シドニーから3大会連続で五輪に出場した元陸上選手と、一緒に考え、議論を深めます。議論は週刊誌AERAの連載で紹介します。いただいたコメントを抜粋・要約することもありますがご了承ください。
世の中を見ていると、自分の私生活は我慢して、仕事を優先するべきだという考えの人が一定数います。それは個々人の価値観なのでもちろん自由ですが、その中には他人にもその価値観を強要する人がいます。一体当事者でもないのにそういう人はなぜ他人の行動に干渉するのでしょうか。
我慢には自分の意思で行う能動的な我慢と、ただそれに耐えるという受動的な我慢があります。自分の意思で我慢する時は、自分で納得して、我慢した結果どんなものが得られるかを想像して、耐えます。将来司法試験に受かるために勉強する。そのために行きたいけれど友達のバーベキューの誘いを断る。この場合自分の意思で理由もわかって我慢していますから、自己完結的です。
受動的な我慢は自分で納得したわけではないけれど、我慢せざるを得なかった、もしくはそう自分が思い込んでいるものです。そういう我慢は押し付けられているものですから、なんでこんな目に合わなきゃいけないんだという恨みが溜まっていきます。厄介なのは自分では我慢しているつもりがなくて、自分はただそうすべきだからしているという常識の形を取っている場合もあるということです。でも仮にそういう常識の形を取っていても、何となく世の中を見ているといらいらする。幸せそうな人や自由に生きている人が気に食わない人は、内側に我慢せざるを得なかった恨みが溜まっている事もよくあります。
例えば本当は自分の仕事が終わって帰りたいのだけれど、みんながまだ作業しているから遅くまで会社に残った経験が多い人がいます。そうして何年かした後に新入社員が入ってきて、定時で仕事が終わったらさっさと帰宅していました。自分は別に強要された訳ではないのですが何となく空気を読んで居残っていたのにそうしない若者を見た時に、何か腹立たしさを覚えます。自分はこんなに仕事のために我慢を強いられてきたのに、どうしてあの人は我慢しないんだという不公平感を感じるわけです。ところが我慢をしなければならないという明文化されたルールがあったわけではありませんから、面と向かって相手にもルール違反だとは言えません。そこで出てくるのが正義や親切になります。そんなことはしてはならない、そういうことをするとみんなに迷惑がかかる、と正義やモラルに形を変えます。僕は我慢したのにどうして君は我慢しないんだ、という不公平感からくる正義は思いのほか多いように思います。
もちろん社会で共有すべき正義もあるでしょうし、我慢すべきところもあると思います。でも、ただ自分が我慢せざるを得なかったから君もすべきだというのは生産的ではないように思います。私たちは、相手に正義やモラルを要求するとき、本当はその感情はどこから来ているのか、もう少し内省する必要があるのではないでしょうか?
賛成や反論等、是非皆さんのご意見お待ちしています。