英国の欧州連合(EU)離脱が決定して1カ月余りが経過した7月末、「愚か者」と罵声を浴びながら退陣したデイヴィッド・キャメロン(49)に代わりダウニング街10番地(英首相官邸)の住人となったテリーザ・メイ(59)は、着任後、極めて重要な決断を行った。
「世界で最も高価な原発」(BBC放送)といわれた英ヒンクリーポイントC計画(南西部サマセット州)の承認キャンセルである。
担当大臣である英民間企業・エネルギー・産業戦略相グレッグ・クラークが「計画の詳細を注意深く検討し、初秋までに結論を出す」とにわかにプロジェクト決定の延期を公式発表したのが7月28日夜。
数時間前に事業主体になる「仏電力公社(EDF)」が賛否の拮抗した取締役会でかろうじて計画実施を決議したばかりであり、翌29日には建設地のサマセット州でEDFの共同出資者となる「中国広核集団(CGN)」幹部らを招いた式典が予定されていた。まさに"ドタキャン"。いったい何が起こったのか。
習近平「英国爆買いツアー」
英国の原発計画といえば、思い出されるのが昨年10月に英国を訪問した中国国家主席習近平(63)と前首相キャメロンの間で結ばれた合意である。中国は資金面で行き詰っていた英の原発新設プロジェクトを支援するため、CGNがヒンクリーポイントC計画に33.5%(金額にして60億ポンド=約7900億円)、サイズウェルC計画(東部サフォーク州)に20%(推計36億ポンド=約4800億円)、ブラッドウェルB計画(南東部エセックス州)に66.5%(同120億ポンド=約1兆5800億円)をそれぞれ出資することを決定。出資総額が3兆円近くに膨らむ中国の大盤振る舞いに世界が驚愕し、"習近平の英国爆買いツアー"と話題を呼んだ、あの1件である。
このうち、ヒンクリーポイントCは英国にとって、1995年に運転を開始したサイズウェルB以来、四半世紀ぶりに新設する原発となるはずだった。計画では、世界最大の原発メーカーである仏アレバ社製の出力170万キロワット級EPR(欧州加圧水型原子炉)を2基建設することになっている。
だが、拙稿(「揺らぎ始めた『原発大国フランス』」2015年1月7日)などで再三指摘してきたように、最新鋭の「3.5世代」原子炉と呼ばれるアレバ社製EPRは、フィンランドのオルキルオト原発やフランスのフラマンビル原発で建設中にもかかわらず、設計の不具合や部品供給の遅れなどを理由に着工から9~11年を経ても完成せず、このためアレバ社は巨額の赤字に転落。
過去5年間の最終赤字合計額が98億ユーロ(約1兆1000億円)に達し、事実上破綻。昨年、仏政府が8割超出資するEDFの傘下に入って再建することが決まったが、世界の原発市場に一向に回復の兆しがないため、再生計画は迷走している。
オランド大統領の「皮算用」
実は、ヒンクリーポイントCに対し、事業主体(英法人EDFエナジー)と装置メーカー(仏アレバ)を束ねるEDFでは深刻な対立が生まれていた。今年3月にはEDFの最高財務責任者(CFO)のトマ・ピケマルが「(ヒンクリーポイントCの)事業を進めればEDFを危機に晒(さら)す」と主張し、抗議の辞任。
7月28日に開かれた事業推進の是非を決める取締役会では、18人の取締役のうち、1人が開催直前に「リスクが大き過ぎる」としてまたもや辞任。残り17人で採決した結果、賛成10人に対し、反対が7人と、僅差で事業推進が決まったという経緯がある。
それまで原子力事業の雇用確保のため賛成に回っていた労組も、英国のEU離脱決定後は「事業の先行きに不透明感が強い」として2~3年の延期を求める姿勢に転じている。
それでも、かろうじてEDFがプロジェクトにとどまったのは、最高経営責任者(CEO)のジャン=ベルナール・レヴィが旧友でもある大統領フランソワ・オランド(61)の事業推進要請に忠実だったからだ。
死に体のアレバにとって、虎の子の案件であるヒンクリーポイントCの2基のEPR受注を失えば、ただでさえ難航しているEDF主導の再生計画に赤信号が灯る。原子力事業全体で従業員数が1万7000人(うち国内1万人)とされるアレバの崩壊と雇用喪失は、支持率が10%台に低迷するオランド政権にとって大きな痛手になるに違いない。
穿った見方かもしれないが、先行き不透明なヒンクリーポイントCの事業を進めても、そのリスクが顕在化するのは早くても2019年とされる着工以降のこと。少なくとも、2017年に予定されている2期目の大統領選への影響は回避できる。そんな皮算用が政権側に働いたとしても不思議ではない。
英首相が問題視した「中国ファクター」
しかし、こうしたフランス側の思惑も英政府の"ドタキャン"で水泡に帰してしまう。ただ、英仏首脳間のコミュニケーションは歴史を積み重ねて洗練されており、「役者」が交代しても緊密さは変わらない。
英紙『フィナンシャル・タイムズ(FT)』によると、その前の週、パリのエリゼ宮(大統領官邸)を訪問した英首相メイはオランドにヒンクリーポイントCの承認延期を匂わせてこう伝えている。
「フランスと中国が出資するこのプロジェクトが英国の利益に叶うかどうか見極めるため、しばらく時間がほしい」
メイが問題視したのは、アレバ社製EPRの出来の悪さよりも、「中国ファクター」だったと複数のメディアが報じている。前述のように、キャメロン前政権はカネも技術も不足している英国の原発新設計画を後押しするため、昨年の習近平の英国訪問の際に中国から3兆円近い出資の約束を取り付けただけでなく、ヒンクリーポイントC、サイズウェルCに続き、2030年頃の稼働が見込まれているブラッドウェルBにおいて、中国CGN製の100万キロワット級原子炉HPR1000(中国名「華龍1号」)を2基建設するプランを飲まされてしまった。
ブラッドウェルはロンドンから約80キロしか離れておらず、信頼性に乏しい中国製原子炉の導入に対し、決定直後から住民の反対運動が起きているが、懸念材料はそれだけではない。
「中国は英国の原発の権益を利用して、世界的なエネルギー危機が生じた際に『電力を止める』と脅してくる可能性がある」
メイが今、最も信頼しているといわれる共同首席補佐官ニック・ティモシー(36)は昨年、原発新設計画への中国の関与の危険性をこう論じている。
当時メイは治安やセキュリティーを司る内相の地位にあり、ティモシーはその側近として中国との原発JV(共同事業)にひた走るキャメロン首相と財務相ジョージ・オズボーン(45)、さらに対中関係やインフラを担当していた財務政務次官ジム・オニールら親中派に警告を発していた。
キャメロン退陣後、首相の座に就いたメイは真っ先にオズボーンを解任。オニールも今回のヒンクリーポイントCの承認延期についてまったく情報を与えられておらず、辞任は必至と見られている。
破格の優遇措置でも相次いだ撤退
一方、国家プロジェクトの採算性の側面からみても、英国の原発新設計画は瑕疵が多すぎる。例えば、ヒンクリーポイントCの建設費は計画が具体化した2012年には約160億ポンド(約2兆1000億円)と見られていたが、今回事業推進の姿勢を維持したEDFは、最初の10年間だけで180億ポンド(約2兆4000億円)が必要と見ており、最終的には総事業費は245億ポンド(約3兆2000億円)に膨らむとの試算もある。
1基あたりの建設費が1兆6000億円にも達すれば、事業主体の電力会社が採算ラインに乗せるのは至難の業となる。
そこで英政府は、電力会社を支援するためCfD(Contract for Difference=差額決済契約)という手法を編み出した。これは日本でも再生可能エネルギーの普及支援のために採用されているFIT(Feed In Tariff=固定価格買取制度)に似た仕組みで、政府が新設の発電所がつくった電気を一定期間高額で買い取る。
例えば、ヒンクリーポイントCの場合、買い取り価格は1メガワット時あたり92.50ポンドと現在の市場価格の約2倍の水準に設定されており、しかも再生可能エネルギーなどの場合は有効期間が15年間なのに対し、ヒンクリーポイントCでは35年間も保証される。これが英メディアによって「最も高価な原発」と報じられた所以である。
ところが、こうした破格の優遇措置にもかかわらず、 2011年の東京電力福島第1原子力発電所事故をきっかけに、地元の英国勢はじめ欧州の電力会社が次々にプロジェクトから逃げ出した。
ヒンクリーポイントCからは2013年に英電力・ガス大手「セントリカ」が、ウィルファ・ニューウィッド(西部アングルシー島)計画からは2012年に「RWE」と「エーオン」のドイツ系2社が、ムーアサイド(北西部セラフィールド近郊)計画からは2011年の英「スコティッシュ&サザン・エナジー」に続き、2013年にはスペインの「イベルドローラ」が、といった具合に撤退が続出したのである。
いうまでもないが、これらのエネルギー企業は、安全性の追求によって膨らむ原子炉のコストや、風力をはじめ再生可能エネルギーへのシフトが加速することによって、「原発ビジネスは採算難に陥る」と見通したのだ。
踏みとどまったのは、「原発大国」を標榜してきたフランスのEDFや「エンジー(旧GDFスエズ)」などだが、ヒンクリーポイントCが象徴するように、仏電力最大手のEDFでさえ、単独事業では二の足を踏み、信頼性に疑問符がつく中国企業をパートナーに迎えざるを得ない苦境に追い込まれている。
足抜けするなら「今」
さらに、英独やスペインの電力大手がプロジェクトから逃げ出した空白を埋めたのが、日立製作所や東芝の日本勢である。日立は2012年、ウィルファ・ニューウィッドなどの原発新設計画の事業主体となる「ホライズン・ニュークリア・パワー」社の全株式を6億7000万ポンド(当時の為替レートで約890億円)でRWEとエーオン両社から買収。
一方、東芝も2014年、ムーアサイド計画を手がける「ニュージェネレーション」社の60%の株式を約1億ポンド(同約170億円)で取得した。
今回メイ政権によって、最も先行していたヒンクリーポイントCが事実上凍結され、日本の重電メーカー関係者の間には、「2番手以下のウィルファ・ニューウィッドやムーアサイドが繰り上がる」と無邪気に喜ぶ向きもあるが、欧州のエネルギー情勢に詳しい大手商社幹部は、「イギリスの原発計画は抜本的に見直される可能性が高い」と指摘する。
英議会下院では7月26日、「ウェールズ地方における原子力発電の将来」と題する報告書が公開された。ヒンクリーポイントCで設定された前述のCfDの行使価格が高額なことについて、報告書は「エネルギー政策では供給保証と環境対策の両面でコストのバランスを取るべき」とし、日立が手がけるウィルファ・ニューウィッド計画では、ヒンクリーポイントより低価格にすることに加え、「再生可能エネルギーに対して競争力を持つ価格設定にすべき」と勧告している。つまり、ヒンクリーポイントCの優遇措置はやり過ぎだったというわけだ。
日立はホライズン社を買収した際、リスク軽減のため、株式を順次売却していき「建設段階では連結対象外となるレベルまで保有比率を下げる」と説明していたが、新たなパートナー企業は現れず、2016年3月期の有価証券報告書にホライズン社はいまだに「100%出資の連結子会社」と記載されている。ウィルファ・ニューウィッドの着工予定は2019年。足抜けするなら、今しかない。(敬称略)
杜耕次
ジャーナリスト
(2016年8月10日フォーサイトより転載)