波堤や岸壁の再建がほぼ完了。仙台市の水産卸会社が出資したカキ生産者合同会社の加工工場が14年2月から稼働し、今年2月10日の河北新報には「2014年度売上高が、前年度の2倍以上の約2億円に達する見込み」「最新鋭の加工場を稼働させ、雇用を徐々に拡大。養殖いかだの増設、量販店や飲食チェーン店への販路拡大など、利益を出す事業構造に転換を図った」と報じられた。他方、小漁港の鮫浦は、地盤沈下した岸壁が仮復旧されただけで、本格的な工事の発注が1年以上遅れ、放置同然だった。その状態はいまも変わらない。調達した船も危険回避のため、湾内で先に復旧した港に停めている。
阿部さんがひそかな希望を託したのが「蒸しホヤ」だった。ホヤ養殖の漁師たちに伝わる食べ方で、傷みやすいホヤの保存を兼ねた加工法だ。殻付きのままぶつ切りにし、内臓を抜いて蒸す。日本酒で蒸すのが、阿部家の流儀だ。ホヤには独特な風味があり、好む人はやみつきになり、一方では、初めて食べて以後、敬遠してしまう人もいる。蒸しホヤはその風味をマイルドにし、そのまま食べても、麺類やパスタ、アヒージョに入れても合う。長く保存もできる。震災前は、出荷できないサイズの小さなホヤを無駄にせずに食べる、地元の家庭料理だった。
「世界に通じる味だ」
震災後、山梨県の社団法人「REviveJapan(リバイブジャパン)」など全国のボランティアが鮫浦を訪れるようになり、ホヤ養殖再開の作業を手伝った。その折々、生き残った天然のホヤや、阿部さん一家の仮設住宅で妻・容子さん(34)が作る蒸しホヤを、大勢のボランティアがお茶時間に試し、「うまい」と頬張ったという。作業を終えて帰った後、「地元で紹介したい。ごちそうになった蒸しホヤをまた食べたい。真空パックで送ってもらえたら」とメールをくれる人が相次ぎ、フェイスブックやツイッターで広めてくれた。「うちの店で使いたい」という気の早い予約も、山梨や福島、神奈川各県から届いた。「自宅跡に作業場のテントを建ててくれたハーバード大の学生さん一行も喜んで食べ、ガーナ人の学生も笑顔を返してくれた。韓国だけではなく世界に通じる味だ、と自信を持つことができた」
「蒸しホヤを商品化したい」。そんな思いを初めて相談した相手は、鮫浦から近い同市大原浜で14年5月に操業を再開した水産加工会社「やまき」社長の佐々木清孝さん(56)。石巻市街にあった加工場が津波で被災し、地盤沈下のため現地再建を諦め、故郷の浜に近い同地に移った。韓国向けのホヤ出荷を手掛け、阿部さんから仕入れていた間柄だ。同年末の取材で、阿部さんは「風評の壁を破るものは人のつながり。食べてくれる人のためにホヤを育てたい」と話し、佐々木さんは「鮫浦には水道も電気もなく、人もおらず、漁師の力だけでは限界がある、と相談を受けた。今までにない販路の開拓に可能性を感じている」と語った。
新しい加工機械を入れての本格的な試作が始まったのは今年5月で、2年目の水揚げが始まったばかりのホヤを材料にした。味付けを担当したのは、鮫浦から一山越えた女川町小屋取の阿部邦晴さん(67)、知子さん(65)夫妻。長年ホヤの養殖を手掛け、自ら製造許可を取って蒸しホヤを作っていた。だが、やはり津波で養殖いかだを全て流され、再開を断念した。失意から邦晴さんは病気にもなった。そこへ、佐々木さんから「経験と技を生かして、力を貸してほしい」と依頼が舞い込み、意欲をよみがえらせたという。
「うちの蒸しホヤは塩で味付けしたが、誠二さんの家では酒蒸しをする。それぞれの良さを合わせ、さらに味付けを工夫した」と邦晴さん、知子さん夫妻。朝に水揚げされる新鮮なホヤを使って、吟味を続けた。試作品ができるたびに加工場の8人のスタッフが味見をし、「皆がうまいと思う味で決めた」と言う。「宮城県鮫浦港 栄漁丸 活ほや蒸し」。こんな商品名の蒸しホヤが完成したのは今年6月。筆者も味見をさせてもらったが、独特のくさみ、渋みが薄れ、ほどよい塩味と、かむほどににじむホヤのうまみが絶妙と感じた。設定した値段は200グラム入りで900円。仙台や東京の居酒屋、料理店、各地の物産展に売り込み、「ホヤを知らない人の口に入れてもらおう」と当事者たちは意気込んだ。「コメなど農産品と同じように生産者の顔を表に出し、安心安全もアピールしよう」と佐々木さんは、笑顔の阿部さん親子の写真をパッケージに刷った。風評にも風穴を開けたい、と。
各地からの注文
東北の夏祭りが終わると、記録的な暑さは季節外れの早い秋雨に変わり、8月末に訪ねた阿部さんは「外洋はしけ続きで、(裏作の)ヒラメ漁にも出られない」とぼやいた。しかし、商品化された蒸しホヤは、いくつかの朗報を呼び込んでいた。反響は意外に早く、JR仙台駅から「(駅舎の)コンコースで催す地元物産市に出してほしい」と依頼があり、6月中の2週間にわたって売り出された。阿部さんと交流がある石巻の居酒屋店主から「メニューに使いたい」と引き合いがあり、やはり石巻産品を支援するネットショップ、東京の高級スーパーからも「扱えないか」と問い合わせが来た。9月26、27日に福岡市のベイサイドプレイス博多で催される「魚フェス」から、200パックの注文が舞い込んだ。
「山梨のボランティアの友人らからも個人的な注文がある。いまは、毎朝水揚げする約200キロ全部を蒸しホヤ作りに出しており、『1つ1つ質のいいホヤを育てなくては』と思うようになった。業者任せで韓国に売られていたころとは違う」。復旧へ向けた苦闘の後、消費地から訪れるボランティアたちと出会い、加工・卸業者の佐々木さんとつながり、生産、加工、流通、販売の流れに自ら関わるようになって生まれた、被災地の漁業者の変化だった。
朗報はもう1つある。鮫浦の集落跡を見下ろす高台に造成された移転地に、阿部さん一家が自力再建していた2階建ての新居が9月10日に完成する。入居は10月末ごろになるが、4年半の仮設住宅暮らしがやっと終わる。「入った当初、4畳半が二間と6畳一間に家族が6人だった。母親が病気がちで、2人目の子どもも生まれ、市に事情を訴えて、たまたま空いていたもう1部屋を借りてしのいだ」「仮設は長く住む所じゃない。長女のせきが止まらず、風邪かと思っていたが、市内の仮設住宅や(宮城県)南三陸町の災害公営住宅でカビが大発生したという記事を読み、原因が分かった」。船から陸に上がれば、広々とした家で足を伸ばしたい漁師にとっても、耐えられない生活だった。
原発事故の場合とは異なり、津波被災地の自力再建には何の補償もない。阿部さんは3千数百万円の費用を35年のローンで返す。被災者に対する行政の再建支援や利子補給は多少あるが、「俺が70歳近くなるまで、ホヤで稼がなくては」との覚悟を背負っている。
まだ遠い復旧
同じ移転地には、先に建築された賃貸の災害公営住宅が6戸建ち、年配者たちが入居した。自力再建ももう1戸あり、阿部さんの漁師仲間が近く着工する予定だ。鮫浦の移転地はもう1カ所の高台にも計画されているが、選定された場所に造成する上での不都合が見つかり、完成が1年先延べされた。災害公営住宅8戸と自力再建の1戸が建てられる見込みだが、「延期が決まって、若い家族がいる別の漁師仲間がもう待ちきれず、いま仮住まいしている石巻市内に家を建てることを決めてしまった。1年、また1年と待たされるごとに、子どもら家族の避難先での生活の根は深くなる。浜に通い続けるのも大変になる。こんなことでまた復興が遅れてしまうのは、悔しく、本当に残念だ」
同様の事態が漁港でも起きた。今年1月にようやく始まった岸壁の本復旧工事が、約40メートル進んだ岩礁の部分で不具合が生じ、難航している。「作業は続いているが、出来上がりはだいぶ遅れそうだ」。対岸にある岸壁の復旧工事も来年以降に残されており、また、「津波の折に大量の土砂が港に流れ込んで、水深が干潮時で1.6メートル足らずになっている。砂の除去をしてもらわないと、ヒラメ漁の船をいつまでも戻せない」という別の死活問題もある。しけの時や冬の荒波から漁港を守る防波堤再建の見通しも立っておらず、阿部さんが「放置されたも同然」と言う状態はさらに続く。
9月11日で大震災から4年半の「節目」は、それを忘れかけた側が思い出す日になり、被災地では復興の遅れに新たな憤りを重ねる日になった。それでも「パンドラの箱」のように、苦闘から生まれた希望もある。鮫浦で生き続ける理由を、阿部さんは自ら見いだした。
完成した蒸しホヤの商品を前に話し合う、(右から)佐々木さん、阿部誠二さん、阿部邦春さんと知子さん夫妻=石巻市大原
寺島英弥
河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
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(2015年9月7日フォーサイトより転載)