欧州を揺るがす難民問題。ドイツ中部の小さな町で、20年以上にわたり難民支援を続ける女性がいる。旧東独出身の彼女も、かつて愛のために国を捨てた「難民」だった。(取材・文=GLOBE編集部・杉崎慎弥)
〈かつて自宅に受け入れたエリトリア、ソマリア、エチオピアからの難民と旧東独出身のウータさん〉
難民に自宅の空き部屋を提供する
ドイツ中部のゴスラーで難民支援団体「外国暮らし」代表のウータ・リーバウさん(61)に会った。もう20年以上も難民の生活支援を続けている。ウータさんが難民支援に携わるようになったのは、1992年にボスニア難民を自宅で受け入れたことがきっかけだった。「キリスト教の精神では、困った人は助けないといけない。だから、受け入れたの」と話す。
〈当時の思い出を語るウータ・リーバウさん〉
初めての受け入れは、ボスニアとクロアチア国境に近い街から逃げてきた7人家族だった。夫のティルさん(64)によれば、「その家族の長男がイスラム教徒で、その妻がキリスト教徒だった。そんな夫婦がいると、宗教的な対立が始まったボスニアでは、子どもが幼稚園に行けないなどの迫害を受けてしまい、居場所がなくなってしまったんだ」という。
リーバウ家では、空きスペースになっていた自宅の地下のキッチンやバスルームなどを、難民の家族に提供した。ただ、当初は違う文化の人を受け入れることに不安があったという。「言葉での意思疎通ができないから、身ぶり手ぶりでなんとか会話していた」とウータさんは苦笑する。
〈難民たちを住まわせていた自宅地下の部屋で〉
お互いに理解しあえるようになったのは、ある日の夕食だった。「ごく簡単なことだった。それぞれが、食事の前に信じる神に祈り、感謝する。その姿を見て、『ああ、同じなんだ』と感じたの。違う宗教でも共存できるなら、困っている人をもっと助けたいと思った」。ウータさんは、そう振り返る。
その後、アルメニアやアゼルバイジャン、エリトリアなどからも難民を自宅に受け入れ、近隣住民と一緒に難民支援団体を立ち上げた。地元郡政府へ難民の待遇改善を要望したり、難民の住居提供や職のあっせんなどといった支援を続けたりしている。
過去の「難民」経験も原動力に
だが、ウータさんを突き動かすのは、キリスト教の教えだけではなかった。
「私も『難民』だった。冷戦時代、鉄のカーテンを越えて来たのよ」
〈1989年11月11日。東独政府は新たに西ベルリンへの通過地点を増やすと発表。「ベルリンの壁」の一部を取り壊し始めた photo: 朝日新聞社〉
ティルさんと結婚するために、旧東独から亡命同然に旧西独に渡って苦労した自分の姿が、今の難民たちの姿と重なるのだという。
2人の出会いは1978年5月。旧東独のザクセン州ハレにあるハレ大学で、当時24歳だったウータさんの隣に座っていたのがティルさんだった。「古代ギリシャ語の講義がつまらなくて。隣にいたティルに『アイスクリーム食べに行かない?』って誘ったのよ」。
お互い、ほぼ一目ぼれで恋に落ちたという2人。つきあい始めてまもなく、結婚を考え始めた。だが、ティルさんは、旧西独地域から、司祭になる研修を受けるために一時的にハレに来ていただけだった。当時の東独は、秘密警察「シュタージ」を始めとする治安機関が社会の中に監視の網を張り巡らせており、国外旅行や移住の自由もなく、結婚は不可能だとみられていた。
〈夫ティルさん。ドイツ・ゴスラーの自宅キッチンで〉
ウータさんは、「周りから『夢を見てるんじゃない』と諭された。でも、あきらめきれなかった」という。懸命に結婚への道を探す2人。「ティルが何度もボン政府に掛け合ってくれて、『家族の統合』という制度を使えば、東独から呼び寄せる形で結婚ができるというのを見つけてくれたのよ」
この制度を申請し、79年にウータさんが単身で西に入り、2人は結婚した。ウータさんは東独の国籍を捨てた。それでも、東独のスパイではないかどうかの面接を受けたり、収容施設のような場所に住まされたりと、当初は今の難民たちと同じような境遇に置かれたという。ウータさんは、東西の壁がなくなるまで、東独には戻れなかった。両親と会うにも、第三国のチェコスロバキア(当時)まで行かなければならなかった。
「君は国と家族を捨ててきたんだ。でも、名字だけは捨ててはいけない」というティルさんの配慮もあり、結婚後も2人はリーバウ姓を名乗ることに決めたという。
ウータさんは、「私がつらい思いをしてでも西独に入ろうしたように、シリアや中東からの難民も、なんとか生きる道を探そうとしている普通の人たちです。高いモチベーションがあるし、負担や不安材料ではなく、ドイツに貢献する人材になれるはず」と話す。
移民を受け入れ成長してきたドイツ
ドイツは外国からの人材を移民・難民として受け入れ、経済の力としてきた経験がある。ドイツの主要経済団体の一つ「ドイツ手工業協会」のホルガー・シュヴァネッケ事務総長(54)は、「ドイツは過去、トルコや東欧からの移民とともに経済を発展させてきた。彼らを社会統合できれば、ドイツの利益になることがわかっているのだ」と話す。
1950年代から70年代前半にかけて、労働力不足を補う目的で、トルコや旧ユーゴスラビアから100万人以上の労働者を受け入れた。「出稼ぎ」という位置づけで、全員が出身国に帰るはずだったが、そのまま定住した人も多い。しかし、ドイツ語教育などが十分でなく、子や孫の代になってもドイツ人との格差が残ってしまった。失業率はドイツ人の倍以上とのデータもある。ドイツ政府はこうした過去の教訓をふまえ、移民や難民がドイツ社会の一員になるのに必要な語学習得などの仕組みづくりを進めてきた。
難民・移民を国の力とするために
2005年には「新移民法」が施行され、600時間のドイツ語学習と法律や文化を学ぶオリエンテーションを含む「統合コース」への参加を、ドイツ語能力が不十分な移民や難民に義務づけた。ドイツの移民政策に詳しい久保山亮・専修大学講師は、「ドイツへの移民の7割はEU域内からだが、頭打ちになることが予測されている。移民を持続的に確保して、労働力としていくのはドイツにとって切実な課題だ」と話す。
〈ドイツに移民背景を持つ人たちが増えていることを、新聞記事を見せながら説明してくれた〉
自他共に認める「移民国」となったドイツ。ドイツ統計局によると、ドイツの人口の5人に1人が、外国人やその子どもらといった移民の背景を持つという。
ウータさんが自宅のキッチンで、ある写真を見せてくれた。移民の背景を持つ子どもたちが笑顔でほほ笑む写真の新聞記事だった。
「この子の祖母はウクライナ出身。他の子たちも先祖は移民として、スウェーデン、チェチェン、ポーランド、ロシア、トルコなどの国から来て、様々な国を背景に持っている。でも、みんなドイツに溶け込んでいて、誰もが彼らをドイツ人と見なして疑わない」と指を指しながら説明した。
数年前に自宅で受け入れたエリトリアからの難民の男性も、今では職を得て教会で働いている。そして、最初に受け入れたボスニア難民の女性が、フランスの物流会社で活躍しているとの便りに、ウータさんは目を細める。「難民は負担で問題だなんて書いてある教科書があったら、書き直さないといけないわね」
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GLOBEの特集「難民6000万人時代」では、第2次大戦後、最多となった難民を、世界はどう受けいれているかを探っています。どうぞお読み下さい。
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