「あなたは、がんです」――もし、ある日突然、そう告げられたら。それも、あなたがまだ子どもや若者だったとしたら……?
“若年性がん”は、30代以下で発症するがんを指すことが多い言葉だ。未来への可能性をたくさん享受できるはずの時期に、判明する重い病。それでも人は前を向いて進んでいけるのだろうか。
そんな疑問に、「いける」と力強い返答をする医師がいる。東京都立小児総合医療センターの松井基浩さんだ。松井さんの言葉には根拠がある。他ならぬ松井さん自身が、高校生時代に悪性リンパ腫を発症した、がんサバイバーなのだ。
松井基浩(まつい もとひろ)氏 プロフィール
1986年大阪府生まれ。高校1年生、16歳のときに悪性リンパ腫を発症。約8カ月間の治療後、高校2年生で復学し、外来治療を続ける。浜松医科大学医学部を経て、現在は東京都立小児総合医療センターに小児腫瘍科医として勤務している。
■高校1年生が、人生で初めて「死」を意識した
――初めて自分のご病気を知ったとき、どう思いましたか?
「ああ、自分はがんなんだな」というのが素直な感想でしたね。
そもそもは、高校1年生の夏に、風邪のような症状が出始めました。しばらくしたら、全く走れなくなり、明らかにおかしいと。病院に行ったら、いろいろな検査をされて、急に親が呼ばれました。親が先に説明を受けて、後から部屋に入ったら、「がんセンターに紹介してくれ」って話しているのが聞こえてきたんです(苦笑)。それで、自分の病気を知りました。
――当時は高校生ということで、がんという病気についても、一定の知識がありますよね。
がんは死とつながっている印象がありました。人生で初めて死を意識した、と言えるかもしれません。その夜は一晩中、泣いて過ごしたように記憶しています。翌日は「(平日なのに)どうして自分だけ学校に行けないんだ」という思いがずっと渦巻いていて、病院に行く途中は、親と一言も話しませんでした。そんな余裕はなかった。
そのまま検査、入院して、治療が始まることに。僕の病気は、手術や放射線治療ではなく、化学療法が基本でした。10月に入院し、1年弱の治療期間を経て、幸いなことに翌年の8月に退院することができました。そこから2年間は、外来治療を続けました。
■「髪が抜けるのも吐くのも当然」小児がん病棟の友情
――落ち込みから立ち直ることができたのは、なぜですか?
一番の理由は友だちです。小児がん病棟って、意外といい環境なんですよ。僕も最初はやっぱり受け入れられなくて、閉じこもってネガティブなことばかり言っていました。でも、その病棟には、がんの子どもしかいないわけです。でも、みんな、本当に楽しそうに遊んでいて。小学生くらいの子どもでも、ちゃんと治療を受けて、自分の病気のこともよく理解している。それなのに、何で高校生の自分がこんなに落ち込んでいるんだろうと思って、前を向き始めました。
だいたい20〜30人くらいだったでしょうか。病棟全体の仲が良くて、入院患者はみんなで戦っている感覚があったんですよね。髪が抜けるのも当然だし、吐くのも当然。みんな、その対処法はわかっていて、教え合いながら、「それでも日常を楽しむ」という文化が確立されていました。
――その当時、将来の目標などはありましたか?
入院するまで、僕は正直全然、何の目標もなかったんです。でも、入院して、小さな子どもたちに助けられました。だから、小児がんの人たちの力になりたいと、医師を目指すことを決めた。専門を小児腫瘍科に決めるときにも、迷いはありませんでした。
――しかし、医学部受験は簡単ではありませんよね?
そうですね。むしろ、退院してからが大変で。学校の授業にも人間関係にも、なかなかついていけないし、体調を考慮すると、周囲と同じように、夜遅くまで勉強することができなかったんです。親は僕の体力のことを考えて、学校の近くに家を借りたり、浪人しなくても受かりそうな大学を探したり、全力でサポートしてくれました。それなのに、僕にはもう、ストレスを発散する相手が親しかおらず、「自分の辛さなんかわかんないだろう」と当たり散らしていました。
特に、一番近くで支えてくれた母はもう限界で、激しくぶつかったこともあります。その分、合格が判明したときには、家族全員で大泣きして喜びましたね。遠くの大学に通わせること、一人暮らしをさせることには、親として心配や葛藤があったと思うんですが、それでも子どもに夢を叶えさせるために、目をつぶって、送り出してくれた。
■患者の夢とエネルギーを集めて、何かを生み出したい
――その後、医学部在学中に若年性がん患者団体『STAND UP!!』を立ち上げます。これは、どのような経緯ですか?
SNSなどで患者さんと交流していると、意外とみんな、1人で闘病していることに気づいたんです。
フリーペーパーは、「いま闘病している人に向けて」がコンセプト。闘病経験のある人たちが、1つ1つの言葉づかいにまで気を配り、手作りしている。
本来、若年性がんの患者さんって、夢があって、すごいエネルギーを持っている。だから、若年性がんの患者さんがたくさん集まったら、1人で闘病している人の孤独感もなくせるんじゃないか。みんなが集まれば、もっと何かできるんじゃないか。そう思って、“がん患者には夢がある”をテーマにしたコミュニティーを、2007年に立ち上げました。
そしたら、テレビ局で記者をしている副代表の鈴木美穂さんが、早々にメッセージをくれて。じゃあフリーペーパーを作ろう、患者団体を作ろう、というように、拡大していきました。最初は10人くらいでしたが、今や500人を超えるほどの規模になっています。
フリーペーパーは、若年性がんの患者さんだけで作っているんです。やっぱり、一番大事にしているコンセプトは、「今、闘病している人に向けて」なので。これを、日本全国のがん診療連携拠点病院を中心に配布しています。患者さんからの反響は大きく、「このフリーペーパーがあるから、勇気づけられて、今の自分があります」と言ってくれる人もいて。基本的にボランティアですから、継続するのはなかなか大変です。でも、こういう声を聞くのはやっぱりうれしいし、この活動を継続している意味があると感じます。
『STAND UP!!』は、全国の若いがん患者たちを1つの輪でつないでいる。
提供:STAND UP!!
■医師として、がんサバイバーとして。自分にしか気づけないことを変えていきたい
――今後、どのような目標がありますか?
一番の目標は、医師としての経験・知識が備わっている状態です。これを、できるだけ早い段階で目指したい。そのうえで、自分の闘病経験から気づけること、自分にしか気づけないことを、1つ1つ、変えていく。それを積み重ねながら、日本の小児がん治療全体を変えるための長期的な取り組みをしたいですね。それから、入院中に慕っていた人の中には、亡くなった人もいます。みんなが夢を追っていて、僕は幸いそれを続けられる。だから、みんなの分もやりたいことをやり続けたい。
――私たちが、若年性がん患者のためにできることはありますか?
がんになっても働きたいし、恋もするし、夢もある。がんだから先がないなんてことはなくて、どんな状況であっても、その人たちは前を向いて進んでいる。だから、過剰に気を使うのではなく、1人の夢を持った人間としてコミュニケーションをとってほしいですね。また、もっと若い人のがんにも目を向けてもらうことで、少しずつ社会が変わっていけばいいと思っています。
執筆:朽木誠一郎
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