トリチウム水「海洋放出」を危惧する福島の漁業者

科学的に安全なレベルに薄められても汚染水に変わりはなく、大量放出となれば計り知れぬ「風評被害」再燃の恐れがある。

廃炉工程にある東京電力福島第1原発でいま、汚染水の処理後、構内のタンクで保管中の水が約80万トンに上っている。「浄化水」ではなく、水と唯一分離不可能な放射性物質トリチウムが溶け込んだ廃液だ。それを希釈して海に放出し、汚染水問題を一気に解消したい政府に対して、地元福島県の漁業者たちは絶対反対の構えだ。

科学的に安全なレベルに薄められても汚染水に変わりはなく、大量放出となれば計り知れぬ「風評被害」再燃の恐れがある――との理由からだ。こつこつと試験操業が続けられてきた福島の漁業復興の上で最大の懸案になっている。

市場再建祝う6年ぶりの祭り

「ようやく施設の再建にこぎつけた。これから、ここで交流イベントを企画し、我々の試験操業で捕れた魚が安全だと消費者に知ってもらい、安心して食べてほしい。風評は漁業復興の上で最大の問題。払拭はなかなか難しいが、本格操業に向けて努力を重ねていきたい」

福島県相馬市の松川浦漁港で10月1日、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故を挟んで6年ぶりに催された「ふくしまおさかなフェスティバル イン 相馬」。大津波で荷さばき場(魚市場)と事務所を壊され、仮施設で試験操業を続けてきた相馬双葉漁協の佐藤弘之組合長は、再建された拠点を披露する祭りの開会式で、集まった市民に復興を誓った。

同漁協の試験操業は2012年6月から、漁協組合員が週2、3回ほど船を出し、監督機関である福島県地域漁業復興協議会(県、流通業者、消費者、水産専門家らが参加)の専門委員会が「安全」と判定した魚種のみ、限られた量だけ漁獲している。水揚げされた魚介類は放射性物質の検査を経て、通常の競りでなく業者との相対取引で売られている。福島第1原発事故の1カ月後、東電が原発構内の汚染水1万1500トンを海に放出処分し、それが原因で同県の漁業者は操業自粛を強いられてきた。試験操業が許されるには、県と合同のモニタリング調査で、魚種ごとに基準値を継続してクリアするのが条件。「当初わずか3魚種だった試験操業は今、92魚種に増えた」と佐藤組合長は、辛抱を積み重ねた成果に胸を張り、全国の市場、消費者から信頼を得ての本格操業再開へ希望をにじませた。

4800平方メートルの明るい荷さばき場は大漁旗で飾られ、魚のつかみ取りや名物のカレイの塩焼きに大勢の人の輪ができ、岸壁に停泊した漁船に家族連れが試乗するなど、約8000人の来場者でにぎわった。「震災前の祭りのにぎわいがよみがえった」と漁協関係者は喜んだ。他にも明るいニュースはある。試験操業で捕っているコウナゴが、西日本の産地の禁漁措置(高水温が原因)のため震災前のような高値で売れたり、相馬の浜を代表する魚であったヒラメ、アイナメが8月以降、新たに試験操業の対象魚に加わったりした。

しかし、祭りに参加した漁業者の表情は厳しいままだった。

「相馬産のコウナゴの好況は一時的な需給関係の結果で、他産地の水揚げが元に戻れば、また、風評を織り込んだ『2等級下』の値で買いたたかれるのではないか」

「再建されたとはいえ、相馬の市場の大きさは本来、年に50億円の売上がないと自立も維持もできない。道はまだまだ遠い」

そして、共通して聞かれたのが「福島第1原発の汚染水処理がどうなるか」という懸念だ。沖合底曳き船主の高橋通さん(61)は言う。

「(原発構内には)最後に残った"やっかいもの"のトリチウム水の保管タンクが山ほどある。『それを海に放出したらいい』という話が政府から出ている。東京オリンピック(2020年)の1年前には片付けてしまいたいのだろう。しかし、そうなったら『風評』はどうする? これまでの努力が帳消しにされる」

「放出やむなし」の世論づくり                   

トリチウム(三重水素)は放射性物質の1種で、水素と性質が似ている。そのため、それが溶け込んだ水から分離できず、13年3月から福島第1原発の汚染水(約60種の放射性物質を含む)処理で東電が稼働させている「多核種除去設備(ALPS)」でも唯一除去できないでいる。汚染水処理を東電は当初「浄化」としていたが、実際には半減期12年のトリチウムを含んだ廃水は現在約80万トンが保管タンクにためられている。

汚染水は、溶けた核燃料が残る原子炉建屋に地下水が流入して毎日発生。それを減らそうと東電が建屋の周囲に開設した「凍土壁」などの対策にも劇的な効果が見えず、トリチウム水は増え続けている。

漁業者が懸念する海洋放出は、13年9月、日本原子力学会の福島第1原発事故調査委員会が最終報告案で「自然の濃度まで薄めて放出」を提案。以後、せきを切ったように政府の原子力規制委員会、経済産業省の幹部らが「放出はやむなし」との見解を相次いで表明し、今年4月には政府の汚染水処理対策委員会が「海洋放出が最も短期間に、低コストで処分できる」とする試算を明らかにした。

(1)深い地層に注入

(2)海洋放出

(3)蒸発

(4)水素に変化させて大気放出

(5)固化またはゲル化し地下に埋設

――の方法を検討した結果で、これからの処分方法の絞り込みに向けた議論のたたき台にするという。

トリチウムは原発の運転過程でも発生し、これまで各地の原子力施設から海に放出されてきた事実がある。田中俊一原子力規制委員長も「廃炉に伴う廃棄物が増える中で、タンクは延々と増やせない。(汚染水処理設備で取り除けない)トリチウムは分離できず、濃度基準を下回る水は何十年も世界で放出されている」(16年3月8日の河北新報の記事より)と述べるなど、科学的に問題はないとたびたび発言している。

しかし、そうした事実そのものが、一般にほとんど知られてこなかったのではないか?

「海に放出されたら、また大きな風評が起きる。それは感情論だと田中委員長は言うかもしれないが、人の不安の感情から始まるのが風評問題なんじゃないか」

やはり10月1日、松川浦漁港での祭りに自らの小型漁船とともに参加した今野智光さん(58)はこう語った。

相馬の漁業者にとっては、トリチウム水も汚染水に変わりはないという。汚染水という言葉自体が、トラウマになるほど苦い経験の数々と重なっているからだ。漁業を復活させたい一心で試験操業を続けていた13年7月22日、東電がそれまで隠していた福島第1原発での汚染水海洋流出事故を突然公表し、相馬双葉漁協は、漁の最盛期だったタコの取引を中京地方の市場から半ば門前払いされた(当時、その風評は同県内陸の農産物などに及び、福島市周辺の桃の売上も減った)。

15年2月にも別の長期にわたる汚染水流出事故の隠ぺいが発覚。漁協は風評再燃を恐れ、試験操業中だったシラス漁を延期せざるを得なかった。不信感は、そのたびに漁協組合員への対策説明会を開いて謝罪を繰り返す東電だけでなく、同じ場で「東電任せでなく、国が前面に出て汚染水対策、風評対策に取り組む」との約束を重ねてきた経産省など政府にも向けられてきた。

過去の説明会で漁業者たちは、トリチウム水の海洋放出への懸念と拒否の意思を訴えてきたが、東電側はそのたびに放出の可能性を否定してきた。それゆえに漁業者たちは、新聞で知るしかない政府関係者のトリチウムをめぐる発言や動きを、自分たちの声も手も届かぬ場所での「世論づくり」とみる。 

ソウルではPR行事中止

9月23日、福島市で「北日本漁業経済学会」が福島第1原発事故と漁業復興をテーマにしたシンポジウムを開き、福島の浜を歩いている大学の研究者、県漁協やメディアの関係者ら約60人が集った。発表者になった同市内の生協の幹部がこう語った。

「九州と沖縄の7県の生協が東日本大震災の被災3県(岩手、宮城、山形)の復興支援カタログを統一して作り、産品を取り扱っている。ところが、今年5月の新聞報道を見た、あるコープの会員から『国がトリチウム水を海洋放出することになったら、コープ九州の復興支援カタログで東北の海産物は企画しないでほしい』という声が寄せられた。普通の国民の感覚、消費者の感覚からすれば当然の反応なのかな、と思う」

この幹部は、前述の汚染水処理対策委員会の基礎的な検討作業に参加の依頼があり、民間人の視点で携わりながら、驚かされることがたびたびあったと述べた。

「そもそも福島第1原発のトリチウム水の原水濃度は30万~42万ベクレル/リットルと知ったが、海洋放出案では、それを薄めて6万ベクレル/リットル程度の濃度で海に流すという。だが、薄めればよい、という発想が住民、消費者の目線からは受け入れられないのではないか。専門家の発言の中に、トリチウム水はいわゆる汚染水とは違う、ということを強調する場面がしばしば見られることも気になる」

この生協傘下の地元食品会社では、福島県産大豆を使った豆腐製品の売上が、昨年も原発事故の前年比2割減の状況で、水産品以外でも消費者の厳しい反応は続く。トリチウム水の海洋放出が実施されれば、前述の九州からの反応のような事態が広がると危惧する。

現実に風評は福島県以外の被災地でも復興を阻む「壁」となり、珍味で知られるホヤの主産地・宮城県の漁業者たちは13年7月の福島第1原発の汚染水海洋流出を理由にした韓国政府の輸入規制(東日本8県の水産物が対象)で、原発事故前に出荷の7~8割を占めた韓国市場を失った。大津波で壊滅したホヤ養殖は14年から復活したが、今年ついに生産過剰となり、同県漁協が苦渋の選択で国内出荷分を除く計1万4000トンを水揚げ後に廃棄した。石巻市でホヤ養殖を営むある漁業者は「輸入規制そのものが風評問題。この上、福島第1原発のトリチウム水を海に流されたら国内外の風評はさらに長引き、輸出再開はもう望めない」と話す。

2月には、外務省が東日本大震災の被災地復興を韓国・ソウルでPRする行事の中止を余儀なくされた。

《東北地方の菓子や日本酒の宣伝も予定したが、韓国の市民団体が東京電力福島第1原発事故を理由に食品の安全性に疑問があるとして反発、抗議する動きを見せていた。聯合ニュースによると(開催地の)城東区は「公の場所で原発事故発生地の生産物を無料で配ったり販売したりすることは適切でない」としている》(2月20日の共同通信より)。

シンポジウムに出席した別の同県生協連幹部は「政府関係者の発言などを報道でみると、『福島県の漁業者』に当事者を限定し、現実を小さくしているように見える。国民全体に関わる問題なのに、他県では報道、関心も薄いのではないか」と語り、宮城、岩手、茨城各県の漁業者らも参加できる、開かれた議論の場を求める意見も自由討論で出された。                

協力してきたのに......

これに対し、シンポジウムに出席した野崎哲福島県漁連会長(傘下は相馬双葉、いわき市各漁協)は、あくまで漁業復興と廃炉作業の両立を政府、東電は守るよう訴えた。毎日約400トン発生していた汚染水を減らす対策として、これまで県漁連は「地下水バイパス」「サブドレン」(汚染前の地下水をくみ上げ、海に放出する方法)などの提案に協力してきた。風評発生の懸念に対する組合員の激論を説得しながら、「廃炉作業に協力するのが漁業復興への道でもある」と苦渋の決断で認めてきた経緯がある。だが、トリチウム水の海洋放出に関して、野崎会長は「我々の漁業の死滅を意味する」と受け入れない考えを示し、「デブリ(溶融した核燃料)の取り出しまで、少なくとも10年間はタンクでの保管を続けてほしい、というのが県漁連の立ち位置」と訴えた。

シンポジウムを企画した学会メンバーの濱田武士北海学園大教授(地域経済論)は、試験操業を監督する前述の同県地域漁業復興協議会の一員として福島の浜を歩いてきた。その経験から取材に次のように語った。

「トリチウム水の海洋放出の動きに漁業界など地元が強く反発する(内堀雅雄同県知事も政府に慎重対応を要望)のは、処理前の状態は福島第1原発の原子炉内で発生した高レベル汚染水であったからに他ならず、地下水バイパス、サブドレンでくみ上げる地下水と同じものとは扱えない。しかも放水となれば、安全性に問題がないとしても、報道を介した波紋は計り知れず、消費者に向けて福島の魚の安全を証明し、信頼を取り戻そうと慎重に行われてきた試験操業が振り出しに戻る可能性がある。風評収束を福島の漁業者が望んでも、政府の進め方が強引だと逆効果になりかねない」

「国が前面に出ると政府は繰り返してきた。福島県の漁業者も汚染水対策を承認する条件として、トリチウム水の海洋放出だけはしないでほしい、と求めてきた。それだけ影響の大きな問題なのに、政府は合理性を前面に押し出して福島県の漁業者を追い込むような空気をつくり、最終判断の責任をひとり負わせようとしているのはどうなのか」

「五輪前の処理」が本音?

トリチウム水の海洋放出が最も低コストとする試算を報告した政府の汚染水処理対策委員会(委員長・大西有三京都大名誉教授)は9月27日、処分方法を絞り込むための新たに小委員会を設置した。前述のトリチウム水の処分方法について 6月に出した報告書を基に、技術的な観点だけでなく、風評被害などの社会的な問題も検討し、適切な処分方法について評価をまとめるという。

福島第1原発の廃炉を急ぐ上で最大の課題になったトリチウム水の処理について、海洋放出を唯一の方針として理論武装しつつ固める作業を急ぐように見える政府の動き。2013年7月に汚染水海洋流出事故が明るみに出て間もなく、ブエノスアイレスでの国際オリンピック委員会総会で安倍晋三首相が、汚染水の状況は「 コンプリートリー・ アンダーコントロール」(完全に制御されている)と国際公約して2020年東京オリンピック招致に成功したのは記憶に新しい。相馬の漁業者が「東京オリンピックの1年前には(トリチウム水問題を)片付けてしまいたいのだろう」と指摘したように、公約の手前、オリンピックの前に、福島第1原発が抱える問題の目に見える解決や復興ぶりを見せたいというのが政府の本音なのではないか。

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寺島英弥

河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。

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(2016年10月24日フォーサイトより転載)

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