グレート・ゲーム(The Great Game)。19世紀末から20世紀初頭にかけて、大英帝国とロシア帝国が繰り広げた覇権争いに、当時の英国人はそんな名前を冠した。今や地球規模で繰り広げられる米中の陣取り合戦は、さしずめ21世紀のグレート・ゲームと言うことが出来るだろう。日本ももちろん、その渦中にある。
言うならば、オセロゲームである。9月に訪米した中国の習近平主席は、南シナ海問題でオバマ米大統領と折り合いを付けられず、両国間に隙間風が吹いた。10月に入り、米アトランタで日米をはじめ環太平洋の12カ国は、環太平洋経済連携協定(TPP)に大筋合意した。開催地にちなみ、「Gone with the wind(風と共に去りぬ)」が懸念された交渉をまとめるうえで力があったのは、オバマ政権の対中巻き返し戦略である。
その一方で、習主席は米国の最も親密な同盟国である英国に足を運び、「中英の黄金時代」を演出してみせた。英国が中国製の原子力発電所の導入を決めたことは、中国外交の大きな勝利だろう。中英は足並みをそろえて新興国へのインフラ輸出を図ることになる。余勢を買って中国は、この11月にも人民元を国際通貨基金(IMF)のSDR(特別引き出し権)の構成通貨とし、国際通貨としてのデビューを果たす。
ロシアも黙っていない。シリアのアサド政権支援のための空爆は、単に中央への足掛かりを得ることだけが狙いではない。溢れるシリア難民に手を焼く欧州に対し、シリア情勢を「安定化」させることを通じて、難民の蛇口を絞る効果をチラつかせ、ウクライナ問題で米欧間の離間を図る意図さえうかがえる。ロシアのプーチン大統領は、イランの核問題合意に苛立つサウジアラビアへの接近も試みている。
TPPは「経済安全保障」同盟
一言でいえば、いま世界中が流動化している。ちょっとでも油断すれば足元を掬われかねない、沢歩きをしているような状況と言っても良い。日本にとってのグッドニュースを挙げるとしたら、TPPの大筋合意だろう。8月のハワイ・オアフ島での閣僚協議が暗礁に乗り上げ、TPP漂流も懸念されたのに、なぜアトランタの協議ではまとまったのか。「2つの追い風が吹いた」と安倍政権の閣僚が言う。
1つは中国経済の失速が誰の目にも明らかになったこと。もう1つはドイツのフォルクスワーゲン(VW)の排ガス不正問題だ。TPPのメンバーであるアジア・太平洋諸国にとって、中国と欧州の市場が当てにならなくなり、真剣に域内の経済統合を進める必要が出てきたのだ。TPPの実体は日米の自由貿易協定(FTA)だが、他の10カ国を合わせて世界経済の4割を占める規模感は見逃せない。
南シナ海で中国の直接的な脅威に晒されるベトナムやマレーシアにとっても、TPPの巨大市場は自らの独立を維持するうえで、強力な武器となる。その意味で、TPPはABC(Anyone but China)の「経済安全保障」同盟ともいえる。この経済安保同盟に誰よりも不安を覚えたのは、中国傾斜の著しかった韓国である。「まさかまとまるまい」と高をくくっていた、経済安保同盟が合意に達したことで、中韓のFTAはにわかに色あせた。
「連衡」策は自殺行為
それはそうだろう。自由化率の低い中韓FTAなど、TPPと比べたら物の数ではないからだ。しかも、経済安保は外交・安全保障と車の両輪である。その同盟の埒外に置かれたことで、自分の足元に不安を覚えたのもうなずける。
中国の古典になぞらえれば、台頭する秦にどう対処するかで、力の弱い周辺の6カ国(韓、魏、趙、燕、楚、斉)は外交の立ち位置を問われた。力の弱い6カ国がまとまって秦に対抗しよう。そう唱えたのが「合従(縦の同盟)」の策。それに対し、秦と結んで他国を攻めた方が得だと、秦側が説いたのが「連衡(横の同盟)」の策である。米国という後ろ盾を基にした現代の「合従」がTPP。中国の傘下に入った韓国が、共に日本を討とうとしているのが、現代の「連衡」中韓枢軸である。
しかし中国の歴史が教えるように、連衡に引き込まれた6カ国は次々と秦に飲み込まれっていった。Chinaの語源となった秦帝国の復活を希望するならともかく、少しでも自律性を保ちたいなら、「連衡」の策は自殺行為である。中国傾斜を深めてきた朴槿惠大統領も、10月の訪米では釈明と軌道修正を余儀なくされ、TPPへの参加希望を表明した。オバマ大統領としても、せっかくヨリを戻そうとする韓国に、つれない振る舞いをする道理はない。
目いっぱい朴大統領の面子を立てながら、首脳会談後の共同記者会見のお仕舞いのところで、チクリと嫌味を言った。「韓国が中国と仲良くすることは良いことだ。でも、中国のルール違反に対しては、声を発してもらいたい」。韓国への「要望」に当たり、オバマ氏はあえてshouldを使わずに、hopeを用いた。それでも、南シナ海や東シナ海で中国が演じる横紙破りを、韓国が黙認していることに、強い警告を発しているのは疑いようがない。
韓国の「ウォン安政策」に米国が筆誅
経済安保であるTPPは、経済と外交の接点である為替問題にも、大きな影を落とした。名目国内総生産(GDP)比で6%を超える経常黒字をあげながら、ウォン高防止の為替介入を繰り返す韓国に対しては、米国はもはや手加減するのを止めた。首脳会談の共同声明を作成する過程でも、米国は為替問題を盛り込むよう強く求めた。韓国側はその場を何とかしのいだものの、米財務省の「為替問題議会報告」は韓国のウォン安政策に筆誅を加えている。
中国や日本も自国通貨安政策を取っているのに、なぜ自分たちだけが、といった恨みがましい議論が韓国内には溢れている。空前の経常黒字をあげていながらよく言うよ。そう言われかねない被害者史観はひとまず措くとして、かの国が見逃しているのは、中国シフトという自らの立ち位置だろう。さしずめ、米艦隊が南シナ海の人工島に迫ったいま、どんな発語をするか、あるいは沈黙を通すかが、注目されるところである。
毒を食らわば皿までも
ワシントンの仇をロンドンで討ったのは、習主席である。エリザベス女王に謁見し、バッキンガム宮殿に宿泊し、英議会で演説する。至れり尽くせりのもてなしに、習主席はさぞやご満悦だったろう。自らの訪米に際し、ローマ法王の訪米をぶつけられ、メディアからソッポを向かれた屈辱を、英国ではスッカリ晴らしたことだろう。英キャメロン政権の実利外交と世間は評したが、「中英の黄金時代」を演出したのは首相の右腕といわれるオズボーン財務相だ。
オズボーン氏は1カ月前に訪中し、今回の習氏訪英のお膳立てを済ませてきた。中国のアキレス腱は人権侵害であり少数民族迫害である。その負の側面に免罪符を与えようとしたのだろう。新疆ウイグルのウルムチに足を運び、経済発展を寿(ことほ)ぐ一方、人権問題に対しては一言も発しなかった。あたかも韓国の大統領のように。
そればかりではない。今回の習氏訪英では、英国が中国製の原発を導入したことが、世界の耳目を聳動(しょうどう)させた。経済の実力が低下した英国は、中国の押し売りを唯々諾々とのまざるを得ないのか。そんな同情心を抱いた向きもあろうが、真相は全く異なる。9月にオズボーン氏が訪中した際に、中国資本の導入と原発の購入を、「英国側が資金支援してもよい」と自ら申し出たのである。
鉄道車両など輸送システムと並んで、原発を中英連合で新興国に売り込むには、まず自らが中国製の原発を導入しようというわけだ。毒を食らわば皿までも。ここまで来ると、もはや怖いものなしである。ぜひ中国の資本力と英国のブランド力との相乗効果を、発揮してもらいたいものだ。日本の反原発論者がほとんど音なしの構えであることからみても、安全性には問題がないのだろうから。
英財務相の中国への傾斜ぶり
オズボーン氏がなぜここまで中国に傾斜するのか、英政治の専門家ではない筆者には想像もつかない。1つ考えられるのは、主力の金融業を支えるシティー(ロンドンの国際金融街)に人民元ビジネスを持ち込みたいという算盤だろう。3月にドイツやフランスを出し抜いて、オズボーン氏が中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)への参加を決めた際にも、そうした動機は取りざたされた。
その見立ては誤っていまい。が、気になるのは同氏の世界観である。1990年代初頭、オズボーン氏は1989年の天安門事件の余韻冷めやらぬ中国を、バックパッカーとして訪ねた。よほど中国への思い入れが強いのだろう。さらに氏の母親は、大学で中国語を学び、文化大革命からほど遠くない1970年代に中国に住んでいる。そして、氏の娘は学校で北京語を習っている。
中国文明に造詣が深いことそれ自身は、立派な教養と言うべきだろう。だがフランスの啓蒙思想家ヴォルテールなどが代表だが、中国文明を崇拝する余り、皇帝の足元に跪くインテリが絶えないのは、西欧の伝統でもある。隣の芝生は青く見える。もっと言えば、皇帝の野蛮な振る舞いは、遠すぎて目に入らない。さらに言えば、欧州とアジアのダブル・スタンダード(二重の基準)で、人権侵害や国際法違反に目を瞑(つぶ)るとしたら、法の支配の伝統が泣くだろうし、はた迷惑もいいところである。
中・ロ「離間」を促すため?
英国の振る舞いは、どのくらい米国を苛立たせているのだろうか。日本から見て気になるのは、この点である。英国の単独行動に堪忍袋の緒が切れかかっている。そう言えれば良いが、オバマ政権も米国の世論も不思議と声を荒立てていない。1つ考えられるのは、英国の国力が低下してしまったなかで、何を言っても詮方ないという突き放した対応である。
2017年までにEU残留の是非を問う国民投票を控え、英国では大陸欧州の混乱には巻き込まれたくないのが本音。かといって、EUから離れて経済運営をしていける自信もない。ならば、中国と結んでおきたい、との思惑も働いているはずだ。
そもそも、シリアから膨大な難民が、欧州とりわけドイツを目指し、押し寄せてくる。英国と違い、欧州大陸の真ん中にあるドイツとしては、難民の波から逃げるに逃げられない。シリアの蛇口を止めてくれるなら、ロシアの空爆も大目に見よう、というのが本音だろう。その延長線上にあるのが、ウクライナ問題でのドイツとロシアとの手打ちともなりかねまい。
そんななか、英国について、もうひとつ反対の解釈が聞かれる。ボケとツッコミ、北風と太陽よろしく、米英で対中政策を使い分けている、というものだ。この解釈によれば、米英の主敵は我が物顔で振る舞いだしたロシア。中国とロシアの枢軸に亀裂を入れるために、英国が中国と結んだというのだ。ドイツがロシアと結ぼうとするのをにらんだ、中ロの離間策というオマケが付く。
この辺の話は、専門家に聞けば聞くほど、解釈が込み入ってくる。少なくとも、南シナ海における中国の横紙破りに対しては、弱腰と批判されるオバマ政権ですら、イージス艦を差し向けた。米国が中国に対し、一線を引こうとしているのは、誰の目にも明らかだ。
後は「専門家の部屋」に任せることにして、今回の話はこの辺で閉じるとしよう。国際条理はカメレオンのように変わる。それだけに、自らの目と耳を研ぎ澄ますほかない。TPPと強化された日米同盟のカードは最大限に活用するのが得策、といったところが、ひとまずの結論だろう。
青柳尚志
ジャーナリスト
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(2015年10月28日新潮社フォーサイトより転載)