アメリカのオバマ大統領の感動的な演説は時機にかなったものであり、歓迎できる。アメリカが原爆を広島と長崎に投下した1945年8月の、凄惨で想像を絶する出来事の生き証人である被爆者も、演説を歓迎するだろう。「道徳的な変革なき科学技術の変革は危険だ」とするオバマ氏の見方も正しい。2009年の「プラハ演説」に共鳴して、核なき世界を追求するオバマ氏の訴えは重要だ。戦争への認識を改めるよう訴え、平和的協力による共存を説くことは、人類共通の価値を認識するために、今日の世界において不可欠なことだ。
しかし、そこで語られなかったことも、多くを物語る。原爆は、ただ空から落ちてきたのではなく、アメリカによって民間人の頭上に落とされたということだ。そして真実は、一般的に知られていることとは異なり、原爆は戦争終結に不可欠ではなかった。これが最も本質的な事実認識だ。謝罪の是非を超えた本質的な事実だが、それゆえに謝罪は必要なのだ。「戦争を終わらせるために必要だった」というのは核の時代の根本的な欺瞞であり、最終的に葬り去る必要がある。
原爆が使われようとしているとき、日本は降伏しようとしていた。連合国軍の最高司令官として1944年6月のノルマンディー上陸作戦を指揮し、のちにアメリカの大統領を務めたドワイト・D・アイゼンハワー将軍によれば、日本はこれ以上の損失を最小限に回避するための重大な局面を迎えており、「あのような恐ろしいもので攻撃する必要はなかった」のだ。
イギリスのチャーチル首相自身が語っている。「日本の原爆投下は運命づけられていたと考えるのは誤りであろう。広島の原爆投下以前に、日本の敗北は明らかであり、それは圧倒的な海軍力によるものだった」
では、もし日本が降伏の準備をしていたのなら、なぜ原爆は広島と長崎に落とされたのだろうか?
原爆投下を決めた重要な要素の一つは、第2次世界大戦の終戦後に、この地域で支配的な力を確立したいアメリカの野望だった。これら戦後計画では、日本に恒久的な軍事力と、新たな政治・経済体制を確立し、日本の軍事的復活を許すことなく太平洋地域を支配するために、アメリカの日本占領が必要とされていた。しかし日本の復活は、やがてアメリカの戦略上の主要な懸念ではなくなった。戦後のアジア・ヨーロッパともに、主要な懸念は、何よりもソビエト連邦だった。
当時のアメリカ大統領の側近グループだった主要な政治家や、外交、軍事分野の重要人物の多くが、日本への原爆投下は必要ないと考えていたが、ハリー・トルーマン大統領は原爆投下を強く主張した。たとえば、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、原爆を対ソ外交の「切り札」と表現している。
日本への原爆投下は戦争終結に不可欠ではなく、アメリカは日本を舞台に、原爆で地政学上の駆け引きを演じた。この真実こそが、アメリカが謝罪しなければならない理由だ。何にもまして、今こそ、歴史を正しく記録する時なのだ。
この記事はハフポストUK版に掲載されたものを翻訳しました。