インドネシア語講師・翻訳家であり、現在はインドネシアを中心に音楽活動を行う加藤ひろあきさん。
2015年からは「よしもとクリエイティブ・エージェンシー」所属のアーティストとなり、現地でのテレビ出演を果たすなど活動の幅をますます広げています。
「在学中は劣等生だった」という彼は、大学3年生の時に経験した留学をきっかけに、「インドネシア語と音楽をライフワークにする」という夢に出会います。
それから約10年……夢を追い続ける彼に訪れたのは、試練に次ぐ試練でした。
インドネシア語と音楽でご飯を食べる、と決めたから
インドネシアへの留学を決めた理由は何だったのですか?
実は、学生のとき留学を決めたのは「悔しかったから」だったんです。インドネシア語を専攻していたのですが、周りに比べて満足に話せない自分が悔しくて、その状況を変えるためには現地に行くしかないと思ったことがきっかけでした。
今振り返ってみて、その決断をどう思いますか?
あの決断がなかったら、僕の人生は全く違ったものになっていたでしょうね。
現地で暮らし始めて3ヶ月が経ったころ、ジャワ島大地震が発生し被災したんです。
避難や一時帰国の提案はありましたが、私は残って救援物資を届ける活動をすることを選択しました。
その頃、積み下ろしの時間や被害状況を確認する合間に空き時間が結構あって、一緒にいた仲間と「音楽でもやるか」と言って始めたものが、今やっていることの原点のような気がします。
当時は活動という実感は全くなくて、みんなで歌った一瞬が彼らの未来に少しでも繋がる時間だったらいいなと思っていました。
「音楽によって何かをポジティブな方向に変えられる」という生(なま)の体験ができたことは大きかったですね。
日本に帰国されてからは、どんな風に過ごしていたのですか?
日本に帰ってきてからは、「これから自分は何で飯を食い、何を成し遂げていきたいのか」ということをすごく考えました。
インドネシアでの被災経験って「今ある当たり前が当たり前じゃない」ことを体感した出来事だったんですよ。
実際友達も亡くなりましたし、昨日行ったカフェが次の日にはガレキになっているなんてこともありました。
だから自分は、やりたいことをやらないと後悔するだろうなと。
そうして絞ったのは「音楽、インドネシア語、サッカー」この3つ。
サッカーは仕事になりそうにないから趣味でやるとして、「音楽とインドネシア語でご飯を食べる」と決めたのが大学4年生の時。
そこから、夢を追いかける日々が始まりました。
すべての挫折を「糧」にして、ストレートに進まないところが自分らしい
卒業後の進路はどうされたのでしょうか
インドネシア語をさらに深めるために大学院に進学しました。
2010年に大学院を卒業した後は、インドネシア語翻訳・通訳のフリーランスとして社会に出ました。
でもその後も挫折ばかりでしたね。
現実として、社会に出たての若者に出来る仕事なんてほぼないんですよ。
これまでのつながりを頼って知り合いにメールをすれば返事はくるんです、「何かあれば連絡させていただきます」と。
社会人ならお分かりでしょうけど「なんかあれば」って「何もない」と同じことじゃないですか。
その状態が2、3ヶ月続いていってやっと、自分仕事ないなって気づいたんです。
結構世の中を舐めてたんですよね、僕。
流れが変わってきたのが、2011年の夏でした。
大学院時代の担当教員だったインドネシア語の師匠から電話があって、桜美林大学でのインドネシア語講師をするチャンスが巡ってきたんです。
本当に運が良かったと思います。
大学講師になったことで大きく変わったのは、信用が生まれたこと。
通訳や翻訳の仕事が少しずつ入るようになっていきました。
桜美林大学での講師が終わるタイミングで、今度は上智大学の先生と知り合うことができ、上智大学で3年間の任期付きでインドネシア語の授業を持つことになったんです。
捨てる神あれば拾う神あり、です(笑)。
インドネシアへ拠点を移そうと思われたのは、いつ頃だったのですか?
上智大学で講師を始めて2年ほど経った、2013年です。
講師の仕事は居心地が良く、これまで以上に多方面に人脈が広がりましたし、大きな規模のイベントや大使館から要請があった案件も任せてもらえるようになりました。
その一方で僕の音楽活動は鳴かず飛ばず、インドネシアフェスティバルで歌わせてもらったり、MCをさせてもらったりはしていたものの、もっともっと大きくなりたいと試行錯誤していた時期でもありました。
そんな時、インドネシア人の友人ヨフィーが僕にこう言ったんです。
「お前はインドネシアに来た方がもっと活躍できると思うよ」と。
そこから、ジャカルタに住むという選択もあるんじゃないかと思い始めました。
2013年度も終わる頃、授業中に教卓から学生たちの姿を眺めていたら「本当に輝きたい場所ってここじゃないな」って直感で思ったんです。
まだ任期は1年残っていましたが大学講師を辞め、2014年4月にジャカルタに移ってきました。
インドネシアと日本を繋ぐアイコンでありたい
インドネシアでのますますの活躍が注目されていますが、お仕事はどんな風に決まっていったのですか?
到着してすぐ、ヨフィーやこれまで知り合った現地アーティストの人脈でテレビ番組に出演し、歌も披露することができました。
「自分の居場所はやっぱりここだった」と確信したものつかの間、その番組が打ち切りになり、また無職に(笑)。
しばらくして運良く旅番組のホストのオーディションに受かり、その旅番組と音楽活動を細々と続けていました。
吉本さんと一緒に仕事をさせてもらうようになったのは、僕がインドネシア語に翻訳した、吉本興業の芸人・COWCOWさんの「あたりまえ体操」が爆発的にヒットしたこと。
イベントやラジオで通訳としてお手伝いをするうちに、本格的にタレント・アーティストとして活動するようになりました。
おかげさまで、これまでより大きいスケールで活動ができるようになったので、あとは自分の能力をどれだけ発揮できるかというところでしょうね。
これからも、インドネシアを拠点に活動されるのですか?
はい、僕が活動する上で大切にしているのは「ローカライズ」というキーワードなんですが、インドネシアという国に根づいたコンテンツを生み出していきたいと思っているんです。
僕の売りはやはりインドネシア語が話せることであり、インドネシア語と日本語で音楽ができること。
その強みを活かしながら、加藤ひろあきというコンテンツをどうやって売っていくのかということが今後の大きなテーマになると思います。
今後の目標を教えてください
新たに挑戦してみたいことは、山ほどあります。
CDを作り、テレビ出演を増やし、CMや映画なども積極的にチャレンジしたい。
それを通じてアーティストとして人気が出ることももちろんですが、自分自身がインドネシアと日本をつなぐアイコンになりたいという思いがあります。
今でこそ親日の国と言われるインドネシアですが、歴史をたどれば日本がインドネシアを侵略していた過去がある。
昔一度だけ、おじいさんに「お前らのこと許さないからな」って面と向かって言われたことがあるんですけど、今は関係が良好でも、これから先何が起こるかは誰にも分かりません。
そんな可能性もある中で、僕自身がその関係性の「ハブ」になれたらいいなって思うんです。
加藤ひろあきって、日本人だけどインドネシア語を喋って、インドネシアに住んでいて、インドネシアのもの食って暮らしてるんだよ。
あいついいヤツだよね、憎めないよねっていう存在がいることがすごく大切だと思っています。
そうすれば、ネガティブな感情や現象も少しは和らぐのではと思うからです。
自分が愛した両国の関係がこれからも少しでもいい状態であれるように貢献したい。
それが、自分がお世話になった両国への自分なりの恩返しですね。
ただ、それって僕みたいな職業だからできることなのかもしれません。
いわゆるビジネスマンだと、お金の問題もありますし、なかなかできないじゃないですか。
今は、日本のコンテンツを輸出する政府のバックアップもありますから、その力も借りながら、「日本とインドネシアの架け橋のアイコンになる」という僕のビジョンを実現していきたいと思っています。
加藤ひろあき(Hiroaki KATO)
Yoshimoto Kreatif Indonesia Artist
2006年インドネシアはジョグジャカルタに一年間留学。
その際6000人以上が亡くなったジャワ島地震を震源地近くで被災。現地の学生団体と共に様々な村を回り救援物資と共に音楽を届けるボランティア活動を展開。その他にも現地でライブ活動やラジオDJ、イベントMC、映画出演などを経験。その後日本に戻り、東京を中心に歌手・俳優をする傍ら、インドネシア語講師、通訳・翻訳を行うなど幅広く活動。
2014年、活動の拠点をインドネシアはジャカルタに移し、現在はインドネシアでのライブ活動の傍ら、インドネシアのテレビ局RTVにて旅番組「Indonesia Banget!」のレギュラーレポーター、WAKUWAKU JAPANにてクイズ番組「Quiz Surprise Japan」にて司会を務めるなど精力的に活躍中。
現在、よしもとクレアティフインドネシア、所属。インドネシアのベストセラー小説「Laskar Pelangi」の翻訳を手掛け、「虹の少年たち」(サンマーク出版)として2013年に発売。更に、インドネシアで大ヒットしたお笑い芸人COWCOWの「あたりまえ体操」("Senam yang iya iyalah")インドネシア語翻訳も手掛けた。
サイト:http://hiroakikato.com/
~おすすめの記事~
取材
濱田 真里/Mari Hamada
ABROADERS 代表
海外で働く日本人に特化した取材・インタビューサイトの運営を6年間以上続けている。その経験から、もっと若い人たちに海外に興味を持って一歩を踏み出してもらうためには、現地のワクワクする情報が必要だ!と感じて『週刊アブローダーズ』を立ち上げる。好きな国はマレーシアとカンボジア。
週刊ABROADERSは、アジアで働きたい日本人のためのリアル情報サイトです。海外でいつか働いてみたいけど、現地の暮らしは一体どうなるのだろう?」という疑問に対し、現地情報や住んでいる人の声を発信します。そのことによって、アジアで働きたい日本人の背中を押し、「アジアで働く」という生き方の選択肢を増やすことを目指しています。
HP: 週刊ABROADERS
Facebook:ABROADERS