1年前、フランス大統領選がこんな展開になると、誰が予想しただろうか。
エマニュエル・マクロンの政治運動「前進!」が発足したのは、昨年の4月6日だった。その頃、マクロンはまだオランド政権の経済相を務めており、大統領選への立候補も定かではなかった。
大統領選は、現職のフランソワ・オランドと、右派の公認候補最有力と目されていた元首相のアラン・ジュペ、それに右翼「国民戦線」のマリーヌ・ルペンの3人を軸に進む、というのが常識的な予想だった。
4月23日の第1回投票まで間近となった現在、その見通しは大きく外れ、39歳のマクロンが大統領に最も近い地位につけている。番狂わせ(すでにこうなったのが番狂わせなのだが)がない限り、国民戦線党首マリーヌ・ルペンとともに第1回投票を勝ち残り、決選でルペンを破って当選しそうな勢いである。
その全体情勢は、渡邊啓貴・東京外国語大学教授の本欄論考「にわかに過熱した『マクロン人気』:混沌とするフランス大統領選挙」(2017年3月31日付)に譲るとして、ここではマクロン急浮上の理由と、それを助けた環境について考えてみたい。
「未確認政治物体」
マクロンは、謎めいた人物である。いつも明るく、一見軽そうで、実際の行動は大胆だ。ずうずうしいようで、礼儀もわきまえる。超エリートであるのに、エリート臭さは薄い。テレビ『フランス2』のメインキャスターであるダヴィッド・プジャダスは、マクロンを招いた際に「70年代には未確認飛行物体(ovni=UFO)が話題になったが、今日のゲストは未確認政治物体(opni=UPO)です」と紹介した。
彼の急速な台頭の背景に、いくつかの偶然が作用しているのは間違いない。オランドが再選立候補を断念しなかったら、右派政党「共和主義者」の予備選でジュペが候補に選ばれていたら、ジュペの代わりに公認候補となった元首相フランソワ・フィヨンがスキャンダルで失速しなかったら......。
ただ、マクロン急浮上の背景にはまた、必然的な要素もあった。不特定多数の有権者を結集する理念、従来の政治に満足しない世論の動向を読み取る能力、そこから選挙戦略を組み立てる組織力や行動力など、従来の政治家に欠けていたいくつかの資質を、彼は備えていた。
これらを元にした彼の政治姿勢と戦略が、左右の極端な候補ばかりが残る中、左右双方のコンセンサスを得られそうな唯一の穏健派の地位へと、彼を導いたのである。
「政界食物連鎖」の外から挑戦
急浮上の第1の要因は、マクロンが政界に色気を見せず、そこから距離を置いてきた点である。
エマニュエル・マクロンは、これまで1度も選挙に出たことがない。この大統領選で初めて、有権者の審判を受けることになる。
これは、一般的に大統領になるうえでのマイナス要因と見なされてきた。「国民の声に本当に耳を傾けていない」「1度も審判を経ずして大口をたたくな」などなど、右左に限らず批判は強い。
一方で、マクロン自身はこれをむしろ、プラスの要素だと認識している。
マクロンはエリート校の国立行政学院(ENA)を出て会計検査院に、続いてロスチャイルド銀行に勤め、企業買収に携わった。2012年、米製薬大手ファイザー傘下の企業買収を巡ってスイスのネスレ、フランスのダノンという両食品大手が買収合戦を繰り広げたが、最終的にネスレが勝利を収めた背景にはマクロンの助言があったという。
彼の能力は政治家の間でも評判となり、右派のフィヨン周辺が彼をスタッフに引き抜こうと画策した。しかし、マクロンは左派を選んだ。オランド政権発足に伴って大統領府(エリゼ宮)の副事務総長に就任して政権入りした。
ここで2年務めて経済相に転じるのだが、その際最初に取りざたされたのは、総選挙への立候補だった。フランス南部の具体的な選挙区もうわさになり、その選挙区の現職議員が勝手に反発して騒ぎにもなった。
しかし、本人にはどうやらそんな気は毛頭なかったようだ。
「英国を見てほしい。新しい指導者がしばしば登場するではないか。フランスでは、同じことを5度、6度繰り返さないとお墨付きをもらえない。そうしてようやく、番号札を手にして行列に並ぶことができる」
『フィガロ』紙編集委員のフランソワ・グザヴィエ・ブルモが出した評伝『エマニュエル・マクロン 王になりたかった銀行家』によると、マクロンは経済相時代、研修で尋ねてきたパリ第1大学の学生たちを前に、こう語ったという。
「2017年に私は国民議会(下院)議員になって、2020年にはどこかの自治体の首長を兼務し、2021年の予備選に立候補する。だけど、まだちょっと若すぎるからこの時は慣らし運転で、2027年大統領選に備える――。もしこんなつもりでいたら、死んでしまうよ。政界の食物連鎖に絡め取られることは、リスクを冒さないことなんだ。これだと選挙は、挑戦したり理念を創造したりすることでなく、権力にしがみつこうとすることになってしまう。リスクを冒すには、一時に集中して政治に携わる必要がある。私は政治家を60歳までやろうなんて全然考えていないね」
つまり、彼は「議員→大臣→首相→大統領」といった政界のステップを踏むつもりなど端からなかったのだ。政界に浸っていては、まともな政治はできない。そう認識し、実践している。それは恐らく、多くのフランス人が持っている感覚でもあろう。
広義のポピュリスト的側面
このようなスタンスで頂点を狙った政治家がかつていた。シラク政権で大統領府事務総長を務め、その後転じた外相時の国連安保理演説で、「戦争は、何かの失敗を受けた取り繕いに他ならない」と訴え、イラク戦争反対の論陣を張ったドミニク・ドヴィルパンである。ドヴィルパンは結局、1度も選挙を経ないで首相まで務めた。彼は議員たちを、停滞と保身の権化と見なし、信頼しようとしなかった。
ドヴィルパンは今回の大統領選で、マクロンを支持する意向を示しているが、それは彼に自らの姿を重ね合わせているからかもしれない。
ただ、ドヴィルパンに対する議員たちの嫌悪感は強く、特に身内の保守側からの反発が際立った。彼がシラクの後継とならず、政界にどっぷりつかった前大統領サルコジにその座を奪われた1つの理由として、議員たちの協力を得られなかった点が挙げられる。
当時と今とでは、状況が違う。先進国ではどこでもそうだが、議会は民衆の代表としてではなく、エスタブリッシュメントの既得権の象徴として見られるようになった。政界に対する世論の不信感もますます強い。その点で、マクロンはドヴィルパンより有利な立場にあるといえる。
政界と距離を保つことは、現状に安住しない態度を示すことだ。それが、民主主義の重要な要素である「選択」「変化」を体現することにつながっている。
一方でそれは、民主主義のもう1つの大事な要素である「合意」を軽視する姿勢にもつながる。その意味で、マクロンはドヴィルパンと同様に、広義のポピュリスト的な側面を多少ながら持っている。もちろん、トランプ大統領やルペンといった現代的意味でのポピュリストとは異なる概念であるが。
「マクロン法」制定で才能を発揮
マクロン急浮上の第2の要因は、自らの有能さを内外に示せたことである。
フランスで強い影響力を持ついくつかの法律は、その発案者や制定に尽力した人の名をつけて呼ばれる。ミッテラン政権時代に死刑を廃止した法相にちなんだ「バダンテール法」、週35時間労働制を定めた雇用相の名を冠した「オブリ法」などがそうだ。その意味で、百貨店の日曜開業を拡大するなどの規制緩和策「マクロン法」を2年間の経済相在任中に制定したマクロンは、若くして歴史に名を残したといえる。
この法案は当初、難航が予想された。働く機会を拡大するのが目的であるだけに、労働時間の短縮を目指してきた社会党や左派の方針に反すると考えられたからだ。既存の制度下で利権を分け合ってきた既成政治勢力、特に議員たちが反発した。
しかし、マクロンは法案審議で野党議員1人1人を回って説得し、最終的に2024回の修正という記録を作りつつ、法律の制定にこぎ着けた。これでマクロンに対する評価は定着した。
サラリーマンの出世のように政界の階段を1歩ずつ上がってきた他の政治家に、このような実行力は到底期待できない。やはり、ロスチャイルド銀行時代に蓄積した経験やノウハウは、ただものではなかった。多くの人はその才能の背景に、彼のビジネス界での経験を見て取ったのである。
『エマニュエル・マクロン 王になりたかった銀行家』の中で、大手調査機関カンター・ピュブリック・フランス代表のエマニュエル・リヴィエールはこう指摘している。
「人々は、政治家としての経歴以外の部分で才能を発揮できる人物を求めていたのです」
このような世論の意識は、米国民がトランプに期待した心情と共通しているかもしれない。政治経験の全くないトランプは、ビジネスで培った交渉技術や管理術で十分だと訴えた。それが多くの人の目に、新鮮に映った。
もちろん、ビジネスと政治は異なる分野であり、ビジネスで優秀だから政治もできると限らないのは、鉄棒名人がマラソンで1位になるとは限らないのと一緒である。ただ、マラソン大会常連下位のメタボ男よりも、マラソン初挑戦の鉄棒男に期待したい気持ちは、多くの人が抱いている。
党とは距離を
第3の要因は、マクロンが社会党に頼らなかったことである。
マクロンの実際の政治的立場は中道に近いが、彼自身は自らを「左派」と位置づけている。しかし、彼を攻撃するのは右派に限らない。従来の「丁稚奉公」をバイパスしながら頂点を目指しているだけに、身内の左派、特に社会党内からの反発も根強い。
党内でマクロンに批判的なのは、政治的立場の異なる党内左派よりもむしろ、政治的な立場が近い党内右派だといわれている。特に、オランド政権を支えたミシェル・サパン、フランソワ・レブサマンの両元労相は、マクロンの足を引っ張ろうとしたといわれる。本来なら自分たちの下で雑巾がけをすべき若造が、飄々とトップを目指す。そのような姿に我慢がならなかったのだろう。
一方で、マクロンはこのような党と明確に一線を画している。
マクロンは若いころ、一時的に社会党に籍を置いたことがあるが、実際にはほとんど活動に携わらなかった。彼自身、「党の活動をしたり、ビラを貼ったり、集会に参加したりするよりも、仕事をしたり本を読んだりする方に時間を費やしてきた」と述べたことがある。
オランド政権のスタッフとなり、続いて経済相に就任しても、彼は党に近寄らなかった。社会党本部はパリ左岸オルセー美術館に近いソルフェリーノ街にあるが、マクロンは1度も足を踏み入れたことがない、といわれている。
社会党は、国民議会の平均以上に既得権と長老支配が染みついた組織である。90年代にジョスパン内閣で主要閣僚として活躍した元第1書記(党首)のマルチヌ・オブリらが20年を経ても相変わらず影響力を持ち続け、次世代の前首相マニュエル・ヴァルスらを含めて大物同士が互いに牽制し合っている。
その結果、何の改革も進まない。その衰退ぶりは、政権与党でありながらこの5年間に党員を減らし続けたことからもうかがえる。マクロンにとって、近寄るメリットはどこにもない。
マイナス要因
ただ、社会党内でマクロンが緊密な関係を維持している人物はいる。他ならぬ大統領フランソワ・オランドである。
前述の『エマニュエル・マクロン 王になりたかった銀行家』によると、オランドはしばしば、ごく親しい人物だけをエリゼ宮に招いて夕食を摂る。私生活の元パートナーで環境相のセゴレーヌ・ロワイヤル、エリゼ宮事務総長のジャン=ピエール・ジュイエ、広報顧問ガスパール・ガンゼルらが常連で、国民教育相のナジャット・ヴァロー=ベルカセムが加わることもある。このインナーグループの中に、マクロンも入っているのだ。
オランドとロワイヤルの元カップルに近い人物は、「マクロンは、オランドとセゴの隠し子だ」などと軽口をたたいているという。「首相のベルナール・カズヌーヴはオランド一家にとって理想的な婿養子だが、マクロンは理想の子どもだ。何をするにも、パパとママンの承諾を忘れない」
また、マクロンはしばしば週末にオランドを訪ね、政策について1対1で話し込んでいたという。
社会党の重鎮を相手にしないマクロンの態度も、ボスとしっかり結びついているからかもしれない。
もっとも、低支持率が定着してしまっているオランドとの密接な関係は、マクロンにとって大きなマイナス要因となりかねない。
マクロンは今年2月の『ロプス』誌インタビューでオランドについて語り、「彼は良い仕事をしたが、それをみんなに説明できなかった。点描画を見るように少し離れて彼の統治を評すれば、それほど悪くない画家だとわかる。
残念なことに、彼は自らの筆づかいや描いた対象について説明する術を持たなかった」と穏やかな形で批判した。背景には、オランドとの違いを強調したい意識があったと考えられる。(敬称略・つづく)
国末憲人
1963年岡山県生まれ。85年大阪大学卒業。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。パリ支局長、論説委員を経て、現在はGLOBE編集長、青山学院大学仏文科非常勤講師。著書に『自爆テロリストの正体』『サルコジ』『ミシュラン 三つ星と世界戦略』(いずれも新潮社)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』『巨大「実験国家」EUは生き残れるのか?』(いずれも草思社)、『ユネスコ「無形文化遺産」』(平凡社)、『ポピュリズム化する世界』(プレジデント社)など。
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(2017年4月13日フォーサイトより転載)