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ハーバード大生はどのような学生生活を送っているのか?
音楽や芸術は人間の営みから生まれ、人の感情や思考が刻み込まれたものである。だから音楽を学ぶことは人文学でもある。そのことをよく表しているのがアメリカの大学だ。ほとんどの大学に音楽学科または音楽学校があり、音楽を専門的に学ぶ学生だけでなく、幅広い学問分野に触れる1・2年次に教養科目として音楽を履修することもできる。ハーバード大学1年生ジェニファー・チャンさんの年間履修科目を見てみよう。
小さい頃からフルートとピアノを習い、将来は医者を目指しているジェニファーさんは、ハーバード大名門オーケストラでフルートを担当している。優秀な学生が多く集まるハーバードの中で良い成績を取るには並大抵の努力ではないが、音楽を始めとする教養科目や課外活動も幅広く行っている。それは彼女自身のライフスタイルであるとともに、大学の方針でもあるのだ。
「医学部大学院に進学するためには相当量の勉強が必要なので、勉強漬けの毎日のように見えるかもしれませんが、バランスの良さも大事だと思っています。アメリカの大学では勉強以外の課外活動も重視されています。大学のアドミッションが「バランスの良さ」や「多様な課外活動」を重視してくれたおかげで、高校時代に勉強以外のことにも打ち込むことができました。
私は音楽に出会えてほんとうに幸運だと思います。将来は健康で、ものごとをよく知っていて、趣味や特技の多い人になりたいです。ですから身体のエクササイズ、勉強、フルート、ピアノ、歌の練習は欠かしません。それはすべて将来なりたい自分につながっています」
ジェニファーさんが演奏しているハーバード・ラドクリフ・オーケストラは、最大2年間単位換算できる。アメリカの大学ではこのように、演奏実技も単位となることが多い。音楽を学び演奏することが、教養として広く認められているのである。
教養としての音楽はいつから?
それではいつから音楽が教養科目(リベラルアーツ)として学ばれているのだろうか?
教養としての音楽は、古代ギリシアまで遡る。紀元前8世紀の古代ギリシア数学者ピタゴラスは、音程、つまり音と音の高低差が極めて簡潔な周波数比で成り立っていることを発見した。たとえば8度の周波数は1:2、4度は2:3という具合に。このような発見を通じて、世界には美しく調和する原理原則が存在し、それらは数で表現できると考えたのである。
紀元前5世紀の哲学者プラトンが創設した学園アカデメイアでは、この考えを継承し、音楽を数学の一環として教えるようになった。さらに時代を経て、教養とされる学修科目は七科目に収斂・集約されていった。言語に関する三教科(文法、修辞学、論理学)、数学に関する四教科(算術、幾何学、天文学、音楽)である。これを自由七科、すなわちリベラルアーツという。
ここでいう音楽とは、「調和(ハルモニア)」の理論である。古代ローマ帝国が滅亡する5世紀頃、世界観が大きく変わる混乱の最中に、音楽を含むリベラルアーツが形を成していったことは偶然ではないだろう。そしてキリスト教の広まりとともに、修道院等を通じてリベラルアーツ教育も広まっていった。それが中世の大学で教養課程となる。
19世紀になると音楽は数学の一環としてではなく、芸術として、また人文学として教えられるようになっていく。この流れに先鞭をつけたのはドイツで、当時啓蒙思想や科学の進歩による近代化が進み、「人間そのものや人間の活動」が学びの対象になりつつあった。調性音楽が発展しはじめたのもこの頃である。
J.S.バッハを研究していた音楽学者J.N.フォルケルが、18世紀後半にゲッティンゲン大学で音楽を教え始め、ベルリン大学なども追随した。そしてドイツからアメリカへ最新カリキュラムとともに音楽教育も伝承され、全米最古の大学ハーバードで音楽が教えられるようになったのである。ハーバードの音楽学科も、「人文学部の中の音楽」という位置づけで始まり、それが全米に普及して今日に至る。そしてその中から、世界的に活躍する専門家も育っている。
現在の音楽科目は、古代ギリシアや中世で学ばれていた内容とは異なるが、世界や人間の普遍性を学ぶというリベラルアーツの役割は変わっていない。
世界を知り、世界へ向けて表現すること
では21世紀におけるリベラルアーツとは何だろうか? 今は知識を多く持つだけでなく、知識をどう生かすかがテーマとなる。いくつか授業の事例をご紹介したい。
たとえばハーバード大学の教養科目には『初日~5つの世界初演(First Nights: Five Musical Premiers)』という授業がある。初演とは、曲が初めて世界にお目見えする瞬間である。聴衆がどのように未知の音楽に出会い、受けとめたのか、当時の評論記事や書簡などから考える。
その5曲とは、『オルフェオ』(1607年モンテヴェルディ作曲)、『メサイア』(1742年ヘンデル作曲)、交響曲第9番(1824年ベートーヴェン作曲、『幻想交響曲』(1830年ベルリオーズ作曲)、『春の祭典』(1913年ストラヴィンスキー作曲)で、いずれも当時の価値観を変えた作品である。
たとえば『春の祭典』初演ではパリのシャンゼリゼ劇場が野次で大騒動となったが、後に傑作として評価を得ていったように、初めて見聞きするものには拒否反応が起こりやすいが、価値が分かれば受け入れられていくものもある。実はこの授業では新曲を委嘱し、その世界初演を聴く機会がある。つまり自分たちも「未知の音楽」が生まれる瞬間に立ち会うのだ。それは、新しい物事や価値観に接した時に、どのように向き合うのかを考えることでもある。
スタンフォード大学では音楽、映画、絵画、彫刻、文学などの芸術作品を通じて、「人はなぜそのように考え、表現したのか」「それが社会にどのような影響を与えたのか」などを、歴史的・社会学的・哲学的視点から学ぶ。答えはただ一つではなく、他人から与えられるものでもない。自ら世界に問いかけ、探究してほしい-そのような考え方が背景にある。
教養科目「芸術へのイマージョン」担当教授の一人、ジョナサン・バーガー教授は「芸術は曖昧さを受け入れ、創造的に考え、問いかけ、挑戦することを教えてくれます。学生にとって、自らの思考の枠を超えるチャレンジでもあります」と語る。
たとえば「厳粛さと軽妙さ」をテーマにした学期は、交響曲、オペラ、バレエ、映画、ポピュラー音楽、マジックなどを通して、芸術家がいかに風刺やパロディを通して社会問題を世に訴えてきたかを読み解いていく。教材としてシェイクスピア『マクベス』、ストラヴィンスキー作曲・ニジンスキー振付『春の祭典』、ショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』、ベンジャミン・ブリテン『戦争レクイエム』、マルセル・デュシャン作『泉』など、芸術ならではの暗喩的な表現法を知る。
演奏家や学者などの外部講師も交え、講義と少人数によるグループ討論が週2回ずつ行われるほか、学外へのスタディツアーも実施している。
カリフォルニア大学バークリー校ではアンサンブル実技の授業が多数開講されており、どの学科生でも受講できる。一例を挙げると、吹奏楽、コーラス、ゴスペル合唱、バロック・アンサンブル、コンテンポラリ即興アンサンブル、ジャワ・ガムラン、アフリカ音楽アンサンブル等である。音楽理論だけでなくパフォーマンスも学ぶ意義とは、その音楽がもつ文化的背景を身体で体験することにある。
東アジア伝統音楽の授業を担当するボニー・ウェイド教授は、「楽器を演奏することによって、音楽が自然に身体に入り込み、それを通じて自分や相手の国を知ることができます。中国・韓国・日本は部分的に歴史を共有しながらも、楽器の発展やヨーロッパ文化の受容に違いがあります。この授業を通して、『母国にこんなに豊かな文化があることを知りました。実際に見てみたい』という移民の学生もいます」と語る。世界の多様性を理解する意味においても、音楽を学ぶことは文化研究と位置づけられている。
ハーバード大学では約3分の2の学部生が楽器を演奏でき、さらに自分がもつ能力や資源を社会に還元していくことも意識されている。冒頭でご紹介したように、地域社会に音楽を届けるボランティア活動も活発である。また音楽を通じて、日本と米国の架け橋となっている日本人もいる。大学3年生の廣津留すみれさん(ヴァイオリン)は毎夏Summer in JAPANというセミナーを大分県で開講し、ハーバード大現役生数名を講師に迎えて、7~18歳の子供たちに英語のスキルやコミュニケーション術などを教えている。
ハーバードで募集をかけると学業・演奏ともにできる人材が自然に集まるそうで、セミナー期間中には国際交流コンサートも開催される。「スポーツや音楽など、自分を表現できる課外活動の魅力も伝えたいと思っています。多才なハーバード生がプロレベルの演奏している姿を見て、『勉強だけでなく、部活や習い事も頑張ろう』『自分も社会のいろいろな人に会って交流してみよう』と思うモチベーションになればと願っています」と語る。廣津留さんの将来の夢は、音楽を通じて社会貢献をすることだそうだ。
このようにアメリカの大学では、人間、歴史、世界を知るツールとして、また自分を表現し、世界と繋がるツールとして、音楽を生かしている。年間1000人以上の学生が音楽を履修し、そこから現代社会に通用する音楽家が育っているだけでなく、他分野の学生も音楽を積極的に学び、マルチな教養を身につけているのである。
今は世界中にいる同志を見つけられる時代。言語であれば論理的な説明や翻訳が必要であっても、音楽であれば一瞬にして通じ合うこともできる。実はグローバル時代にこそ真価を発揮できるコミュニケーションツールなのである! どこまでも広く深い音楽のエッセンスを、ぜひ生かしていきたい。
菅野恵理子(すがの・えりこ)音楽ジャーナリスト
音楽ジャーナリストとして世界を巡り、国際コンクール・音楽祭・海外音楽教育などの取材・調査研究を手がける。『海外の音楽教育ライブリポート』を連載中(ピティナHP)。著書に『ハーバードは「音楽」で人を育てる』(アルテス・パブリッシング)、インタビュー集『生徒を伸ばす! ピアノ教材大研究』(ヤマハミュージックメディア)がある。上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学し、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会勤務を経て独立。ピアノを幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。全日本ピアノ指導者協会研究会員、マレーシア・ショパン協会アソシエイトメンバー。
(2016年1月19日「SYNODOS」より転載)