羽田孜元首相が死去、82歳 「省エネルック」がトレードマークだった

「ミスター政治改革」とも呼ばれたが、首相在任日数は戦後2番目の短さだった。
記者会見する羽田孜首相(東京・首相官邸)撮影日:1994年04月28日
記者会見する羽田孜首相(東京・首相官邸)撮影日:1994年04月28日
時事通信社

「ミスター政治改革」と呼ばれた羽田孜元首相が8月28日午前、東京都内の自宅で老衰のため死去した。82才だった。NHKニュースなどが報じた。

羽田氏は1935年8月生まれ。69年12月の総選挙に自民党から出馬し初当選した。当選同期の小沢一郎氏らとともに田中派に所属。その後、竹下派の結成に参加。「竹下派7奉行」の1人に数えられ、農水相や大蔵相を歴任した。

昭和44年、衆院選挙で初当選を果たし田中角栄自民党幹事長(右)と握手する羽田孜氏。撮影日:1969年
昭和44年、衆院選挙で初当選を果たし田中角栄自民党幹事長(右)と握手する羽田孜氏。撮影日:1969年
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1992年、竹下派(「経世会」)の会長だった金丸元副総裁が「東京佐川急便事件」で議員辞職したことを契機に、羽田派を結成。93年、「政治改革法案」をめぐって提出された宮沢喜一内閣の不信任決議案に賛成。小沢一郎氏らとともに自民党を離れ、新たに新生党を結成し、党首となった。

同じく「新党ブーム」の波に乗った日本新党の細川護煕氏に協力し、非自民連立政権の細川政権の樹立に協力。副総理と外相を兼任した。

94年4月、細川氏の後継として首相に就任。ところが、政権発足直前に社会党が連立政権から離脱。羽田政権は少数与党政権として発足することになった。

組閣後、記念撮影する羽田内閣の閣僚。最前列右から3人目が羽田孜首相(東京・首相官邸)撮影日:1994年04月28日
組閣後、記念撮影する羽田内閣の閣僚。最前列右から3人目が羽田孜首相(東京・首相官邸)撮影日:1994年04月28日
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羽田政権は、南京大虐殺について「でっち上げだと思う」と発言した永野茂門法相が辞職に追い込まれるなど安定せず、政局はさらに混迷した。新生党代表幹事だった小沢一郎氏に対する「二重権力」「強権手法」といった批判も続き、羽田政権はわずか64日で総辞職に追い込まれた。これは戦後2番目に短い在任日数だった。

その後も羽田氏は自民党に代わる新たな政治勢力の結集を訴え、新進党の結党に参加。96年には盟友だった小沢氏と袂を分かって新進党を離れ、新たに太陽党を結成。1998年1月には太陽党、国民の声、フロム・ファイブの3党で結成された民政党の代表に就任した。

98年4月、新・民主党の結党に参加。幹事長や特別代表を歴任し、「党の顔」としてトレードマークである半袖の「省エネルック」で全国を飛び回った。

「新・新党」結成へ向けての政策協議を提言するため、新生党の羽田孜党首(左)と日本新党の細川護熙代表(右)と会談に入る海部俊樹元首相(中央)(東京・虎ノ門のホテルオークラ) 撮影日:1994年07月25日
「新・新党」結成へ向けての政策協議を提言するため、新生党の羽田孜党首(左)と日本新党の細川護熙代表(右)と会談に入る海部俊樹元首相(中央)(東京・虎ノ門のホテルオークラ) 撮影日:1994年07月25日
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羽田氏は初当選以来14回連続で当選。2005年の衆院選前に軽い脳梗塞を発症。09年の総選挙を最後に、12年に政界を引退した。

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