日本も参加した第1回ハーグ平和会議(1899年)で設立された常設仲裁裁判所が、南シナ海問題で中国に全面的に不利な判決を下したところ、判決は紙くずに過ぎないなどと、法治国家の常識からかけ離れた反応を中国は示した。
そうした中でも、柳井俊二元駐米大使を「右翼」と攻撃し、今回の判決の黒幕呼ばわりしたことに、「なぜ?」と首をかしげた読者も多かっただろう。
柳井氏は外務省を退官後、2011年10月に国際海洋法裁判所所長に就任。任期中に、今回の裁判を担当した仲裁人(判事)5人のうちの4人を任命したことを挙げて、公平性に問題があると中国が言いがかりをつけているのだ。
しかし、中国が騒ぎ立てるのには、より深いところに理由がありそうだ。
国際法のプロとして
冷戦終結までの外務省の中心は、条約局(現在の国際法局)であった。
第2次世界大戦での敗戦後、吉田茂政権下でのサンフランシスコ講和条約(1951年)や同日に署名された旧日米安全保障条約、そして佐藤栄作政権下での沖縄返還協定(1971年)など、条約局が中心となり、国際社会への復帰と領土回復に向けた条約交渉が進められた。
1961年に東京大学法学部を卒業して外務省に入省した柳井氏も、1ポスト2年が基本という霞が関の人事ローテーションからすると異例に長期の4年半、条約局条約課事務官として沖縄返還交渉に携わり、資産の移転問題などに取り組んだ。
こうしたことが、条約局が外務省を主導してきたことの背景となり、外務省設置法第4条第5項「条約その他の国際約束及び確立された国際法規の解釈及び実施に関すること」を根拠とした条約の解釈権がフルに活用されてきた。
柳井氏は、のちに条約局で国際協定課、法規課、条約課と全ての課長職を歴任した上に、トップの局長も務めた。
国連海洋法条約にも関与
柳井氏の国際法に関する経験は、条約局勤務にとどまらない。国連代表部書記官として、第3次国連海洋法会議(1973年)に関わっている。
海の憲法といわれ、今回の南シナ海判決で大きな焦点となった国連海洋法条約は、1982年に採択されたが、その道のりは決して平坦なものではなかった。
「国際法の祖」といわれ17世紀に活躍したグロティウスは、「海洋自由論」を著して自国オランダの自由貿易を擁護したが、海洋に関する法典化の試みが実を結んだのは、第2次大戦後だった。
ジュネーブでの第1次国連海洋法会議(1958年)で、領海条約、公海条約、公海生物資源保存条約、大陸棚条約の4条約が採択されたが、これらを一本化した包括的な条約までにはさらに17年の歳月を要した。
最大の対立点の1つは、領海の幅員、つまり自国の沿岸から領海を何カイリ設定できるのかという点だった。
各国の対立から、領海条約や第2次国連海洋法会議(1960年)では領海の幅員については合意に達せず、領海条約には領海が何カイリかという規定は存在しなかった。
しかし、次第に領海を12カイリとする流れが強まり、我が国も1977年に領海法を制定して、それまでの3カイリから12カイリへと拡大。国連海洋法条約でもこうした動きを追認する形で、第3条で12カイリと定められた。
柳井氏は、内閣官房に設けられた領海法準備室の参事官として法整備に携わった。こうした海洋法に関する専門性も買われて、1996年に設立されたドイツ・ハンブルクの国際海洋法裁判所に転じたといえるだろう。
次官から駐米大使へ
柳井氏は、本省事務方トップの事務次官を経て、駐米大使に就任した。「次期中国大使人事『日本重視』は本当か?」(2015年12月28日)で詳述したように、次官から駐米大使に転じるのは、伝統的には外務省の王道中の王道と考えられ、それを体現した人事だった。
日米同盟の強化を世界で最も嫌う中国にとっては、駐米大使としてブッシュ――小泉の蜜月関係の初動を支えた経歴も、癇に障るのだろう。
2001年4月に首相に就任した小泉純一郎は、最初の外遊先にアメリカを選択したが、米国側は初顔合わせとしては異例のキャンプ・デービッド(大統領の公用別荘)での会談を設定。
こちらも就任間もなかったブッシュは、ジャパンパッシングと揶揄されるほど日米関係を軽視していたクリントン外交からの転換を印象付けた。
また、9.11直後の9月25日に小泉は再び訪米して米国への支援を表明し、ブッシュを安心させたが、こうした両首脳間での緊密な日米関係の舞台回しを担ったのが、駐米大使だった柳井氏だった。
中国には目障りな存在
退官後の柳井氏の活動で、国際海洋法裁判所所長と並んで重要なのが、安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会だろう。座長として安倍晋三首相と並ぶ柳井氏の映像を、中国のテレビは繰り返し放映し、両者が一体であることを強調した。
この懇談会が道筋を付けた集団的自衛権と平和安全法制も中国にとっては目障りな存在だ。中国の軍事的な台頭に備えて、日米同盟の機能を向上させるための法整備だったからだ。中国を念頭に置いた法整備であることは、日中双方にとって明らかであろう。
中国は柳井氏を右翼としたが、ここでいう右翼とは、一般の日本人がイメージする街宣車に乗った右翼というよりも、中国側が日本の保守派を"口撃"する時の決まり文句だ。
国営新華社通信系のメディアが、産経新聞に対して「右翼媒体(媒体はメディアの意)」、安倍首相には「右翼政治家」といった具合に頻繁に用いることから、柳井氏を含む日本の「右翼」は、中国共産党の論理からすれば許し難い勢力であることがわかる。
柳井氏は、『外交激変 元外務省事務次官柳井俊二』(朝日新聞社)の中で、台湾問題について次のように述べている。
「僕は中国の人にずっとこういうふうに言い続けてきているんです。
『あなたたちは「日本が台湾問題について発言することは内政干渉だ。台湾の問題は中国の内政問題だ」と言うけれど、平和的に台湾問題を解決する限りにおいては、日本は何も言わないし言えない。また言うつもりもない。
しかし、そこで戦争を起こしたら話は別だ。われわれの安全保障に直接関係があるんだから内政問題ではなくなり国際問題になる』と。
中国側はいやな顔をしますけどね」(P.235)
日本政府の公式見解と軌を一にした発言であり、日本側としては特に驚く点はないだろう。
この発言の背景には、2005年2月、日米の外務防衛担当閣僚が米国ワシントンで会談(「2+2」)し、台湾海峡問題の平和的解決を共通戦略目標としたことがあるが、中国側は激しく反発。現在まで根に持ち続けている。
中国側としては、柳井氏本人もさることながら、柳井氏に代表される日本外交の動き全般に苛立ち、自分たちの世界戦略が邪魔立てされていると感じ、「右翼」という言葉を口にするのだろう。
村上政俊
1983年7月7日、大阪市生まれ。現在、同志社大学嘱託講師、皇學館大学非常勤講師、桜美林大学客員研究員を務める。東京大学法学部政治コース卒業。2008年4月外務省入省。国際情報統括官組織第三国際情報官室、在中国大使館外交官補(北京大学国際関係学院留学)勤務で、中国情勢分析や日中韓首脳会議に携わる。12年12月~14年11月衆議院議員。中央大学大学院客員教授を経て現職。著書に『最後は孤立して自壊する中国 2017年習近平の中国 』(石平氏との共著、ワック)。
(2016年7月26日フォーサイトより転載)