「アルマーニ標準服」を採用した中央区立泰明小学校の和田利次校長が保護者宛てに綴った文書を、「子どもの権利」の観点から検証すると、どういうことが見えてくるのか。このテーマに詳しい弁護士の山下敏雅さんに読み解いてもらった。
山下さんは、ブログ「どうなってるんだろう? 子どもの法律」で、子どもの視点にたった法律や社会との向き合いかたを説き続けている。
ーー和田校長の文書を読むと「泰明小学校の在るべき姿としての思い描いていること」「泰明小学校の児童はかくあるべき」という主張が展開されている。
子どもが学校で学ぶのは何のためかを考える際、参考になる訴訟事例があります。
「旭川学力テスト事件」という訴訟の最高裁判所の判決(1976年)で、こんな一節があります。
(憲法26条が教育を受ける権利を規定している背後には)「国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること...が存在していることが考えられる。......換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的機能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にあるものの責務に属する」
つまり、憲法が「教育を受ける権利」を保障しているのは、一市民として、一人の人間として生きていくのに必要だから。憲法13条もいうように、人は「個人」として尊重される。そのための教育なのです。
泰明小の文書で説かれている内容は、この判決と対極の考えになっています。子どもたちを一人ひとり個人として尊重するのではなく、「この小学校のあるべき姿」のほうに子ども達を合わせようとしている。ここが一番の問題だと思います。
今回は制服がテーマですが、昨年問題となった公立高校の「地毛証明書」で高校側が主張する内容と同じ論理です。
あの事例でも、乱れたりすると、就職などに響くから、などと言われていました。頭髪指導や服装指導を行う理由を学校はいろいろ弁解しますが実質は、あの学校は荒れていると言われるのでは、と、「学校の評判」を非常に気にしています。
こうした論理は学校特有の論理なのかというと、違います。
「外(他人)からどう言われるか」という親の子どもに対する叱り方も同じです。子どもたちは、よく見ています。「親は自分の体面ばかりを気にしている。自分のことを大切に思って叱っているんじゃない。」と。それを思い返してみて欲しいと思います。
もちろん、自分が周囲からどのように見られるかを考えることも、社会の一員として暮らしていくうえで、大事なことです。しかし、「周囲の目」を過度に重視し、そこから出発するような指導は、教育とはいえません。
ーー泰明小の文書には、「公共の場でのマナー、諸々含めて、児童の心に泰明小学校の一員であることの自覚が感じられない」と綴られていた。
この学校の生徒なのだからこうしなさい、といった、所属や属性による押しつけは、体罰と似た問題があります。
体罰がなぜだめなのか。ルール違反をした子どもが、「なぜそれが悪いことなのか」をきちんと自分で理解するのではなく、「殴られるからやめよう」と思って表面上服従するだけに終わるからです。暴力を受けない場所では、また子どもはルールを破るでしょう。体罰は、教育ではなく、単なる支配です。
「この学校の生徒だからこうしなさい、こういうことはやめなさい」という指導も、それと似ています。
こういう伝統のある学校に所属しているのだから公共の場で騒ぐな、というのは、その学校でなければ騒いでよいのでしょうか。そうではないはずです。なぜ○○をすべきなのか、なぜ××が許されないのかを、その理由に遡って丁寧に教え、身につけさせることが教育です。
「○○の生徒だから」という所属や属性の論理で、その枠に子どもたちを合わせようとするのは、体罰と形は違えども、教育ではなく「支配」です。一人の人間として、社会の一員として、自分の頭で考えて育っていくことにつながりません。
旭川学力テスト事件の最高裁判決が言っているように、教育は、教育をする側の「支配的機能」ではなく、子どもの学習権を充足するためにこそあるのです。
校長の文書の中で、歴史や風格、地域とのつながりにも言及している部分もありました。
140年も続いた学校の歴史や風格への誇りが先にあるのでしょう。そういう面を大切にしたい気持ちは分かります。
しかし、一人ひとりの子どもに向き合った教育を積み重ねた結果としてその歴史や風格が続くならともかく、その逆に、歴史や風格を維持するために子どもを教育する、という姿勢は本末転倒です。
ーー泰明小の文書には「対外的にも、『泰明小』そして『泰明の子』は注目されます。そういう衆目に答える姿であるかどうか」とあった。
子どもが育つ中で、地域とのかかわりはとても大切です。子どもたちが自分も社会の一員として生きているという意識を持てますし、虐待などの対応で地域が大切な機能を持っていることを、日々の業務で実感します。子どもの育つ上で、地域の「絆」は不可分です。
しかし、その地域との「絆」は、「地域からこう見られてしまうから、子どものあなたはこうふるまうべき」「こうしてはいけない」というものに使われるものとは違います。
子どもたちが、地域の中で一人の人間として尊重されていると実感できること、地域が自分の居場所なのだと感じられることが重要なのです。
――泰明小の文書には「よりよい自分であるためによい集団にしなければならない、というスクールアイデンティティー」も求められている。
アイデンティティーは、子どもが成長、発達していくなかで、模索しながら自分で形づくっていくものです。特に10代は、自分探しをしながら自分を形づくっていく大事な時期です。
自分が所属する社会や組織・団体、ルーツや性別、セクシュアリティ、民族というもののなかで、自分で少しずつ、お互い尊重しあいながら築いていくものです。「○○学校の生徒だから」「男の子だから」「日本人だから」などと、周囲から押しつけられ、それに従わされるものではありません。
自分で「この学校が大好きで、愛着や誇りを持っている」と、自らアイデンティティーを持てるのは素敵なことだと思います。だけど、それは押しつけられてもたらされるものではないのです。
――山下弁護士は、ブログ「どうなってるんだろう? 子どもの法律」で制服についても取り上げている。
どんな人も,一人ひとりが,大切な人間です。 工場で作られているような,どれも同じ形をした商品ではありませんし, 着せ替え人形でもなければ,奴隷でもありません。
教育基本法という,教育のベースとなる法律にも,一人ひとりを大切にすることが,はっきり書いてあります。
それなのに,体型も,服のセンスも,みんなばらばらの生徒たちが,まったく同じ服を着させられているのは,おかしなことなのです。
むかしは,校則で男子が丸坊主にさせられる中学校がとても多かったのですが,みんなが「おかしい」と声を上げたことで,丸坊主にさせる学校は,とても少なくなりました。
制服についても,同じように「おかしい」と声を上げて変えていくことが大切だと,私は思っています。
「どうなっているんだろう? 子どもの法律」から抜粋
今回は「アルマーニ」のものだからという理由で標準服が問われていますが、そもそも制服自体必要なのでしょうか。
アルマーニでなく、他のブランドであれば、それでよいのでしょうか。
小学校は私服の学校が多いですが、なぜ中学になると制服を着るのが当たり前になるのでしょうか。
制服自体必要なのかという視点からみると、批判されるのは泰明小学校の校長だけではないと思っています。