「男尊女子」って? エッセイスト酒井順子さんと語る、心の中にある"小さな女子マネ"の精神

男尊女子(だんそん・じょし):女性は男性よりも下であるという気持ちを、意識的にであれ無意識的にであれ持っている女性のこと。…という説明は、もちろん辞書に載っていない。

男尊女子(だんそん・じょし):女性は男性よりも下であるという気持ちを、意識的にであれ無意識的にであれ持っている女性のこと。

という説明は、もちろん辞書に載っていない。

「男尊女子」とは、男が「上」であることを当然と思っている女性や、男を立てながら内心では「男のくせに」と思っている女性を表す言葉として、コラムニストの酒井順子さんが生み出した造語だ。

世界経済フォーラムが2016年に発表した各国における男女格差を測る「ジェンダーギャップ指数」で、日本は144カ国中111位。2015年の101位から後退している。

なぜ日本の男女平等は進まないのか? その背景には、女性の中にある男女差別意識があるのかもしれない。ベストセラーとなった『負け犬の遠吠え』から十数年。酒井さんに「男尊女子」を取り巻く事情を聞いた。

(c)Kaori Sasagawa

女性の中にある男女平等意識をほじくり出す

――新刊の『男尊女子』というタイトル、とてもキャッチーですね。

いわゆる男女平等みたいなものが、なぜなかなか進まないのかな、ということを考えたときに、男性ばかりじゃなくて私たち女性の中にも理由があるのではないか、と感じて。そういう意識の表れを、ほじくり出して書いてみようと思いました。

――女性を下に見る心を隠し持っているのは、男性ばかりではない。女性の中にもそういう「女性差別」の意識がある、と。

男尊女卑とか女性差別といったことは、あからさまには目に見えづらくなってきていますよね。でも「消えた」わけではない。水面下に「隠れた」だけなんだと思います。無意識にはそう思っている女性を「男尊女子」と名付けてみました。

男女差別を、あえて拒否しない自分を発見した

――1966年生まれの酒井さんは「まあまあ男女が対等な世の中を生きて」きたそうですが、男女は平等でない経験を初めて実感したのはいつでしたか。

大学時代です。小中高と女子校だったため、大学に入って初めて男女共学になったんですね。ずっと女子校で男女の差を知らずに育ったので、「男を立てる」という行為についても、よくわからずにいました。

それなのに、共学を体験したとたん、「なんか男の人に任せていこうか」といった気分に大いになってしまった。そんな自分にすごくびっくりしました。習ってもいないのに。

――女子は一歩引いて男に任せておいたほうがラク、と知ってしまった。

そうです。さらに驚いたのが、同じ女子校出身で仲が良かった友達が、大学では喜々として運動部のマネージャーになっていたこと。彼女が楽しそうに男たちの汚れ物を洗濯する姿を見て、もうギョギョッて。

(c)Kaori Sasagawa

ずっと女子校という単性社会にいたので、「男子の世話をしたがる女子」という事例をそこで初めて見たんです。

――本でも「小さな女子マネ」の章でその経験を語られていますね。大学生になってからの「自分って被差別側にいたんだ!」という発見と、「そのほうがラクだから、差別をあえて拒否しない自分」への驚き。

自分の中にも「男尊女子」が存在していたんですよね。男を立てようとする、「小さな女子マネ」を精神の中で飼っていた。以前に上野千鶴子さんがある雑誌で、「女性はジェンダー特性として人の役に立ちたい気持ちがあるから」とおっしゃっていたんですが、上野さんがおっしゃるからにはそうなのかも...と納得したりして。

ただ、いまだに男性に対して慣れていないというか、男性を自分とは同じ人間とは思えていないところが多分にあります。それはもう本当に三つ子の魂百までも、と言いますか、人生の前半で染み込んだことってなかなか抜けないんだなぁ、と思っています。

九州女子が「男を立てる」のはフリなのか?

――人生の前半で染み込んだ価値観は強い。そういう意味では、男尊女卑の地域性が強い九州で生まれ育った「九州男児」も、「男尊女子」とセットで成立する気がします。

福岡出身のラグビーの五郎丸選手も「(好みのタイプの女性は)一歩二歩、後ろを下がって歩く女性がいいですね」とテレビで答えていましたよね。

もちろん九州の男女が全員そういうわけではないとは思っていますが、私の周囲を見ると、割合でいったときに九州出身者の「男尊女子」傾向はやはり高いのでは、と感じることがあります。

――一方で、「九州では本当は女のほうが強い。男は女の手のひらで踊らされているだけ」という言い分も女性側からはしばしば聞きます。

そう言いたくなる女性側の気持ちも一理あるのでは、とは思います。けれども男女の関係に限らず、「下」側にいる人たちが「上」側にいる相手を心の中で見下すことでうっぷんを晴らそうとする、という構図ができてしまうと、結局は同じことの繰り返しになってしまうのではないでしょうか。

そういう手法って大昔からあるんですよ。昔の『婦人公論』を読むと「男性飼育法」というような特集が結構あったりする。「従に見せかけて、こちらが主になればいいのだ」という逆転の発想によってルサンチマンを果たす、的なことなんだと思います。

――「下」側の視点、ですね。

どちらかが上に立たないと成立しない、上下関係になっちゃいますよね。私の中にも男尊女子成分はありますし、面倒くさい部分もたくさんあるんですけれども、これからの時代は、男女のどちらかが上でも下でもなく、「並んで歩く」というところを目指したほうがいいのかな、と思っています。

「主人」や「嫁」という呼称ひとつとっても、上下関係を物語っていますよね。今はもう、そう呼びたい人だけが好きで呼んでいる時代になっているんだろうな、とは思いますが。

(c)Kaori Sasagawa

「男が主、女は従」の時代に時計の針が戻される

――日本に限らず、海外の多くの国も男女平等化の道を歩んでいます。とはいえ、1970年代末のイスラム革命後、女性への抑圧が進んだイランのケースも本では触れられています。

1970年代末の革命前のイランでは、他の民主主義国家に比べても女性の社会進出が進んでいたそうなんですね。ところが革命後は、女性は小説も化粧もアクセサリーも禁止され、結婚可能な年齢は9歳に引き下げられてしまった。

時計の針は、戻そうと思ったら戻すことができる。戻ってしまうことも可能なんです。

日本でもそういうことはありましたよね。大正時代はモダンな空気が流れていたのに、戦争が始まったら「女性は子どもを10人以上産め」みたいな風潮になっていったわけですから。

――今ある男女平等がこれまでの歩みによって得られたものと気づかされますね。

戦後になってからも、「昔の家族制度に戻そう」「女性の権利をもっと小さくしよう」という動きが実は出たり消えたりしています。

時計の針が「戻されてしまう」こともある。だからこそ、そういうことが起きないように、ちょっとでも意識を変えていこう、という動きを皆がしておいたほうがいいのかな、と思います。

(取材・文 阿部花恵