フランス人女優のカトリーヌ・ドヌーヴが1月14日、自身を含む100人の女性が連名で9日に発表した「男性には『口説く自由』がある」などとする声明について謝罪した。
ドヌーヴは「攻撃されたと感じた、性暴力の被害者に謝ります」としつつ、#MeToo のムーブメント自体には改めて違和感を表明している。
ドヌーヴには、性暴力の被害者を傷つける意図はなかった。では、本当に懸念していたのは何だったのだろうか?
それは、「潔癖主義の波」だという。ドヌーヴらが発表した声明について、改めて、詳しい内容を紹介したい。
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1月9日付の仏紙「ル・モンド」に、女優のカトリーヌ・ドヌーヴらを含む100人の女性団体が寄せた文書が、国内外問わず大きな反響を呼んでいる。以下が記事の冒頭だ。
レイプは重罪です。しかしナンパはしつこかろうが下手だろうが犯罪ではなく、レディーファーストもまた男性原理にもとづいた侵害行為ではありません。
ワインスタイン事件のあと、女性に対して振るわれる性的暴力、とりわけ権力を不当に行使する男性がいるある種の職場環境で振るわれる性的暴力に対して、人々が自覚したのは正当なことでした。それは必要なことでした。しかしこの発言の自由は、今日では自己矛盾の方向に向かっています。すなわち、型どおりに話すのを強要され、都合の悪いことは黙るよう命じられ、そうした至上命令に従うことを拒否する女性は、裏切者や共犯者と見なされているのです!
そこにまさにピューリタニズム(潔癖主義)の特性があります。それは公共の利益などという名目のもとに、女性の保護だの彼女たちの解放だのという議論を借りながら、結局は女性を永遠の犠牲者の立場、男性優位の悪魔の支配下に置かれた、哀れでちっぽけな存在という立場に、いっそう縛りつけてしまうものです。ちょうど大昔に魔女がそうであったように。
文書に署名した女性たちが憂いているのは、ハリウッドで多数のセクハラ・レイプ被害が発覚したいわゆる「ワインスタイン事件」を火種とした、「発言の自由」をめぐる問題だ。文書は、「#MeeToo」をはじめとする一連の告発ムーブメントが、今日では「自己矛盾の方向に陥っている」と指摘する。
記事の署名者の中には、フェミニズムをスターリニズムになぞらえる作家のアブヌス・シャルマニ、「フェミニズムにケリをつける」ことを望む思想家であり、『男性支配は存在していない』の著者でもあるペギー・サストル、2015年に「路上で口笛を鳴らされるのはなかなかいいものだ」などと発言をして論争を呼んだソフィー・ド・マントンが含まれている。
またニュースサイト「Causeur」の編集長であり、「#BalanceTonPorc」(フランス版の「#MeToo」。「豚を告発せよ」といった過激な表現)を「反則」と評し、男性に対する「フェミニズム的なハラスメント」について語るエリザベス・レヴィの名前も目にすることができる。
女優カトリーヌ・ドヌーヴもまた「#BalanceTonPorc」というハッシュタグに改めて反対する姿勢をとっている。2017年10月末、ドヌーヴはすでに理解に苦しむ気持ちを露わにしていた。「私にはそれが物事を揺り動かす最も正当な方法だとは思えません。このあとは何になるんですか?あばずれ女を告発せよですか?そんな言葉はあまりにも過激すぎると思います。何よりそんなことでは問題は解決しないでしょう」
共同署名者の中には、作家であり複数自由恋愛実践者のカトリーヌ・ミエ、文筆家でありBDSMにも造詣が深いカトリーヌ・ロブ=グリエ(ヌーヴォー・ロマンの作家アラン・ロブ=グリエの未亡人)の名前も見ることができる。
記事の後半にはこう書かれている。
とりわけ私たちは、人間が一枚岩でないことを意識しています。例えばある女性は、同じ1日のうちに、職場のチームを指揮しながら、男性の性的対象となることを悦ぶことができます。「あばずれ」にも父権制の卑しい共犯者にもならずに。彼女は自分の給料が男性のそれと同等であるかに注意を払うと同時に、地下鉄で痴漢に遭っても、たとえそれが犯罪と見なされるものでも、そのことを永遠のトラウマと感じないことができます。彼女はそれを、深刻な性的貧困状態の現れ、さらには何も起こらなかったと見なすことさえできるのです。
女性として、私たちは、権力の不当行使の告発を超えて、男性たちやセクシュアリティへの憎しみの顔をとるこうしたフェミニズムのなかに、自らの姿を見とめることができません。私たちは性的な誘いに対してノンという自由は、しつこく言い寄る自由なしには成り立たないと考えます。また私たちは獲物の役割のなかに閉じこもるのではなく、このしつこく言い寄る自由にうまく対処する術を心得る必要があると思います。
ハフポスト・フランス版より翻訳・加筆しました。