タイトルに書いた内容は私にとっては当たり前のことなのですが、そうではなくて両者が結びついている人がたくさんいるらしいので、物事を明確にするために、今年のうちに小文を一つまとめておきたいと考えました。
人が「知る」ということには、いくつか異なった水準があります。アリストテレスは、学問を「論理学」「自然学」「形而上学」「政治学・倫理学」などに分類しました。この中で、自然学は現在の(自然)科学に相当すると見なしてよいでしょう。そしてアリストテレスの『ニコマコス倫理学』の第5巻では、「思考の徳」が論じられました(第2〜4巻で論じられたのが「性格の徳」です)。
思考の徳はそれぞれ「魂の状態」にかかわるとされるのですが、今回は特にエピステーメー(学問的知識)とフロネーシス(思慮)について取り上げたいと思います。エピステーメーは確固とした間違いのない、必然的で「他の仕方では決してありえない」知識のことです。
例えば、「1日は365日である」とか、「心臓は血液を送り出すポンプの働きをしている」などです(なお、現代科学の進展にともなって確固としていると考えられていた自然科学の常識が、新たに解釈され直す思想的な事態も生じましたが、今回はそれ以前の素朴な段階の自然科学を対象とします。また、後に哲学者のフーコーは「エピステーメー」を他の意味を内包する概念として用いましたが、アリストテレスにおける「エピステーメー」の意味は、それとは異なっています)。
エピステーメーのこと
厳密な知識を得るためには、対象を限定させる必要があります。ですから、科学的な研究が行われる場合には、その研究の対象と、対象にアプローチする方法が明確で一貫していなければなりません。もしその研究を実施する段階で、異種の対象が混ざってしまう方法でその研究が実施されたことが明らかになれば、その研究は信用するに値しない、とみなされます。
例えば、私たちが「平成23年の福島県の原子力発電所事故によって生じた放射線被ばくによる直接的な健康被害は軽微なものだろう」と考える根拠となっているのが、放射性物質を含む食品を摂取したことによる内部被ばくを検査する、ホールボディーカウンター(WBC)という機械を用いた検査です。
福島県内で大規模な検査が複数行われ、震災後1年ほどの期間にはときどき放射性セシウムが検出されたものの、その後には調査を受けた人のほとんどが非検出という結果が得られています。ここから、今回の福島の事故後には食品流通の段階で十分な管理が行われ、内部被ばくが相当に防がれていることが分かりました。どきどき、WBCを用いた検査で内部被ばくが生じている人が見つかりますが、その場合には対象となった方の独自の判断で、地元の未検査のキノコや獣肉などを習慣的に多量に摂取していたことが判明することが多いようです。
この検査を実施している研究者たちの話を聞くと、測定時に自然界に存在する自然放射線等の影響をいかに適切に遮蔽するのかということが、初期における大きな技術的な課題だったようです。この調査の目的は、「原発事故によっておこる内部被曝の実態を調査する」ということでした。ですから、そこに自然放射線の影響が混ざってしまう調査を行えば、その調査結果は全く信用ができないものとなります。まして、ほとんどの人が「非検出」となるような調査です。自然放射線の影響を遮蔽によって取り除くことが、意味のある調査を行うためには重要であったことは、当然だったのです。
対象選択の偏りという問題もあります。調査の質を評価するために、どんな人々が対象になったかを確認するのですが、検査を受けたのが希望者のみの場合には、「検査を受けに来るような意識の高い人だからほとんど非検出であったので、一般の住民ではもっと内部被ばくが生じているのではないだろうか」という疑問が提出され、それは正当な疑義とみなされます。それと比べると、何らかの手段で一つの地域における住民全体を対象として調査が実施できれば、対象選択の偏りを相当に取り除くことができたと見なされます。
このような調査によってえられた結果をエビデンスと呼びますが(エピステーメーの成果です)、希望者のみに行った調査から得られた結果よりも、地域住民全体を対象にした調査から得られた結果の方が、強いエビデンスであるとみなされるのです(この他にも、対照群をいかに設定するかという問題があります)。
WBCを用いた内部被ばくの検査は、半減期が30年ほどの放射性セシウムを主な対象として行われていますが、他の核種についての調査が行われていないという批判がなされています。その中で、例えばストロンチウムは蓄積されるのが主に骨であるような事情から、調査の実施はセシウムよりも困難なのです。
そこで、一つの類推が行われます。今までの知見から、原発事故等が起きた時に発生する放射性セシウムとストロンチウムの比率は一定であると考えられています。そして現在、測定される放射性セシウムの量は少ない、したがって放射性ストロンチウムによって引き起こされる健康被害も少ないだろうという推論です。これは、一定の信頼をよせてもよい考え方ですが、WBCによる検査を多数の住民に直接実施することで得られたセシウムについての結果と比較すると、エビデンスが弱くなっています。
チェルノブイリ事故後にもさまざまな調査が行われましたが、現在の基準で確実なエビデンスと認められている直接的な健康被害は、小児の甲状腺がんが増加したことだけです。したがって当然、福島の事故の後にもこの問題が注目されました。そして実際に、広範囲に甲状腺についての超音波検査が行われ、濾胞や結節、そして甲状腺がんが見つかっています。
それでは、避難区域を拡大するなどの措置を早急に行うべきなのでしょうか。しかし、政府や研究者のこの問題への対応は鈍くなっています。これには2つの理由があります。一つは、原発事故による甲状腺がんの増加を調査する方法として、甲状腺への超音波検査が本当に妥当なのかが疑問視されていること、もう一つは、甲状腺がんを引き起こすと考えられている放射性ヨウ素の半減期が約8日と短く、平成23年の事故で発生したものはほとんど消失したと考えられることです。
前者の、甲状腺超音波検査への疑義が説明される時によく引用されるのは、原発事故とは無関係に行われた韓国での甲状腺超音波検査の結果です。安価に検査を受けられるようになった結果、治療の必要のない甲状腺の病気をたくさん見つけてしまい、無駄な手術などが増えてしまったと考えられています。癌の中にも、いくつか種類があり、ある種の甲状腺がんについては予後が良好で放置することのリスクが看過できるとされています。
つまり、この検査で見つかった癌の中には、平成23年に起きた原発事故による被ばくの影響によるものだけではなく、原発事故がなくとも発生して見つからないままであったような癌も、混ぜて含まれている可能性が高いのです。ここには、適切な対照群が設定されていないという問題も存在しています。
もう一つは、放射性ヨウ素の半減期が短いために、すでに起きてしまった初期被ばくについては今から施せる手段がない代わりに、現時点での追加の被ばくは起きていないと考えられることです。そのため、今までのように、初期被ばくを受けてしまったと考えられる子どもたちへの観察を継続するということが、妥当な対応と考えられます。
エピステーメーとフロネーシス
今まで述べてきたように、正当なエピステーメーとみなされるのは、適切に限定された対象について、妥当な方法論を一貫して厳密に適用して行われた調査の結果のみです。逆にいうならば、エピステーメーは限定された対象のみに適応する知識ですから、その対象を広げたり変えたりする場合には、(参考にはなりますが)エピステーメー本来の厳密な正しさは持ち得ないものとなります。
つまり、エピステーメーは全体的な状況にかかわる判断を直接導くことはできません。複数の異なった文脈から得られたエピステーメーを参考に、全体的な状況についての適切な判断を行うための思考の徳を、アリストテレスはフロネーシス(思慮)と呼びました。
エピステーメーは主に自然学に、フロネーシスは主に政治学・倫理学にかかわります。そして、フロネーシスがどのようなものか、アリストテレスは明確な定義を与えません。フロネーシスは、普遍と個別の両方を踏まえた上での全体的・統合的な判断であり、人生経験や人格的な要素を含んだもので、若者には難しいとされています。概念に説明を与えるというよりも、立派な人が示すのがフロネーシスだとして、歴史上の有名な政治家の実例を挙げるような説明を行っています。逆に言うと、フロネーシスの水準における判断について、エピステーメーのような厳密さを要求することは適切ではなく、ある程度ざっくりとしたものとなります。
福島の原発事故の問題に話を戻すと、例えばWBCの検査の結果でほとんど不検出だったということから、放射性セシウムによる内部被ばくはほぼ制御されているというエピステーメーが得られますが、それからすぐに全体的な判断が導かれる訳ではないのです。エピステーメーの水準で重要なのは、研究者が客観性や中立性を保っていることであり、それこそ政治的・倫理的な判断に影響されないことです。それと比べて、政治や倫理の次元の決断は決して外部的ではありえず、状況の内部に生きる人間の身体性が濃厚にかかわる、具体的な責任が生じる領域なのです。政治や倫理の場面で「中立性」を主張することは、それ自身がきわめて特殊な選択を行っている自覚が必要です。
私個人の判断としては、今回の原発事故による直接的な健康被害は軽微なものであると考えられるものの、避難生活や地域コミュニティの破壊などによって生じた損失および間接的な地域住民の健康への甚大な影響、日本という国家全体の信用の低下や賠償などによって生じた国家財政への負担の増加などの問題はきわめて大きく、直接的な放射線による健康被害がもっとも楽観的な予測と一致したとしても、政治的・倫理的な水準における責任を明確にしないで先に進むことはあり得ない事件であると考えています。
外部被ばくのこと
福島で起きた原発事故と関連して、外部被ばくへの対応はいかがだったでしょうか。年間に受ける外部被ばくの積算線量がどこまで許容されるべきか、まったく許容できない、1mSv,少し1mSvを超えてもよい、5mSv、20mSv、100mSvなど、さまざまな意見があります。この判断をどのように行うのかは、そのまま、どの地域に人が生活することが許容されるのかという判断に直結するために、一つの学問領域からえられるエピステーメーのみでは結論を下すことができず、全体への配慮を踏まえたフロネーシスの水準での判断が求められます。
まず、今までの避難指示の運用がどのようになされたのかを、簡単に振り返っておきたいと思います。事故後に、福島第一原子力発電所から20km圏内が警戒区域(住民には避難が指示されました)、20〜30km圏が緊急時避難準備区域(緊急時に自力で避難できないような老人・病人・子どもなどは暮らしてはならないとされました)に指定されました。当初30km圏外には、このような区域は指定されませんでした。少し遅れて、事故当時の風向きの関係で強い汚染が生じてしまった飯舘村などが、20km圏外であっても計画的避難区域に指定され、他にもいわゆるホットスポットに当たる地域が特定避難勧奨地点に指定されました。
これらを指定する目安として用いられたのが、予測される年間の外部被ばくの積算線量についての20mSvという基準でした。その後に、警戒区域と計画的避難区域は、年間の線量が20mSv以下の避難指示解除準備区域、20〜50mSvの居住制限区域、50mSv以上の帰還困難区域となっています。居住制限区域と避難指示解除準備区域については、出来るだけ早い帰還を目指す方針が政府によって宣言されています。
ちなみに、チェルノブイリの事故後の1年間は、年間100mSvの被ばくも許容されるような運用がなされたようです。このように事故などの緊急時には、この基準は緩和して適用されます。そして、現在の福島県内で本当に年間20mSvの被ばくが生じる地点で人が暮らしているのではなく、1mSv程度を目標に除染等が行われ、多くの場所でそれが達成されています。高めであっても1~2mSvの範囲におさまっている場所が多いのです。
その一方で、外部線量は各個人の行動様式に大きく影響されるので、正確な計測が困難な面があります(たとえば、線量の高いホットスポットなどがあっても、その前を短時間通り過ぎるだけならば影響は少ないようです。その代わりに、長時間を過ごす寝室の線量などには、より大きな配慮が求められます。当然ですが、一人の人間が生活の中で被ばくする全体の量が問題となるのです)。
さらにここで問題が生じているのは、平常時に業務で放射性物質を取り扱う施設などで設定されている放射線管理区域における基準との、整合性の問題です。放射線管理区域では、3ヶ月で1.3mSvなどの基準が用いられているのですが、そうすると、特殊な労働条件で十分に管理されるべき状況よりも緩い基準(1年で20mSv)が、一般住民に対して長期間福島で許容されることとなり、そのことの倫理的な是非が問われる事態となっています。
この段落に記すのは、私の憶測です。一連の経過を考えると、福島市や郡山市を避難の対象としないで済ませたいという政治的な判断が働いていたのだと思います。私が現在居住する南相馬市は、物理的な距離は福島第一原子力発電所から近いのですが、海沿いの地域などは線量が低いのです。そのため、風向きの影響で放射性物質が流れた福島県中通りの福島市や郡山市の方に、南相馬市の海沿いの地域よりも線量が高い地域が存在します。そのために、予想される被ばく線量と避難指示のあり方との関連についての、政府からの説明に大きな混乱が生じました。
しかし結果的には、福島市や郡山市を避難指示の対象としなかった判断は正しかったと思います。南相馬市などでは、事故後に出された避難指示等によって、強引に病院や施設から移動した高齢者などの死亡率が高まってしまったことが、その後の調査で判明しました。もしそのような避難による被害が、中通りの大都市を含む地域でより大規模に発生し、現在のJR常磐線の一部が復旧していない状況に準じて東北新幹線等が利用できないようになっていたならば、日本社会が受けた損害は今よりもはるかに甚大だったでしょう。しかしその一方で、福島県の中通り地方などで外部被ばくを強いられた人の損害は、賠償なども行われずに放置されるという社会的な問題が残ることになりました。
ある南相馬市の住民から、「医学系の研究者は安全を強調し、物理系の研究者は危険性を指摘することが多い」という意見を聞いたことがあります。確かに、後者の立場の方々は、放射線管理区域との比較で、住民に十分な注意を促されている場合が多いように思います。
私は前者の立場ですが、放射線の直接的な健康影響について比較的に安全と考える根拠は2点あります。一つは、一般に平常時における「管理基準」というものが十分に余裕をもって設定されていて、それを超えたからといって「ただちに影響が出るものではない」(悪名高い表現ですが)からです。もう一つは、健康に与える他に存在するリスクとの比較の問題です。癌にしても、他の疾患にしても、長年にわたる複数の要因の影響が合計した結果として発生すると考えられます。医療者はどうしても医療被ばくなどの問題と接する機会が多いので、それや自然放射線との比較で、現在の福島県内での外部被ばくの水準については、やはり「ただちに重篤な健康被害が起きるとは考えられない」と思ってしまうのです。もちろん、「比較的安全」と言うものの、絶対に安全という保証はできません。
過度に危険性を煽るような傾向には、私は抗議いたします。その一方で、「安全」を強調することにも社会的な問題があることも承知しています。つまり、原発事故までは緊張感を持って尊重していた放射線管理の基準をこのようにないがしろにすることは、危険性をはらむ放射性物質に私たちが取り組む姿勢に、永続的なモラルハザードを与えてしまう可能性があります。また、事故の結果として、本来は受ける必要のなかった被ばくを押し付けられ、そのことによる自分や家族に健康への影響が出ることへの不安を抱かざるを得なくなり、一部の人々から偏見の眼差しを向けられるようになった人々に対しての、社会的・倫理的な問題や責任についても議論がなされるべきでしょう。
このような事態は地域住民をおそろしいジレンマの中に置きます。先に、内部被ばくが抑えられていることに言及しましたが、この点がチェルノブイリと福島の大きな違いです。ソ連末期の社会に比べて、現在の日本の方がはるかに厳密な食品の汚染への管理を達成したのです。これは主に、現地にいる福島県の人々の努力によるものです。大震災に被災した直後という状況下で、食品の汚染を防ぐという大事業を成し遂げたのです。日本では、流通される食品に適応される放射性物質についての基準は、諸外国と比較して厳しい部類に入ります(居住地の空間線量の基準が曖昧なのとは対照的です)。
しかし、その結果はどうでしょう。現地の人にとっては、自分たちの努力が利用されて、自分たちの心の中にある放射性物質への恐怖が軽んじられて否定される社会的な状況が生じています。直接的な健康被害を否定することは、現地の住民がかかえる恐怖や葛藤の一部を否定していると理解されるおそれがあります。したがって、福島県が行っている県民健康管理調査や、ガラスバッジ等を用いて自治体が行う外部被ばくの調査などに協力したくないと考える住民も多数存在しています。
その反対に、自分たちが暮らす生活環境を危険だと考え続けることも、別の意味での大きな心理的負担となります。おそらく、私のように割り切って考える人間は少数派です。多くの住民は、普段はこのような葛藤に蓋をして考えないようにして生活をしているものと予想されます。自分たちの日常生活そのものが、このような学問的・政治的・倫理的議論の対象となっている事態に、巻き込まれているのです。
旧警戒区域等への帰還の問題と除染について
原発事故被災地の住民が抱えざるを得ない不安には、さまざまなものがありますが、最近は「先が見えない」不安を耳にする機会が増えたように思います。それにはさまざまな意味がありますが、現在の南相馬市で話題になるのは、来年春に目指されている南相馬市小高区(原発から20km圏内)への帰還と、除染等の作業員の問題です。
避難区域への帰還については、すでに平成27年9月に楢葉町への帰還がはじまったのですが、戻っているのは全人口の約5%で、60歳以上が全帰還者の約7割を占めているそうです。南相馬市の小高区でも、来春には帰還が始まる予定ですが、除染などの準備の遅れが指摘されています。例えば、ある山間部の男性高齢者は、南相馬市で行われた住民説明会の席上で行政の担当者達を前に、このように語りました。
「自分の部落では、帰還しようとする世帯は自分だけである。自分も若くはないので、自分の土地だけの草刈りだけでも手一杯である。ところで、震災前までは、道路の草刈りはそれぞれ隣接する土地の持ち主が行っていたが、今回は戻るのが自分だけなので、それが期待できない。そうすると道路が使えないことになる。ところで、草刈りをするだけでも線量は下がるのだから、除染という名目で草刈りをしてもらえないだろうか」と問いかけたのです。会場からは拍手があったものの、国・県・市の担当者からの返答はありませんでした。
旧警戒区域の除染は環境省が担当していますが、水源地の除染についてはこれを南相馬市に担当するように働きかけているようです。南相馬市は、技術的な難しさ等からこれを環境省に担当して欲しい意向を示していましたが、この交渉は難しそうな印象でした。
現在の理解では、水源の底の方に放射性物質が貯まっていたとしても、それが底に沈殿している限りにおいてはそこから流れる水の放射性物質の汚染は健康に影響を与えるものではないと判断されています。それでは、大雨が降ったときなどに水源地が撹拌されるような状況では、汚染された水が流れるのではないでしょうか。その説明会では、水の出口においてリアルタイムで線量を計測してその水を流れないようにせき止める運用をする説明がなされました。しかしこの場合に、台風のような状況で貯水量が増えた時にそれを放出できないのだとしたら、水害対策として問題が生じるおそれがでてきます。
もちろん、帰還したい人々の意向を尊重するのは大事なのですが、環境省のホームページにあるように、年間積算線量が20mSv以下の避難指示解除準備区域、20〜50mSvの居住制限区域のすべての場所について、「帰宅を希望される方全員が1日も早くご帰宅できるよう、除染を進めていきます」という目標設定は、妥当なのでしょうか。「どの地域にまで、帰還して町を再建するための努力を行わねばならないのか」という不満を、現地で帰還を目指している人が簡単に口にすることはないでしょう。しかし、この点があいまいなことも、「先が見えない」不安に結びついています。
もちろん、現状復帰ができれば、それに勝ることはありません。しかし、技術的・経済的な理由から、除染等を完遂して復旧ができない地域が存在することを認めることも、事故後5年近くが経つ状況では、必要なことと思われます。「過失を認めない」「起きた損失を過小評価したい」という政治的意図、ひょっとしたら意図とも言えないような曖昧な願望が、この当たりの政策運営に現れているように思います。「原発事故による直接的な健康被害は軽微である」というエピステーメーが、このような政治的意図に利用されないような配慮も必要となるでしょう。
現状についての総合的な配慮を欠いた、建前としての不可能に近い理想的な目標設定と、現実のはざまで苦労をするのは、現地の人々です。故郷の再興に尽力しようとする人々に、大き過ぎる負担がかかる状況が継続しています。
その一方で、平成25年末に行われた環境省の試算では、除染にかかわる費用として2.5兆円が試算されています。そして、人間が生活できるようになるためには、除染さえ済んでいれば良いというものではありません。私の専門とする医療や福祉の分野については、小高区に隣接する原町区や鹿島区でもマンパワーの不足が続いています。そこからさらに、小高区を含んだ広域の診療圏をカバーするとなると、負担増による職員の疲弊などが危惧される状況となります。
率直な印象として、除染に投じられている費用に比べて、看護師・介護士・保育士などの対人サービスの人件費に当てられている予算が少ないのです。また、「こころのケア」の重要性が叫ばれる一方で、訪問等を行っている職員を継続して確保するための予算は、不十分な状況です。
南相馬市の人口は、震災前に7万強だったのが、震災後にはだいたい5万人くらいに減りました。若い世代で移住を決断した人も多く、地域の高齢化が一気に進みました。そのような地域に、この1・2年で一説には7千人とも言われている除染等の作業員が暮らすようになりましたが、長期的に生活することを考えていない人口の増加によって、治安が悪化するのではないかという住民の不安が高まったことは否めません。また、作業員の中には、一般的な健康状態が十分に管理されていない人々がいることも指摘され、糖尿病や高血圧などの現疾患を放置した上で突然の病気の発生・受診というケースも多く、ただでさえ脆弱になっていた地域の医療機関に負担を与えています。
モラルハザードについて
平成27年12月の段階で、震災前に福島県に居住していた人で避難生活を継続しているのが57000人以上、震災関連死は1800人を超えたとされています。このような甚大な影響が生じた事故について、たとえ放射線による直接的な健康影響が少なかったとしても、その責任が問われなければならないのは当然のことと思います。しかし、事故を起こした事業者についても、監督官庁についても、担当者のなかに刑事罰を問われる人物は一人として出ていません。
原発事故後に行われた国会による「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」の報告書では、事故の原因と考えられている津波対策の必要性が事故の数年前から指摘されていたのにもかかわらず、そのことが無視され続けた状況があったことを明らかにしました。ここには、監督官庁と事業者との間での不適切なズルズルベッタリの関係性が成立していたのです。
原発事故についての真剣な反省を行うのならば、このような不適切な関係が再現しないための工夫こそがなされるべきです。たとえば、事業者と監督官庁との独立性が担保され、強制力を持つ第3者機関によるチェックが可能になるための工夫がなされるべきです。
しかし、原発事故後に起きた出来事はそれとは逆の出来事でした。私はそのことについて、別の機会に「コロナイゼーションの進展」として理解できると論じたことがあります(コロナイゼーションの進展としての東京電力福島第一原子力発電所事故対応)。コロナイゼーションとは、簡単に言えば社会・経済的な優位を背景に、劣位にある人を、社会的・経済的に、さらにそれを超えて心理的にも支配し、その支配を理想化・美化することによって自動運動のように維持し拡大する傾向です。
平成23年の原発事故は、その直接の被害に加えて、それに対する適切な対応が行われなかったことによって、「重大な事故を起こしても、ある種の社会的な立場があればその責任を問われずに名誉も財産も保護される」「不条理な人災に巻き込まれても、ある種の社会的な立場をもたない場合に正当な保護が与えられない」という傾向を強化してしまいました。
現在でも、廃炉や除染などの放射線被ばくのリスクがある事業には多くの予算が計上されている一方で、直接的な作業は十分な保護や管理が与えられないままに、現地の被災者を含む社会的に立場な弱い人々に押し付けられ、その報酬が不透明な形で中間で搾取されることが許容されています。震災による被害を受けた上で、このような状況に巻き込まれた場合に、現地の人々が意欲を維持することは容易ではないでしょう。一方では、多額の賠償金を突然に手にした人々もいます。
現地では刹那的な傾向が強まっています。復興について、現地の住民のニーズを具体的に汲み取ってそれに対応し、地域の人材育成や長期の発展につながるような事業の展開は、官からのものも民からのものも十分な力強さを持っていません。
現在、原発の再稼働に向けての議論が盛んですが、再稼働を行う前提として、福島の原発事故についての責任が明確となること、この事故に起きた経済的損失が明らかにされて、その上で原発の再稼働が正当化されるか否かを国民全体の関与のもとで判断することが必須であると考えます。
しかし、現状はコロナイゼーションの進展を背景とした、ものごとをあいまいなままにした上での既成事実の積み上げばかりが行われています。このような現状が続いた場合に、平成23年の福島県の原発事故は、それが引き起こした数多くの被害の中に、日本社会のモラルハザードを促進させたという悪影響も付け加えることになるでしょう。
それでも倫理的な次元に訴えること
あるトラウマ研究を行っている海外の精神医学の専門家と福島の状況について話し合っていた時に、「(その場合にケアや治療よりも優先して行われるべきなのは)国を訴えることではないか」という意見を出されて、虚を突かれてうろたえてしまったことがあります。確かに、そのように考えることにも一定の正当性がありそうです。正当な権利を訴えて、法廷での闘争に取り組む原発事故の被災者の努力を、国に起きたモラルハザードに抗議する行為として、私は尊敬したいと思います。しかし、その動きを煽動したり、私が直接的に支援したりすることは、現状では考えていません。
私が自分のミッションとして考えているのは、そのような直接的な政治的な次元ではなく、もっと内面的な倫理性の次元に訴えることです。これまでにも何回か述べてきた、「日本的ナルシシズムの克服と自我の確立」という課題の引き受けを、日本にいる多くの人々に求めていくことです。
日本人の集団主義、個よりも全体を優先する心は、本来はとても美しい、優しい思いから発していたはずです。そこには、自分の故郷や家族に対する、強い責任感がともなっていました。しかし、コロナイゼーションの進展と私が呼んだ社会的・経済的状況においては、そのような優しさにつけこんで、その情熱と献身を経済的に搾取して責任を取らない層の恣意的な行動が、そのままに許容される事態となっています。
現在、日本全体で若年層の意欲の低下が指摘されていますが、その背景にはこのような社会的情勢が存在していると考えます。決してこれは、若者の道徳心の欠如といった水準のみに還元される問題ではありません。和を尊ぶ、集団を重んじる日本人の心性を悪用して、それを経済的利益を生み出すための道具とした考えない層の道徳心の欠如についても、議論されるべきでしょう。
このような状況では、日本社会についての不信感が芽生え、それが育ってしまう危険性があります。原発事故による放射線の直接的な健康被害を強調して語る議論は、そのような社会の状況への不満によっても支えられていると考えます。これに対して、献身や自己犠牲、狭義の集団主義や共同体主義を主張することによる安易な道徳的水準での解決を目指すことは、一時的に議論を鎮めることができたとしても、問題を潜在化・複雑化させることで、長期的にはその解決を困難にさせるでしょう。
オモテとウラの使い分けが深刻化し、オモテでは誰も傷つけないかのような過度の優しさや共同体主義が語られる一方で、ウラでは絶望的な対人不信感を抱いて個人の利益の確保に必死になるような心理状態が、現れやすくなっている危険性を感じています。
個人主義の考えが浸透し、分断が深まりつつある日本社会において、本当の意味での連帯が回復される道は、個を否定して集団を美化する日本的道徳を単純な形で主張することではありません(これは、近代化や行動経済成長の段階での成功体験を、状況の異なる現状に無理に当てはめているだけです)。
単に集団主義を主張するだけでは、悪い意味での社会への依存・甘えが促進されやすいのです。日本的ナルシシズムと私が名指しているのは、社会的な関係がそのような依存によって不適切な甘やかし合いに変質してしまうことです。日本的なズルズルベッタリの関係性の中にどっぷりと浸かり、自らがその集団の中における道具としての役割を引き受け、その役割に自分の全存在を引き渡してしまうことも、その関係性の中からの見返りを期待できる以上は躊躇しなくなるでしょう。自分の属する小さな集団のためには、より大きな共同体からの見解を簡単に見捨てるようになることで、集団主義が集団主義を裏切るのです。
このようなナルシシスティックな精神性は、内部と外部の間に超克が困難な断絶をもたらしてしまい、その関係性の内側に留まれない人、留まることをよしとしない人とつながることを、きわめて困難にしてしまいます。集団に還元しえない部分も、それぞれの個人にはあることを認めるべきです。
日本では個人主義が単なるわがままと理解されることも多いのですが、本来の個人主義は、正当な意味での自己責任の倫理を内在化することを求めます。そして真の個人主義は、決断の場面において、集団の空気を参照するだけではなく、自ら学んで自ら考えることを可能にするのです。
アリストテレスは、エピステーメーやフロネーシスを「思考の徳」と呼びました。集団に合わせるばかりで自ら考えて判断することを放棄している人々は、この思考の徳を身につけることを放棄していることになります。私が強調したいのは、日本人の一人一人が、エピステーメーやフロネーシスといった思考の徳を身につけることの重要性を認識し、そのための努力を積み重ねるようにすることの必要性です。
フロネーシスを目指した判断を積み重ねる経験によってのみ、本来の意味での自我、あるいは個性が形作られて行きます。集団と個人は弁証法的な関係にあります。集団ばかりを理想化して個人をないがしろにすることは、集団の力をも弱めるでしょう。そうではなくて、きちんとした自我を備えた個人が作られた上で、そのような個人同士が共同体を形成することによって、集団も機能するようになると考えます。このような方法による日本の誇りの回復が目指されるべきです。