なぜ大学が経済学を教える事ができていないか

数学の方程式に閉ざされた大学教育

私の授業を受講する学生のほとんどが経済学も受講しており、学生たちのことをいつも羨ましく思っていた。学生時代に経済学を学ぶ機会に恵まれなかった私には経済について発言する資格などはないと思っていたからだ。

ところが、ひょんなことから驚くべき事実を知ることになった。「東アジアの歴史」という講義の授業中に、学生たちに経済学が政治や社会に及ぼす影響等、いくつかの質問を投げかけてみたのだが、大学で何年も経済学を学んでいる学生の大半よりも、文学が専門の私の方が経済学関連の書籍の読書量が圧倒的に多かったのである。

また、経済理論の基礎についても尋ねてみたことがあるのだが、「経済学」を専攻する学生でさえも、トマス・ホッブズ、アダム・スミス、マックス・ヴェーバー等の一昔前の経済学者はもちろんのこと、トマ・ピケティ等の現代の経済評論家の主な著書さえも読んだことがないと言うのである。

とても驚くべきことである。文学部の教授にすぎない私でさえも、経済学者の有名な著書は一部分だけでも読んだことがあるからだ。経済学の教材には経済学の重要な理論が簡単ではあるが記述されていると説明する学生もいたが、大体の経済学の授業では経済学の本質については全く考察せず、高等数学を利用して与えられた問題を解くことだけを授業の目的にしているのである。

また、経済学の教材にも金利や赤字の問題からインフレや価値に至る経済学の問題を、あたかも熱力学第二法則や重力の法則等の自然法則のように論述しているのである。その上、経済学で定義されている人間活動に関しては、そういった過程の妥当性について科学的な調査はもちろんのこと、認識論や形而上学的な考察はされず、単純な計算をすることだけが経済学の真理を追求できる道だと勘違いをしているのが実状なのである。

学生たちのおかげで私はこの問題について考察する機会を得、また私が経済について発言する事に関して自信を取り戻すことになった。実際のところ、数多く存在する思想家の数だけ経済学にはとても制限された意味での「法則」が存在しており、全体的な経済概念は文化的には非常に具体的であり、政治や慣行から影響を受けたことで、 文学や美術史は 経済学に匹敵するほど科学的な領域であるという非常に説得力のある方向で論争が展開されてきた。

しかし、どんな経済学の講義でも最も重要なことは、経済学研究の哲学的、歴史的な観点においての根本的な原則、つまり、人々が歴史的に社会、国家、金銭の商取引をどのように捉えてきたのか、また、そういった要因がどのように相互作用して、一般的に「経済」と言われるものを生産してきたのかについて考察するべきだと私は考えている。

また、その過程においては、「経済」の概念が各々の専門家的、歴史的な時期によって、どのように変化していったのかについての考察が含まれなければならないのである。

そして、経済学という学問では、金融、商業活動の倫理的影響について実質的な考察をすることもとても重要なことなのである。経済学は天文学の研究のように価値中立的な分野ではなく、人間の全ての機能や結果について倫理的な判断を追及する人間的な基業であるという点においては政治ととても類似している領域なのである。

このように経済学の倫理に着目するべきだと主張するのは私だけが持つ観念ではない。西洋のトマス・アクィナスを始めとして東洋の孟子に至るまで、数多くの思想家や学者が長い間、経済や政治の倫理的な要素を必修的なものとして見なしてきた。それにもかかわらず、経済学の研究において道徳や哲学が有意義に考慮されないことが理解できない。

とにかく、現在の日本では非常に深刻な経済的危機に直面しており、こういった危機は数学に焦点を合わせた経済学の授業だけでは解決することはできないのである。現在、提起されていることが経済の発展には必修的なものとして見なされているグローバル貿易システムの崩壊や孤立主義、民主主義の問題、または、貧富格差の加速化問題であっても、今後、次世代では深刻な文化的、政治的な問題に直面することになるであろう。それらが数学の方程式で解決できるという展望は不可能に近いことなのである。

将来、次世代が直面することになる複雑な問題のことを少しでも考えるのであれば、今すぐ大学での経済学の授業のあり方を見直すべきである。経済学を微積分で教えてきたことで、今後、次世代にツケが回ってくるのではないかととても心配である。

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