シドニーから3大会連続で五輪に出場した元陸上選手と、一緒に考え、議論を深めます。議論は4月28日発売の週刊誌AERAで始まる連載で紹介します。いただいたコメントを抜粋・要約することもありますがご了承ください。
ソチ五輪での浅田選手の演技に感動された人も多いのではないでしょうか? もう少し彼女の演技が見たい、どうか現役を続けてほしいと思う方は多いと思いますが、今は引退なのか、現役続行なのかは誰にもわからない状態です。
さてここで一つ質問をしてみたいと思います。浅田選手の人生は一体誰のものでしょうか。そんなの浅田選手のものに決まっている、と言われる人はおそらく多いでしょう。
有名なアスリートの人生は多くの人に注目されます。たくさんの期待を背負って生きているアスリートは、人々を熱狂させる事もありますし、がっかりさせる事もあります。スポーツ界の最も切ない例としては、重圧により自ら死を選んだ円谷幸吉選手が思い出されます。期待に応えられず申し訳ないと懺悔する円谷選手の遺書には、自分の人生が自分のものだけではなくなっていることが読み取れます。
例えばもし浅田選手が政治家になるという選択をしたとしたら、多くの人の反応はどうなるでしょうか。応援する人もいるかもしれませんが、そんなの浅田選手らしくないという人もいるでしょう。がっかりしたという人や裏切られたという人もいるかもしれません。実際に引退後、政治の世界に進みそう批判された選手もいました。"期待してたのに、がっかりしたよ"と。
さて、その場合気になることがあります。スポーツ選手らしさとはいったい何なのでしょうか。そして世間が言う"スポーツ選手らしく"選手は仮に引退した後も生きていく必要があるのでしょうか。
ただの思考実験に過ぎませんが、彼女の人生が彼女のものであるならば、彼女の選択に他人がとやかく言う権利はありません。あるとすれば多少なりとも彼女の人生は他者のものであるとも言えます。
時々、親には一見溺愛しているように見えて、その実は子供を支配したがるという心理があります。
"愛しているわよ、あなたが想い通りでいてくれる間は"
依存を愛と呼び、支配を応援と呼ぶこともあります。愛してあげたんだから、思い通りになりなさい。愛の中に、そういう取引が成立していることもよくあります。
有名なアスリートの人生は、一体誰のものでしょうか。みなさんのお考えをお聞かせください。