渡辺和子さん、生前に語った2・26事件 父を殺された瞬間、そして「赦しと和解」

9歳だった1936年2月26日、「2・26事件」で、父が殺害される場面を目の前で目撃した渡辺和子さん。「血の海の中で父は死にました。凄惨な死でございました」…

エッセイ集『置かれた場所で咲きなさい』などのベストセラーがある、渡辺和子さんが12月30日、死去した

陸軍教育総監だった渡辺錠太郎の次女で、4人きょうだいの末っ子だった。9歳だった1936年2月26日、陸軍の青年将校らによるクーデター未遂事件「2・26事件」で、父が殺害される場面を目撃することになる。

渡辺さんは当時のことをエッセイ集『美しい人に』などでも書いているほか、講演などでも折に触れて当時の様子や、加害者の遺族との「和解」や「赦し」について語っていた。ここでは2009年3月8日、筆者が取材した、東京・杉並区郷土博物館での講演の内容を紹介する。

講演する渡辺さん。2009年3月8日撮影

「血の海の中で父は死にました。凄惨な死でございました」

1936年2月26日の午前6時前、9歳だった和子さんは、和室の布団で父と寝ているとき、激しい怒号を聞いた。その直前に斎藤実・内大臣を殺害した青年将校と部下の兵士の一団約30人は、東京・荻窪の自宅前にトラックで乗り付け、門を開けようとした。

兵士たちの怒号を聞きまして、まだ寝ておりました父が、すぐ起きまして、自分の左手にあります小さな襖を開けて、拳銃を取り出しました。覚悟していたのだろうと思います。そして私に「和子はお母様のところへ行きなさい」、これが最後の、私が父から聞いた言葉でございました。逃がしてくれたわけでございます。

私は寝ぼけ眼で、寝室と茶の間の間のふすまを開けて、台所に母の姿があるかと思って探しましたところ、母は兵士たちを中に入れない、防ぐために必死でして、私の方など見向きもしませんでした。仕方なしに父の所にまた戻ってまいりました。

その頃には流れ弾が寝間に打ち込まれておりまして、よく当たらなかったと思うんですけれども、私はそれをかいくぐってまいりましたところ、掻巻(かいまき、綿の入った袖のある寝具)を自分の身体に巻き付けて、ピストルを構えておりました。私が戻ってきたのを見て、非常に困った顔をしまして、目で、座卓の後ろに入るように示してくれました。

私もそこに隠れました。ふすまが開けられて、軽機関銃の銃身が差し込まれて、父の足を狙って撃ち始めた。私の父は陸軍でも射撃の名手だったようでございます。3発ほど撃ったと言われておりますけども、いずれにしても軽機関銃にはかないません。足を集中して撃ったらしく、片足はほとんど骨ばかりでございました。

茶の間の方から青年将校2人(高橋太郎少尉と安田優少尉)と兵士が数人入ってきて、父を射撃いたしまして、最期に銃剣で切りつけて、とどめを刺して帰っていきました。ずっと座卓の影から見ておりまして、引き上げていった後、出てまいりまして、「お父様」って呼んだんですけど、もちろん事切れておりました。あたり一面、父の肉片、骨片が飛び散っておりましたし、寝間の柱にも銃弾の跡が残っておりました。

その後、母がすぐに寝間に参りまして「和子は向こうに行きなさい」と言われてその場を離れました。午後になりまして、包帯でぐるぐる巻きになった父が布団の上に横たわっておりました。額に触ったときにとても冷たかったのを、今でも感触を覚えております。亡くなった姉によりますと、43発、弾を父の身体の中に撃ち込まれていたということでございます。

雪の上を点々と血が残っておりました。寝間の前は庭でして、雪が本当に真っ白に積もっておりましたけども、兵士が帰っていくときの返り血なのか、足か何かを狙って撃ったときの血なのか分かりませんけども、その血の赤さは今でも焼き付いております。

渡辺和子さんが身を隠した座卓。銃弾の跡がある。「堅牢な座卓だったもので貫通しませんでした。していたら私も生きていたか分かりませんが、父に守られて生き延びることが出来ました」と語っていた。

渡辺錠太郎が標的となった理由は諸説ある。渡辺の前任の教育総監だった真崎甚三郎は、天皇親政による国家改造を主張する陸軍「皇道派」の中心的存在で、青年将校の人望が厚かった。皇道派排除を狙った陸軍中枢によって罷免されたが、駐在武官として海外経験が長く、給与の大半を丸善の洋書につぎ込むリベラルな渡辺は、青年将校らの恨みを買っていたという説が有力だ。

和子さんは家族の回想から、駐在武官として海外勤務が長く、第一次世界大戦で疲弊した各国を見ていた錠太郎の「非戦観」が、陸軍内のある勢力から疎まれたと感じている。

駐在武官として長い間、ドイツ、オランダ、中国、満州、そういう所へ参りました。私には直接申しませんでしたけども、母や姉に聞きますと、父は「軍隊は強くなければいけない。でも戦争だけはしてはいけない」ということを絶えず言っていたそうでございます。「戦争は勝っても負けても国を疲弊させる。自分が勝った国、負けた国に駐在武官としてずいぶん長いこと行っていたけども、そこの人たちがどれほど食糧や着るもの、家を壊されて困っているかをつぶさに見てきた。戦争だけはしてはいけない」。それがもしかすると、その当時、ひたすら「戦争をしなければならない」と思っていた方々にとって邪魔な存在になっていたのかも存じません。私の母は、父がよく「俺が邪魔なんだよ」と言っていたと後で話してくれました。つまり父の存在が一部の方々にとっては非常に邪魔だった。

講演後、渡辺さんは2・26事件について、取材にこう語っていた。

「軍の一部が自分たちの意志を遂げるために蜂起し、いらないものを消し、戦争にひた走った。『こういうことは繰り返さない』と思って頂けたのなら、私もお役に立てたのではないでしょうか」

2・26事件で反乱軍の司令部になった山王ホテル

渡辺家は浄土真宗だったが、和子さんの母は、父を失った娘の将来を悲観して、キリスト教系の女子校に入学させる。和子さんは献身的な修道女の姿に感銘を受け、1945年に洗礼を受けた。

「汝の敵を愛せよ」と説くキリスト教の修道女だが、実際には強い抵抗があった。講演では加害者の家族と和解する「赦し」への葛藤も語っていた。

修道院に入りまして20年ぐらいたったころ、関西のあるテレビ局から、2月26日のあたりにテレビに出てほしいと(言われました)。本当にびっくりしたのは、私に何の断りもなく、反乱軍の側の方が呼ばれて来ていらした。会話のあろうはずもなく、気まずい空気が流れておりまして、局の方が気を利かせて頂いて、コーヒーを出してくださった。間を繕うために口元までもってきたけど、どうしても飲めない。

今まで「お父様を殺した人たちを恨んでいますか」と聞かれて、本当にきれいな言葉で「いいえ、あの方たちにはあの方たちの信念がおありになったんでしょう。命令でお動きになった方たちを、お恨みしておりません。憎んでおりません」と言いながら、コーヒー1杯、そういう方を前にして飲めなかった自分。修養が足りないとも思いましたし、同時に、私の中には父の血が流れているんだと感じました。私がどれほど頭でお赦ししていると言っても、私の血が騒ぐ。

2005年7月12日の法要で公開された、処刑された青年将校らの遺書。右端にあるのが、渡辺錠太郎の殺害に加わった安田優少尉の遺書

転機となったのは、1986年7月12日、青年将校らが銃殺刑に処せられてから50年の日の法要に、請われて参列したことだった。

お手紙を河野司さんという方から頂きました。河野壽大尉のお兄様です。それまでも麻布の賢崇寺の法要に出るように言われておりましたが、ずっとお断りしていたんです。本当に迷いました。でも何か父が背中を押してくれ、殺した側も殺された側も法要の中に含まれているとおっしゃっておられましたので、意を決して岡山から一人で参りました。

法要の間も本当につろうございました。終わって帰ろうとしたら澤地久枝さんが来ていらして「シスター、せっかくここまで来たんだから、お墓参りをしたらどうですか」と、お参りしてお線香とお花を供え、立ち上がってお墓から階段を降りて参りましたときに、男の方が2人、涙を流しておられた。そのお2人が、私の父の寝所まで入ってこられた、高橋少尉と安田少尉の弟さんだった。「これで私たちの2・26が終わりました」「私たちがまず、お父様のお墓参りをすべきだったのに、あなたが先に参ってくださった。このことは忘れません。ついてはお父様の墓所を教えて下さい」と言われ、お教えして、その日は終わりました。

その日以来、毎年、お盆とお彼岸と、折あるごとに、多磨墓地の父のお墓は、お掃除が行き届いて、時には植木が刈り込んである。高橋様と安田様とはお手紙を交わす間柄になりました。本当に、父が引き合わせてくれたことだと思いますし、しみじみ思ったんですね。自分だけが被害者のような気持ちを持っておりましたけれど、反乱軍という名前をつけられた方々のご家族の50年、どんなに辛い思いをなさったか、私は一度も考えていなかった。お名前だけ知っていた、河野とか野中というお名前が、肉親のお姿で現れたとき、何か心の中で溶けるものがあったように思います。

復元された玄関の扉。2009年3月8日撮影

2・26事件の現場となった荻窪の自宅は2008年2月に取り壊された。扉や座卓など、事件を物語る品の一部が杉並区に寄贈された。

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