終戦直後、満州から引き揚げ中に家族とはぐれ、博多の闇市で戦争孤児として生きてきた男がいた。
髙野雅夫(77)。17歳で生まれて初めて自分の名前を書けるようになり、夜間中学で学ぶことで人間としての誇りと権利を奪い返した。
インタビューの前編に続き、後編では、夜間中学を卒業してからの彼の人生をたどる。
1964年。夜間中学を24歳で卒業した髙野は、四畳半のアパートで彼女と同棲生活を始めた。卒業の半年前、急性盲腸炎で入院した病院の看護師だった。
翌年長男が生まれ、髙野は土方や運転手の助手など、日雇い労働を続けていた。自らの家庭を守ることに注力しかけていたころ、髙野の心を激しく揺さぶる出来事が起きた。
行政管理庁(現在の総務省行政管理局)が1966年、文部省や労働省、警察庁に対して、夜間中学を早期廃止するよう勧告したのだ。
勧告によると、夜間中学は教育基本法で認められておらず、あくまで臨時の措置だと指摘。子どもたちが昼間の学校に通えるよう、学校や教育委員会が家庭などに働きかけるよう求めていた。
廃止勧告の新聞記事を読んだとき、体中から血の気が引いて、心臓がドキンドキンと高鳴って。震えが止まらなかった。
俺にとっては、ただ単に学校がなくなるっていうことじゃないんだよ。学校がなくなるってことは、野良犬も同然の俺を育ててくれた親父やお袋がなくなるってことと同じだった。
「死刑宣告」。そんな言葉がぱっと思い浮かんだ。日本国憲法をはじめ、あらゆる人間の法律から俺たちを切り捨てておきながら、裁くときだけは人間の法律を当てはめてきやがる。
たった1枚の紙切れで死刑宣告をしやがる。やられてたまるか。殺されてたまるか。命をかけても夜間中学を守るという思いだった。
今考えたらね、馬鹿みたいな話なんだけど、夜間中学生の叫びをぶつけたくて、かつて取材に来たテレビ局の人からカメラを、ラジオ局の人からデンスケ(録音機)を借りて証言映画を作った。夜間中学生が働いて学ぶ姿を先生が撮影し、俺がデンスケをかついだ。生徒たちは心の傷と怒りをぶちまけた。
映画の題名は「夜間中学生」。そのフィルムを持って、夜間中学の廃止反対を訴える全国行脚をすることにした。映画に込めた俺たちの思いは、夜間中学生への同情や賛美ではなく、差別に対する怒りだった。
日本中にいる義務教育未終了者に訴えたかった。自ら名乗り出てくれ、自らの権利を主張してくれ、何歳でもいいから夜間中学に入ってくれ、と。そういう人たちこそが、廃止勧告に反対する俺たちにとっての唯一の「生き証人」だった。
1967年9月5日。髙野は夜間中学の廃止反対を訴えるため、全国行脚を始めた。上野駅から列車で青森に向かい、青函連絡船を乗り継いで北海道に入った。函館や札幌、小樽、余市などを回り、定時制高校や教職員組合、労働組合、青年学級などで上映会を開いてもらえるよう頼み込んだ。
とにかく日本中回ってやろうと思った。意気込みはよかったんだけど、スタートしたのが9月5日でしょ。今から考えると、なんで寒い北海道から行くんだって。逆に南から行かなきゃいけないのに。もう、そういうこともわからないで、とにかく怒りで頭がいっぱいだった。
当時は夜間中学って言ったって、「それ何ですか?」っていう反応。たまに「知ってる、知ってる」って言われても、たいていは定時制高校と間違えていてね。話にならないんですよ。
汽車の中や駅のベンチで、寝袋にもぐって寝泊まりした。上映が拒否されることもあった。行く先々での出会いと喜び、怒り、悲しみを髙野は毎日はがきに記し、母校の荒川区立第九中あてに送り続けた。
「わらじ通信」と名付けたそのはがきは、先生たちが授業前に読み上げ、在校生たちはそれを楽しみにしていた。
髙野はわらじ通信を約2年間にわたって送り続けた。その数は450枚を超えた。
11月になって、髙野は北海道から岡山に移動した。岡山県高校教職員組合の招きだった。そこで髙野が出会ったのは、被差別部落出身者が差別からの解放を訴えた「水平社宣言」だった。
生まれて初めて水平社宣言を知った。最も衝撃を受けたのは、「人間をいたわるかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想えば」って部分。歯がガチガチして震えが止まらなかった。ああ、そうなんだ、これなんだって。
マスコミの取材でよく「夜間中学は感動的だ」とか「教育の原点はここにある」とか言われてきた。それは全くのうそだとは言わないが、何か違うと思っていた。それで、この一文に出会って、これなんだっていう確信が持てた。
それまでは俺自身、頭のどっかに、まだ大学に行っていきたいっていう思いがあったんだろうね。残ってないと言えば嘘だと思う。でも、これ以降、きれいさっぱりなくなった。
その時、満州から引き揚げる途中で殺された赤ん坊とか、ゴンチとか、俺に名前の書き方を教えてくれたハラボジ(おじいさん)とか、彼らの顔が一気に蘇ってきた。
夜間中学の卒業式でもらった辞書に「同情を憎み、矛盾に怒れ」って書き込み、それから肌身離さず持ち歩いてこだわってきたことの正体がこれなんだと思った。
水平社宣言の中で、もう一つ印象に残っているのが「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」という部分。俺はこれを読んで、まさに「夜間中学生であることを誇りうる時が来た」と確信した。
やっぱりね、文字と言葉を奪い返すというのは、ただ単に読み書きできるということではなくて、自分自身が生きてきた歴史を奪い返すっていうことなんだよ。
俺は1993年に「タカノマサオ」っていう本を書いているんだけど、あれ、元々記憶があって書いたわけじゃない。文字と言葉を奪い返すことによって、忘れていた旧満州の記憶、コーリャン畑の光景なんかが蘇ってきた。
俺たちにとっては、そこまで奪い返した文字と言葉じゃないと武器にならない。それがなけりゃ、どんな体験を語れても、何をしても、新しい未来を切り開いていく武器にはならない。そういう確信を俺は持っている。だから文字を知るとか、学ぶとかで止まってはだめなんだ。
髙野の行脚はさらに続いた。岡山から広島、神戸、京都へと向かった。夜間中学の廃止反対を懸命に訴えたが、次々と学校が廃止に追い込まれていった。
全国行脚に出る前、夜間中学は全国で25校あった。さらにその前は92校あったんだけど、それがどんどんつぶされていった。だからもう、とにかく廃止反対じゃ無理だと思って。大阪市内に夜間中学はないから、逆に作ってやろうと思うようになった。
だけど、1968年2月に大阪府松原市の教研集会(教育全国研究集会)で喋っているうちに意識を失った。
その後も過労と栄養失調で体調を崩して、東京でしばし休むことになった。結局、大阪に乗り込んだのはそれから5ヶ月もたっちまったあとだった。
夜間中学の恩師はさすがに、「法律に認められていないから国がつぶせって言ってる夜間中学を作れるわけがない。あんまり無理するな」とか言ってた。でも俺は「絶対作ってみせる」って言って。
ただ、案の定、最初は大阪市教委や大阪府教委に行っても、担当者から「大阪は同和教育や人権教育、民族教育をしっかりやっているので、夜間中学を必要とする人は1人もいません。市民からも府民からも要望はないし、大事な税金だから使えません」なんて言われた。
でも、俺はしつこく食い下がった。ナイフの代わりに、夜間中学の卒業記念でもらった、「同情を憎み、矛盾に怒れ」と書き込んだ辞書と教育小六法を武器に。
「義務教育の義務とは行政にあるのではないか。子どもたちには学ぶ権利があって、権利に時効はないはずだから、何歳になっても保障すべきはないのか」
「憲法で生きる権利と学ぶ権利が明記され、児童憲章や教育基本法、学校教育法などもあるのに、なぜそれが守られないのか」
「夜間中学は法律に認められていないと言うが、学校教育法施行令第25条の5に、2部と書いてあるでしょう」
俺はそうやって連日、ナゼナゼ問答を繰り返した。
そのときは釜ヶ崎(大阪市西成区にある日雇い労働者のまち)のドヤ(簡易宿泊所)に毎日寝泊まりして、市バスに乗って市教委や府教委まで来ていた。わずかかもしれないけど、俺の金が税金となって入ってきているわけだから、煙たがる教育委員会の人に、その分しゃべらせてくれって言ったりして。
当時の大阪市の人口が300万人だったから、だったら、夜間中学を作れって訴えるビラを300万枚配ってやろうじゃないかと。300万枚まいたら絶対に、夜間中学を必要とする仲間が名乗り出ると信じていた。
怒られたこともあった。「夜間中学を作るなんて差別の再生産だ」っていきなり怒鳴られたり。それでも絶対にあきらめなかった。
今でも夜間中学の生徒募集のビラまきとかすると思うんだけど、結局信じられるかどうかなんだよ。同じまくのでも、信じてまいているビラと、なんとなくまいているのとでは全く違う。なぜなら命がこもってないから。
そしたら、本当に名乗り出たんだよ。8人。中でも一番最初に連絡をくれたのは小林晃君。
桂米朝さんが司会をやっていた関西の人気テレビ番組「ハイ!土曜日です」に、ほかの夜間中学生たちと出演し、行政管理庁の廃止勧告や証言映画の制作、全国行脚のことなどを話した。それを見て最初に名乗り出てくれたのが小林君だった。
髙野の熱意はついに行政を動かし、1969年、大阪で初の公立夜間中学ができた。大阪市の天王寺中学がそれだ。入学式があった6月9日、髙野は胸を熱くしながら「仲間」を待った。現れた入学希望者は89人に達した。
学校にやって来る仲間たちの姿を見た時、「ざまあみやがれ」と心のなかで叫んだ。「大阪には夜間中学は必要ありません」と教育委員会の人たちは言ったが、「生き証人」がこんなにいたではないか、と。
彼らの姿を見て感激すると同時に、怒りもこみ上げた。もし、あと10年早く夜間中学ができてきたら、彼らはもっと豊かな人生を送れたんではないかと。
天王寺夜間中学は髙野雅夫がつくったんだとよく言われるんだけど、それは全く違うんだよ。彼ら89人の生き証人が名乗り出なかったら、夜間中学はできなかった。
特に小林晃君たち、最初に名乗り出た8人。彼らが勇気を出して叫ばなければ夜間中学はできなかった。
天王寺夜間中の開設を皮切りに、大阪各地に夜間中学ができた。一方、髙野は東京に戻り、夜間中学の増設運動を続けたが、情熱は間もなく失望へと変わっていく。
俺たちが命がけで守ろうとしてきた夜間中学が変わっちまったんだよ。先生も生徒もね。夜間中学が増えてきたら、先生たちも、やれ「夜間中学にこそ教育の原点がある」だとか、「夜間中学にこそ差別がない」とか、「生徒と先生たちの心温まる交流」とか、きれいごとばっかり言って。
一方で、形だけ卒業証書をもらって、実際にはほとんど勉強できなかった「形式中学卒業生」が、改めて勉強したいからって夜間中学の門をたたいても、「あなたはもう卒業してるんだから夜間中学には入れません」って断られるんだよ。
形式卒業者でも堂々と学べるようにすることが本来の姿だろうに、後ろめたさから、形式卒業生だと正直に言おうとする人に対して、生徒たちからも「なんでそんなこと、わざわざ言うんだ。黙って勉強してりゃ、そのほうが自分のためだろう」って言う人が出たりして。夜間中学の中で差別が生まれたんだ。
この50年間、形式中学卒業生の夜間中学への入学は、ほとんど断られてるんですよ。山田洋次監督の「学校」という映画があるでしょ。夜間中学をテーマにした映画。あれが封切られた頃、東京の夜間中学では問い合わせや入学希望の電話が鳴りっぱなしだったんだけど、そのほとんどが形式中学卒業生だった。この現実に、誰も責任を取っちゃいないんだよ。
夜間中学は変わったよ。昔はね、どこの夜間中学にでも気軽に入れて、先生や生徒と色んなことを語ったもんだ。それが今じゃ、職員室を訪ねても「何か御用ですか?」って。
マスコミの取材にも、やれプライバシーとか匿名とかって。写真も顔が写らないように配慮しろとか。夜間中学生は犯罪者なのか。名前や顔を隠して生きてきた俺たちが夜間中学で学んで、どこまで名前と顔をさらして、誇り高く生きていけるかというのが勝負なんだよ。
1975年3月。東京都夜間中学研究会で髙野は、こう「決別」の言葉を残した。
俺たちが命がけで守り、作った夜間中学はもう存在しなくなりました。増設運動から身を引かせてもらいます。
髙野はその後、子ども2人を連れて沖縄を放浪したり、私設夜間中学を三宅島に作ったりした。自らの活動を本にまとめるなどはしたが、夜間中学をめぐる運動の一線からは退いていた。そんな髙野が再び「リング」へと上がる出来事があった。
「字が読めねえから本がほしいんだ」。1990年6月。東京であった反原発集会の会場で、自身の本などを並べて売っていた髙野に、熊本からやってきた一人の中年女性がこう言った。
女性は目にいっぱい涙を浮かべならが、日雇いで稼ぎが少ない中、なけなしの金をはたいて上京してきたこと、字が読めないから本が欲しい、でもそれを買う金がないことを打ち明けた。「東京の人間は口ばっかしだ」。女性は吐き捨てるように言って走り去ってしまった。
女性に何があったのか、髙野には具体的なことはわからなかったが、彼女の姿が、かつてバタ屋のおじいさんのもと、必死で文字と言葉を奪い返そうとした17歳のころの自分と重なった。
夜間中学にもう一度関わろうと決意した髙野が最初に向かったのは、思い出の場所、大阪だった。ここで、在日コリアンのオモニ(おかあさん)やハルモ二(おばあさん)の夜間中学生たちが何のために文字と言葉を学んでいるのか、知りたかった。
通名で生きてきたオモニやハルモニたちが夜間中学で最大のテーマにしていたのは、本名を名乗るってことだった。なぜ名前が書けなかったのか、なぜ名前を奪われたのか。もちろん、本名を名乗ることを嫌がるオモニ、ハルモニもいるんだけど、彼女たちは重い差別の歴史を生きてきた。
俺が17歳で、生まれて初めて自分の名前を書けるようになって、人間の尊厳と権利を奪い返したように、彼女たちもまた、本名を奪い返す歴史の必然性を持っているんだよ。
そして1998年。髙野は韓国に語学留学する。この時58歳。
俺に「たかのまさお」って字を教えてくれた、俺にとっての神様、バタ屋のハラボジ(おじいさん)の祖国に行ってみたいと思っていた。韓国では、日本の夜間中学に似た識字教室を探し当てた。これがきっかけで、この教室と、日本の夜間中学の交流も始まった。
世界では読み書きができない人が10億人以上いると言われている。特にアジアが多い。そんな仲間たちのために、俺はコヤシとなってみせる。
かつて行政管理庁から廃止勧告が出され、髙野がたった1人で抗い、守ろうとした夜間中学は現在、全国に31校ある。不登校などの事情で満足に義務教育を受けられなかった人たちや、日本に暮らす外国人たちが学ぶ。
国も夜間中学の必要性を再認識。教育機会確保法の成立(2016年)を受けて支援の強化に乗り出した。埼玉県川口市と千葉県松戸市では2019年、夜間中学が設置される予定だ。
こんな状況を、髙野はどう見ているのか。
夜間中学の関係者の中にすら、この法律が画期的だとか言う人がいて、「おめでたい、おめでたい」って言うんだけど、一体何がおめでたいってんだ。おめーの頭のほうがよっぽどめでてーや、って。
本来なら、夜間中学なんて必要としない社会になってなきゃおかしいんだけど、そうなってないばかりか、法律ができるのに50年だよ。俺から見たら何が画期的なんだと。
この50年間に、夜間中学に入りたくても入れず、涙を飲んで死んでいった人間が山ほどいるんだよ。そんな仲間たちにどうしてくれるんだって。
俺は実際にそういう人たちから手紙ももらった。「死ぬまでに一度でいいから夜間中学で勉強したい」とか、「紙切れ一枚の卒業証書をもらったがために夜間中学から拒否された。私はこのまま死んでいきます」とか、「近くに夜間中学がないので、無学のまま毎晩、布団の中で泣いています」とか。
そういう叫びをぶつけてきた仲間たち、力及ばず見殺しにしてしまった彼らのことを思うとね、今頃になって法律ができて、本当に悔しくて、悔しくて。眠れなくなる時がある。
大体、新しい法律なんか作らなくたって、憲法とか教育基本法とかで十分なんだよ。すべての人に文化的な生活を保障をし、すべての人が義務教育を無償で受けられるって言ってるんだから。
これから夜間中学はどうなっていくのかって聞かれるのが一番つらい。俺たちの任務ってのがあると思ってる。使命って言ってもいいと思うんだけど。それはやっぱり、在日コリアンの1世とともに、俺たちの役割は終わると思っている。
さっきも言ったんだけど、通名で生きてきたオモニやハルモニたちは差別に耐えながら生きてきて、夜間中学で学んで、本名を名乗れるかが勝負だった。だから、自分の名前を、ひらがなから漢字まで奪い返すっていう必然があった。
ところが今は、文科省が言ってるように、夜間中学の生徒たちはだいぶ変わってるでしょ。外国人が学んでるって言っても、彼らは通名があるわけじゃないし、本名を奪い返す必然もない。
必然がない、そして教師も様変わりしてる。そういう生徒と教師の間では「奪われたものを奪い返す」という認識もないし、武器となる文字と言葉も身につかない。
※すでに始まっており、12月16日まで開催中。
展覧会の名前が「夜間中学」だったら、俺は協力しなかった。ほら、よく大学のゼミとかでもアンケートつくって、「夜間中学を知っていますか」とか書いてるんだけど、それじゃだめなんだよ。「夜間中学生を知っていますか」じゃないと。
だって夜間中学って言ったら建物とか学校でしょ。夜間中学生と言ったら、どういう人間が来ているのかなと。在日の人が来てるのかなとか、フィリピンの人が来ているのかなとか。人間の顔が思い浮かばない文字と言葉は武器にならない。
それともう一つ。2019年は大阪に夜間中学ができてから50周年。記念行事をやるとしたら絶対、そこにマララさんを呼びたいと思ってる。何も彼女がノーベル平和賞をもらったからじゃない。彼女はこう言ったんだ。「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペンがあれば世界は変わる」って。共感した。
つまりさ、夜間中学も同じなんだ。こういうふうに教師が信じられるかどうかということ。生徒たちが持っている無限の可能性をね。
俺は最後の任務を終えて、さわやかに野垂れ死にたい。夜間中学は世界に誇る最高の肩書だよ。
(敬称略。終わり)