東芝の元副社長の川西剛氏が、1980年代に半導体事業を率いた当時は、日本の半導体が世界の売上高上位を独占していたDRAM全盛の栄光時代だった。東芝は「1メガ(メガは100万)ビットDRAM」という当時最先端の半導体製品で世界を席巻し、インテルをDRAM事業から撤退させるまで追い込んだ。
だが、川西氏が東芝の役員を退任した94年以降、日本勢のシェアはじりじりと後退し、半導体産業は次第に敗戦の色を濃くしていく。
東芝も、2001年にDRAMから撤退したが、同社の場合は、代わって投資を集中したNAND型フラッシュメモリーが半導体事業を支え続けた。川西氏には、日本の半導体の敗戦と東芝半導体の成功の要因、さらに東芝が経営危機に至った背景について聞いた。
――日本の半導体は壊滅状態です。
かわにし・つよし/元東芝副社長。1952年東工大電気工学科卒、東京芝浦電気(現・東芝入社)。81年半導体事業部長、84年取締役、90年副社長、94年退任。88歳
昔、私が半導体事業を率いていた1980年代後半は、日本の半導体の世界シェアは50%もあって、行き過ぎでした。サムスンも台湾も米国も力を入れている中で、25%くらいがいいところだと思っていましたが、今や10%を切った(2016年に6.8%)。それは下がりすぎです。
――なぜこんな事態に陥ったのでしょうか。
結局、半導体に限らず、世界で勝つにはキラープロダクトが必要です。つまりトヨタのハイブリッドカーのような強い製品。かつて1980年代までは、DRAMが日本のキラープロダクトでしたが、優れたところがなくなった。
そして、90年代以降にシステムLSIが脚光を浴びたのですが、あれはメーカー単独でできるものではなく、ユーザーとの協力で成り立つカスタムのプロダクトです。昔は、テレビ、電卓、時計など強いユーザーが日本にいて、シャープの電卓とのカスタムの半導体や、テレビ用のカスタムの半導体もキラーになったのですが、残念ながら、日本のユーザー側の力が落ちてきてしまった。つまり、携帯とパソコンの時代になった時に日本メーカーは乗り遅れてしまった結果、カスタムのシステムLSIで日本の半導体も乗り遅れたわけです。
でも、そこから10%割れまで落ちたのは経営の努力不足です。だって、東芝のNAND型フラッシュメモリー、ソニーのCMOSイメージセンサー、三菱のパワー半導体など、強い製品はあるでしょう。やればできるのです。でも、こういうキラープロダクトを作るには15年以上はかかります。その間、経営者あるいは銀行は忍耐できるでしょうか。昔はみんなそうした忍耐を持っていたけど、リーマンショック後に消えてしまった気がします。株式市場は半導体に冷たくなり、銀行は半導体にカネを出さなくなってきていると思います。
――銀行の姿勢の変化は大きいですか。
大きいです。エルピーダの失敗、シャープの失敗、そして今回の東芝問題の銀行の態度で明らかです。日本のマネーは、半導体で地道に技術を磨くよりも、楽に儲けようという方向を評価しているように見えます。15年かけて事業を育てようとする気概が薄れている。日本にお金はあるのに、半導体を理解している資金の出し手、銀行がいないのは厳しいです。
エルピーダは2012年に破たんした後、市況が回復して事業が好調になりました。DRAMは、市況が落ちれば必ず回復するし、プレーヤーが減れば市況は安定するので、銀行ももっと忍耐してくれればよかった。いまのDRAM市場は、プレーヤーが減って安定しています。これは、エルピーダが減らされてしまったからなんです。
東芝はキラープロダクトのNAND型フラッシュメモリーがあったから成功した
――東芝の半導体はなぜ成功したのでしょうか。
それはNAND型フラッシュメモリーというキラープロダクトがあったからに他なりません。私が半導体事業のトップをやっている時代に、舛岡富士雄さんが発明して生み出した製品ですが、最初はハードディスクの100倍近い値段で、それをパソコンに積むなんて考えられなかった。舛岡さんの発明の努力も大きいですが、90年代に事業化に努力した人もたくさんいるし、2000年代の齋藤昇三さんや小林清志さんの努力もあります。事業化の努力の中で、次第にコストが下がってハードディスクに追いついてきた。その上に、ハードディスクでは対応できないマーケット、つまりスマートフォンが登場してきました。そうした時の運もあります。発明から芽が出るまで、実に15年かかったわけです。
――東芝は2001年にDRAM撤退を発表して、NAND型フラッシュメモリーに投資を集中したわけですが、切り替えに混乱はありませんでしたか。
東芝がDRAM撤退を発表した時、当時の経営陣ははっきりと「代わりにNANDをやる」と宣言してはいなかったと思います。でも、東芝の社内では着々と開発をしていたし、私自身、次はNANDが来ると信じてました。DRAMが好調な時でもNANDを大事にしていたので、芽が出て育ったんです。もちろん途中のDRAMが厳しくなってきた時代に、NANDの開発にお金がかかるから辞めたいと愚痴る人はいましたけどね。最初からみんなみんな、全員でNANDに諸手を挙げて賛成してまっしぐらに突き進んだとは言えないけど、厳しい中でも細々と忍耐強く続けていたから2000年代に花が開いたんだと思います。
――しかし、1992年、東芝はサムスンにNAND型フラッシュメモリーの技術を供与してしまいますが、その判断は正しかったのでしょうか。
その批判はよく聞くのですが、東芝はNANDを発明しても、すぐに世界で売れたわけではありません。まずは市場を作らなければならなかった。それには、複数の事業者が必要でした。市場には少なくとも2社いなければならないわけですから、私は、このサムスンへの技術供与そのものは間違った判断ではなかったと思います。でも、間違ったのは、その技術を供与した後。サムスンは巨額投資に踏み切ったのに、東芝はまだフラッシュメモリーに巨額の資金を投入するのに躊躇してしまった。それでサムスンにトップのシェアを奪われてしまった。その差は大きかったと思います。
――経営危機の東芝は、大成功したフラッシュメモリー事業を売却します。
東芝OBは、東芝の名前が消えるのは悔しい、耐え難いという人が大半です。ここまで育てた半導体をバーゲンセールのように売るなんて...。そういう怒りもありますが、怒っても仕方がない。それよりも、2兆円以上の価値があるところまで育てた自負心を大切にしたいものです。
私自身は、半導体の技術者として東芝の半導体を経営して、60年以上にわたって半導体に携わってきました。半導体をライフワークにしている立場として、東芝の名前が付かなくても、東芝の発明した東芝の技術として、生き残っていってもらいたいと思います。
でも、正直に言えば、東芝の名前がなくなった半導体の会社を故郷だと思えるかというと、ちょっと悩むのは確かです。複雑な心境ですよ。
経営者の予算主義、内向き姿勢 東芝が経営危機に陥った最大の原因
――東芝はなぜこんな経営危機に陥っているのでしょうか。
もともと東芝は、私が事業部長をやっていた80年代くらいはオープンで外向きな会社だったんですよ。むしろ日立製作所の方が、予算主義で内向きだったかもしれない。私が半導体事業部長だったとき、先日なくなった渡里杉一郎社長には『本社にはお金は落ちていない。お金が欲しければ外へ行け』といわれたものです。渡里さん自身は半導体の素人だったけど、私の半導体のレクを聞いて、すぐさまカシオ社長を訪問して、堂々たるプレゼンをやっていたものです。つまり、トップがどんどん外へ出て営業をしていたのです。
しかし、いつしか、東芝本社ビルにお金が落ちていると思い出した社長が出てきたのではないでしょうか。部下をぎゅうぎゅうと締め上げて、朝から晩まで利益を出せと詰め寄ったところで、東芝ビルにお金は落ちていないんです。「予算は社長との約束である」などと言って、会議ばかりやって部下を締め上げていれば、みんな無理をしてしまうでしょう。そして、数字をごまかしたら覚えがめでたくなるなら、誰も顧客のところに行かなくなってしまうのではないですか。いつの間にか、予算主義になって内向きな姿勢の会社になってしまった。これが経営危機に至った最大の原因ではないでしょうか。
――米原子力子会社ウエスチングハウス(WH)の買収の判断はどうでしょうか。
東芝危機のもう1つ大きな原因が、海外企業との関係です。半導体事業は、モトローラやIBMなど海外企業との交渉や契約を昔からやっていて、成功も失敗もして国際的な事業の経験を積んでいましたが、重電は日本の電力会社との取引が伝統的だったので、米国のWHの買収は、経験値からして無理があったのではないでしょうか。
私も海外の半導体会社との契約でよく失敗して赤字を出した経験はありますが、1兆円もの損失を経営者が気づかないなど考えられません。無理に無理を重ねて虚勢を張っているうちに問題が大きくなってしまったのでしょう。それで皆で育てた半導体事業を売りに出さなければいけなくなるなんて、本当に信じられないミスとしか言いようがなくて、残念です。
(「週刊ダイヤモンド」委嘱記者 村井令二)
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