被災地へ3500人をガイド:いわき市湯本の「老舗ホテル主人」が伝え続ける「原発事故」--寺島英弥

その後の状況はどうなのか、住民は実際に戻っているのか――それを知るには、現地を巡るスタディーツアーに参加するのがよい。

東京電力福島第1原発事故の被災地のうち、放射線量が高いままの帰還困難区域を除く地域については、3月末から4月初めにかけて、ほぼ6年間にわたった全住民への避難指示が解除された。

その後の状況はどうなのか、住民は実際に戻っているのか――それを知るには、現地を巡るスタディーツアーに参加するのがよい。引率するのは、いわき市湯本温泉の老舗ホテル主人だ。

原発事故の打撃で宿泊者が激減した中、それまでの「営業」「客の数」でなく、被災者となった同胞を支え、「原発事故からの生き方」を社会に伝えるNPO(特定非営利活動法人)活動を始めた。このスタディーツアーは、全国から既に3500人を超える参加者を集め、交流と人のつながりが新しい客を開拓している。

原発事故をきっかけに始めた活動

湯本温泉の歴史は古い。平安時代中期の927(延長5)年の延喜式神名帳に「陸奥国磐城郡小七座 温泉(ゆ)神社」とあり、開湯はもっと昔にさかのぼる。

太平洋の海洋深層水が地下深くに浸透して熱せられた「含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉」だ。切り傷によく効くので、近隣の戦国大名や侍たちが湯治をしたと伝わり、江戸と仙台を結ぶ浜街道で唯一の温泉場として栄えた。

温泉発祥地として今も鎮座する神社の向かいに、1695(元禄8)年創業のホテル「古滝屋」がある。その16代目主人が里見喜生さん(49)だ。

里見さんが本業の傍ら、NPO法人「ふよう土2100」を設立して理事長となったのは、東日本大震災と原発事故が起きてホテルが休館中だった2011年11月。いわき市の北に位置する原発周辺の福島県双葉郡には、避難指示が出されていた。

自宅を遠く離れた避難所で、さまざまな障害のある子どもたちとその親が孤立していると知り、居場所となる「交流サロンひかり」や「放課後等デイサービスがっこ」、「ひかり相談室」を郡山市内に開いて、支援を始めた。

ホテル客室を双葉高校の寄宿舎に提供し、ホテルのロビーをいわき市民と、同市に避難中の双葉町民の交流会に開放してきた。

スタディーツアーのきっかけは、原発事故直後の2011年4月だった。各地から支援物資を携えてホテルに駆けつけた人々に「被災地の実情を伝えてもらおう」と、そのたび車で、いわき市内の津波被災地を案内し始めたのだ。

「きちんとカンパを得て継続的な活動にすべきだ」と助言を受け、NPO設立後、1人3000円の参加費で本格的な活動が始まった。目的地は原発事故の被災地。筆者は6月上旬の週末、古滝屋に泊まって翌朝のツアーに参加した。

「3.11」後の苦難を語る

前夜、古滝屋主人として夕食の客たちと語り合っていた里見さんは、この朝、「ふよう土2100」の緑色のビブスを着て、集まった3人の参加者を、ホテルの外に準備した四輪駆動車に誘った。自らハンドルを握って出発すると、ヘッドフォン型のマイクで語り始めた。

――6年前の3月11日のこと。午後2時46分ごろの震度6の大地震で、ホテルの電気、水道、ガス、電話が使えなくなった。ちょうど金曜日で、60部屋は200人分の予約で満室のはずだった。

「ホテルにたどり着いたのは50人。非常用バッテリーの薄暗い明かりの下、卓上コンロで鍋料理を作り、仲居さんが14階まで運んだ。客を送り出した12日に原発で最初の水素爆発があった。誰も知識がなく、街が焼失したり、(放射能の)悪い空気が入ってきて即死したりするのでは、と想像した。当時140人いたスタッフにマスクを配り、『家族を守って。ここに避難していい』と告げた。総勢50人の共同生活になった」。

群馬・伊香保温泉の同業の友人から、「何人でもいい、避難して」と受け入れの連絡をもらい、マイクロバスに全員を乗せて向かったという。「8年前に他界した父の位牌もポケットに入れ、もう戻れないかもしれないと思った」と里見さんは振り返った。

自身は1週間で帰ったが、落ち着くどころか、原発は津波による外部電源喪失で炉心溶融の危機が続き、4月4日には東電が原発から1万1500トンもの汚染水を海に放出。

いわき市漁協をはじめ同県内の漁業者は、操業自粛を強いられた。福島の魚をめぐる風評との長い苦闘も生まれた。

「湯本温泉は、地元の小名浜(市内の漁港)から直送の新鮮な魚の料理が目玉で、家族のお祝い旅行、関東などの『海なし県』の団体客も集めた。しかし、4000人分の予約がキャンセルされるなど、お客はゼロに近くなった。もうやめようかと悩み、箱根温泉の友人から『こっちに引っ越してこい』と誘いも受けた」。

そんな時、市内や双葉郡の避難者らの生活の苦労を耳にし、送迎付の温泉提供やお茶飲みサロンを始めた。新たな役割を知り、NPO活動へとつながった。

人の姿がない被災地の現状

里見さんの車は常磐自動車道を広野インターで下り、2015年9月に一足早く避難指示が解除された楢葉町に入った。国道6号脇の水田に目立つのは、除染ではぎ取られた汚染土が入った大量のフレコンバッグだ。

家々が解体され更地が目立つ町内に住民の姿は見えず、唯一、2014年7月末にオープンした仮設商業施設「ここなら商店街」の駐車場だけが車で埋まっていた。「きょうは定休日のはずだが」と話す里見さんの疑問は、すぐに解けた。

集まった人たちの大半は作業服。東電や原発メーカー、ゼネコンなどの社員や作業員が花のプランターを抱え、地元のボランティア活動に向かうところだったのだ。

福島第1原発の廃炉関連事業などで働く人の数は約6000人。これらの人々が避難指示解除後の町の日常を支えている。

楢葉町の北隣にある富岡町は、今年4月1日に避難指示が解除されたばかりだ。途中の国道沿いから、運転停止中の福島第2原発の一部が見えた。除染後の水田は、放射性物質の有無を調べる試験作付けが行われている1枚を除いて、荒れ野のような風景が続く。

そこへ、白く巨大な建物がこつ然と現れた。それは放射性物質の濃度が1キログラム当たり8000ベクレル未満に低減した「指定廃棄物」(市町村で処分できるレベルのがれきなど)の巨大な焼却場と、高い濃度に濃縮された焼却灰の保管場だ。

その近くで、6年前の津波で破壊された富岡漁港や、防潮堤の造成工事が行われている。西側にJR常磐線が見え、やはり被災した富岡駅舎の再建現場があった。

住民に刻まれた洗脳の傷

政府は10月ごろまでに富岡駅までの運転再開(楢葉町・竜田駅からの区間)を計画。駅前広場が完成に近い景色で、ホテルも建設中だ。大震災と原発事故の前、人口約1万6000人だった町の駅には不釣り合いなほどの広さ。

その外れにひっそりと、津波で1階を抜かれた商店が3軒並んでいるが、人が戻る気配はない。われわれが駅前広場で休憩を取っている時、ちょうどJRの代行バスが1台到着したが、乗降客は1人もいなかった。

富岡駅前から国道6号に至る道には、真新しい一戸建ての公営住宅が建ち並ぶ。だが洗濯物を干していた1軒を除き、やはり人の姿は見えない。

4月1日の『河北新報』には「公営住宅は町が復興拠点に位置付ける曲田地区に建設された。木造平屋40戸と2階建て10戸。自宅を解体したり、自宅が帰還困難区域にあったりする町民らが入居する」とあった。

同じ道筋に3月末、複合商業施設「さくらモールとみおか」が開き、向かいに東電の原発PR施設だった旧「エネルギー館」がある。ツアー一行は近辺で車を降り、里見さんの話に耳を傾けた。

「自分も原発事故前、団体で4回訪れて東電の説明を聞いた。『原子力は未来を担うエネルギー』だと。『チェルノブイリのような事故が起きたらどうする?』といった質問に、4人の違う説明員がそのたび『万が一にも事故はありません』と言った。

これが多数派の正論であるとPRし、国策に疑問を挟む者は少数派、過激派にされた。被災地を見て知るのは『1つの町を消滅させるエネルギー』でもあるという事実だ」「会津の仮設住宅にいたおばあちゃんは、それでも『東電に足を向けて寝られない』と話していた」......。

これらは住民に刻まれた、洗脳の傷といえた。同じ浜通り・相馬市生まれの筆者の小学校でも昔、福島第1原発の見学があり、「原子力は原爆とは違う、平和のエネルギーです」と作文に書いたことを思い出した。

分断された桜並木の町

「どうぞ写真を撮ってください。帰ったら友人や知人に見せて、被災地のありのままを伝えてください」と里見さん。車は同町夜の森地区に入り、朽ちかけた家々、解体後の更地や伸び放題の雑草が目立つ住宅地を通った。

やがて、町中なのに通行止めのバリケードが道路に現れた。「ここからが帰還困難区域です」。

車は向きを変え、たどった1本の路地の両側の景色が違っていた。左手は普通の家並みだが、右手は格子状の金属のバリケードが連なり、かつての東西ベルリンの壁のようだった。

福島第1原発から南に10キロの富岡町は、全域が警戒区域や計画的避難区域になった後、2013年3月、放射線量に応じて「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」に再編された。

今年4月1日の避難指示解除から取り残されたのが、帰還困難区域。道路1本を挟んでの扱いの違いは残酷に見え、解除になった側も無人であることが、政府の判断などの及ばぬ原発事故の本質を伝えた。

延長2.2キロもの桜並木で有名だった夜の森公園も、大半は帰還困難区域にある。4月9日付け『河北新報』は、公園のうち解除された約300メートルの区間で、7年ぶりの花見のイベントがあったと報じた。

桜は緑の葉に変わり、JR夜ノ森駅の土手に住民が50年かけて育てたというアジサイ約6000株も、除染ですべて伐採されていた。近くに車を止め、里見さんは放射線測定器を手に周囲を歩いた。

表示された線量は、1.16~1.4マイクロシーベルト毎時。政府や町が「復興拠点」とする富岡駅前や公営住宅街などの線量は、除染もあって0.1~0.2に低減していたが、ここは高いままだった。

見せかけの「復興」

富岡駅周辺から夜の森地区に向かう車窓から、耕す人のない水田の中に立つ真新しいビルが見えた。「国際廃炉研究拠点」と、富岡町の新しい地図に載っていた。建物に「CLADS」のロゴがあり、日本原子力研究開発機構が運営する廃炉国際共同研究センターだと分かった。

このツアーの3日後、ウランとプルトニウムの保管容器の処理中に作業員5人の重大な被ばく事故を起こしたのが、同機構の茨城県の施設だった。富岡町の「国際廃炉研究」について、宮本皓一町長は5月10日付『河北新報』のインタビュー記事でこう語っていた。

――産業振興は。

「将来を見据えた企業誘致は欠かせず、中長期的に産業団地造成に取り組む。(第1原発の)廃炉に関する研究や作業に携わる企業などの集積を目指す」

――廃炉関連で4月、日本原子力研究開発機構(茨城県東海村)の国際共同研究棟が町内に開所した。

「国内外の企業などの研究者や学生が集まると期待している。町内には東電の福島復興本社があり、東電の旧エネルギー館は廃炉情報の発信機関になる。廃炉に携わる関係者が暮らすことは町の再生につながる」

住民が望む「避難指示解除後」の町づくりの姿とは何だろう。いまだ放射線量で町は分断され、住民たちの帰還やコミュニティー再生の動きは見えない。

福島第1原発の立地に経済や財政を依存した原発事故前から、町は「原発」を「廃炉」に看板替えするだけで何を変えるのだろうか。見せかけの「復興」を急ぐような寒々しさを感じざるを得なかった。

増えるスタディーツアー参加者

帰路は富岡インターまで、草むらとなった水田風景が続いた。

「ここも同じ日本の風景、同時進行している日常だ。誰でも、自分のいる場所とこの被災地を1つにして、いまの日本だ」「われわれは地元の農水産業を一番大切にしなきゃいけなかった。コミュニティー、田舎、古里を。本当の暮らし方、生き方と真剣に向き合う仲間を増やしたい」と里見さん。

富岡町内では、NPO法人「ふよう土2100」の仲間が引率する、40人余りのスタディーツアーの団体バスとすれ違った。大手電話会社の社員だった。首都圏などの大学のゼミ旅行も多い。参加が1人でも歓迎し、「その方が深く語り合える」。

埼玉県から来たある年配者は、地元に帰ってツアーの体験を話し、町内会有志を引率して再び参加してくれた。「ニュースで分かったつもりでいたが、被災地を見て心の底から悲しい」と感想を語った人もいる。

縁ができた支援者や、交流サイトを通じてツアーは広まり、積み重ねた参加者は3500人を超えた。里見さんは言う。

「自分たちも原発事故で苦労をしたが、被災地の人は家も古里もすべて失った。元禄から続く旅館を受け継ぎ、重みは分かっている。代々のものを失うことを言葉では表せない。原子力災害から目をそらさず、ごまかさず、きちんと向き合わなくては、と考えた。双葉の人たちの話

をたくさん聴き、それを伝える役目を少しでも担えたらと思う」

「経営者」から生まれ変わって

車は出発地の湯本温泉に近づいた。温泉のホテル、旅館は2011年3月以後、福島第1原発の事故処理などの作業員宿舎として政府の借り上げを受け、一般客を受け入れてきた宿は、2012年夏に営業を再開した古滝屋と、スパリゾート・ハワイアンズだけだった。

原発事故の「風評」も厳しいさなか、あえて苦難の選択をした古滝屋主人・里見さんはこう語った。

「大震災、原発事故の前と後で年間の宿泊客は9万人から1万5000人と少なくなったが、新しい経営をスタッフみんなで努力した。再開後はずっと赤字だったが、4年目から収支とんとんになり、利益は変わらなくなった。お客の層も変わったし、自分も変わった。毎日必ず誰か知っている人が泊り、毎日一緒にモーニングコーヒーを飲むようになった。優しい心を持った人で館内が満ちているようで、近況を語り合う時間も生まれた。震災前よりいまの方が豊かで充実している」

「以前は、営業マンたちが旅行会社に売り込みを掛け、他の温泉地と価格のたたき合いになったり、ダンピングになったり。古滝屋ではなく旅行会社が作ったプランで団体客が宴会をし、旅館の名も覚えぬまま去っていった。そのころは140人のスタッフがいて役割を分担し、自分は経営のことだけ。お客のことを何も知らなかった。古滝屋は集客力が強かったから、競争相手をたたき落とすようなことがよくあった。140人のスタッフを食べさせていかなくてはならなかったし。若いころは東京の住宅メーカーでバリバリの営業マンをしていた。いかにライバルを打ち破るかを日々の目標に、新人賞や成績優秀者の招待旅行に選ばれたりした。だから、古滝屋に戻った時は、自分にかなう者はいないと思っていた」

「いまは『原子力災害から、何を変えて、どう生きていくか』を、ツアーなどで出会う人たちと対話をしていくことが大切になった。(福島県内の)原子力災害で関連死をした人は2150人を超えた。数字で表現することは簡単だが、その1つ1つが尊い命。人権がひっくり返った現実がここでは進行中だ。その無念の中で失われた命を新聞で確かめるたび、いまを生きていることが奇跡なのではと感じ、生かされた自分の命をどう使っていくかに思いをはせる。そんな自分が本当の自分だったと感じる」

「NPO活動を始めて、全国に被災地のことを発信してから、知り合った人が『泊まるなら里見くんの旅仲間に紹介してくれた。その縁のつながりが、この6年で想像もつかないくらい広がった。営業やマーケティングをして100人の匿名のお客を無理矢理引っ張らなくても、いまは、つながった1人が100人の仲間を紹介してくれる」

「再開時はスタッフ数人からスタートし、いまは25人。1人何役もやりながらがんばり、今春、6年ぶりに新人を採用できた。新しい古滝屋の歴史をまた開拓していこうと思う」

【避難指示解除後の双葉郡の帰還者】

*楢葉町(2015年9月5日解除) 5月31日現在で896世帯、1683人(原発事故前は2576世帯、7700人)

*富岡町(2017年4月1日解除) 6月1日現在で111世帯、172人(原発事故前は6302世帯、1万5830人)

*浪江町(2017年3月31日解除) 5月31日現在で165世帯、234人(原発事故前は7671世帯、2万1434人)

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寺島英弥

ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。

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(2017年7月4日フォーサイトより転載)

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