集団自衛権についての議論が徒労感しか残らないのは、そもそもの前提を共有せず、わけのわからないことをいうひとがいるからです。それも、ものすごくたくさん。
地球の裏側の国がいきなり攻めてくることがない以上、安全保障というのは国境を接する隣国とどのようにつき合えばいいのか、という話です。
いつ裏切られるかわからない相手とのつき合い方は、ゲーム理論でもっとも研究されてきたテーマです。
社会心理学者のロバート・アクセルロッドは、「囚人のジレンマ」と呼ばれる協力と裏切りゲームを繰り返した場合、どの戦略がもっとも効果的かを調べるため、心理学、経済学、政治学、数学、社会学の5つの分野の専門家を世界じゅうから集め、コンピュータ選手権を開催しました。
選手権に挑戦した天才たちは、さまざまな戦略を持ち寄りました。相手に裏切られても協力するお人好し戦略、逆に、相手が協力しても裏切る悪の戦略、裏切った相手には徹底して懲罰を加える道徳的戦略、ランダムに協力したり裏切ったりする気まぐれ戦略、さらには過去のデータから統計的に相手の意図を推察し、最適な選択を計算する科学的戦略……。ところがこの競技を制したのは、全プログラムのなかでもっとも短い「しっぺ返し戦略」と名づけられた単純な規則だったのです。
しっぺ返し戦略は、次のふたつの規則から成り立っています。
- 最初は協力する
- それ以降は、相手が前の回にとった行動を選択する
しっぺ返し戦略では、とりあえずどんな相手でも最初は信頼します。それにこたえて相手が協力すれば信頼関係をつづけ、相手が裏切れば自分も裏切ります。いちど裏切った相手が反省して協力を申し出れば、ふたたび相手を信頼して協力関係に戻るのです。
この科学的知見を国際関係に応用すると、最強の安全保障戦略は次のようなものになります。
- 平和主義を宣言する
- 武力攻撃を受けた場合は徹底して反撃する
- 相手が撤退したらそれ以上の攻撃は停止し、平和条約を締結する
国際紛争を解決する手段としての武力行使を永久に放棄したうえで、自衛隊と日米安保によって反撃の意志と能力を示すというのは、ゲーム理論的にきわめて合理的な安全保障戦略です。戦後日本の政治家はものすごく賢かったのです(信じられないかもしれませんが)。
ところが残念なことに、「自衛隊は違憲ですべての軍備を放棄すべきだ」という暴論を大真面目に唱えるひとがこの国にはまだたくさん残っています。このひとたちは、「敵が攻めてきたら降伏すればいい」とか、「国民一人ひとりが武装してパルチザンになれ」とか、でたらめな理屈をいい散らかしてきました。
「平和」の名のもとに空理空論を振り回すひとがいるかぎり、安全保障についてのまともな議論は成立しません。だとすれば、常識のあるリベラル派がまずやるべきなのは、安倍政権を感情的に叩くことではなく、「進歩的知識人」の残党を徹底的に批判することです。
そうすれば日本でも、より現実的で実りのある安全保障の論争がはじめて可能になるでしょう。
『週刊プレイボーイ』2014年6月9日発売号
(2014年6月16日「橘玲 公式サイト」より転載)