強制退去処分の取り消しを司法の場で求めているウォン・ウティナン君の道のりを、ジャーナリスト・安田浩一さんがリポートする。
甲府市に住む高校生、ウィン・ウティナン君(16歳)はこのほど、最高裁への上告を決めた。
不法滞在を問われたタイ人の母親を持つウティナン君が、東京入国管理局から受けた強制退去処分の取り消しを求めた裁判。12月6日の控訴審判決で、東京高裁は一審東京地裁に続いて処分を適法と認め、請求を棄却した。ウティナン君はこれを不服とし、さらに裁判を続ける意思を示したのだ。
控訴審判決が言い渡される直前、ウティナン君は裁判所のロビーで「もうこれで終わりにしたい」と何度も繰り返していた。当然のことだ。このまま日本にいることができるのかといった不安が16歳の高校生を襲う。
裁判のためだけに買った一張羅のスーツの胸ポケットには、勝訴した際に読み上げるコメント原稿が入っていた。徹夜で書き上げたという。「不安」を口にしながら、心のどこかに期待はあったはずだ。
しかし、司法はそれをあっさりと裏切った。
「本件控訴を棄却する」
要するに、日本から「出ていけ」ということだ。裁判所はウティナン君が日本に住み続けることを許さなかった。
判決が言い渡された瞬間、ウティナン君は強張った表情を見せ、うつむいた。そして、まるで逃げるように、速足で法廷を出て行った。そのまま男性トイレの個室に閉じこもり、しばらくの間、誰にも顔を見せなかったのは、気持ちを落ち着かせるための時間を必要としたからだ。
あのとき、ウティナン君を慰めてあげられるのは、タイに帰国した母親のロンサーンさんだけだった。トイレの中からウティナン君は母親にLINE電話をかけた。
「まだ終わったわけじゃないでしょ。大丈夫だから」
電話の向こう側から、失意のウティナン君を励ます優しい声が響いていた。
ウティナン君の母親・ロンサーンさんが「飲食店での仕事を紹介する」と話すブローカーの斡旋で、タイから日本に渡ったのは1995年秋だった。貧しい家族の生活を助けることができると考え、出国費用を借金してまかない、成田空港に降り立った。だが、仕事先が単なる「飲食店」でなかったことは、来日してすぐに配属された店で気がついた。そのころ、同じように多くのタイ人女性が人身取引によって日本に連れてこられ、各地のスナックやバーで働かされていた。
逃げることはできない。そんなことをすればタイの実家に多額の請求書が舞い込むだけだ。結局、ロンサーンさんも意に沿わない仕事を強要され、そのまま滞在期限を過ぎても日本にとどまることとなった。
その後、ブローカーが入管に摘発されたこともあり、山梨県に移住。レストランの皿洗いや農家の手伝いなどをしながら、借金の返済を続けた。そのころに知り合ったタイ人男性との間にウティナン君が生まれた。2000年のことである。
だがしばらくして男性と別れた母親は、ウティナン君を連れて各地を転々とすることとなった。不法滞在の発覚を恐れて逃げ回る生活が続いたのだ。
ウティナン君は幼少期、部屋の中で隠れるようにして過ごした。だから幼稚園にも小学校にも通っていない。母親が仕事に出かけている間はテレビを観て過ごした。日本語はテレビで覚えた。
11歳のとき。「学校に行きたい」とウティナン君はロンサーンさんに訴えた。友だちがほしかった。近所で遊ぶ同世代の子どもたちを、いつもうらやましく思っていた。誰の目も気にすることなく、同じように公園で遊びたかった。
ロンサーンさんは伝手をたどり、居住している甲府市内で在日外国人の人権問題に取り組む市民団体「オアシス」に相談する。ウティナン君は、まず「オアシス」で学習支援を受けた。それまで学校教育と無縁に過ごしてきたウティナン君は二ケタ以上の足し算もできなかった。しかし、「学ぶ」ことに楽しみを得たウティナン君は一気に学習の遅れを取り戻す。周囲も驚くほどに、きわめて短期間で同世代の子どもたちと同等の学力を身につけたのであった。
「オアシス」は地元甲府の教育委員会と交渉し、翌年、ウティナン君は無事に市内の中学校へ編入することができた。友人も増え、学校生活を楽しむウティナン君の姿を見て、母親もこのまま日本で暮らし続けることを望むようになった。2013年、母子は東京入国管理局へ出頭し、在留特別許可の申請をした。
在留特別許可とは、法務大臣の裁量により、たとえ滞在資格はなくとも、生活歴や家族状況などを考慮し、人道的配慮で判断されるものだ。
だが入管当局はこれを認めず、結局、母子に強制退去処分を言い渡したのであった。
そこで、処分の撤回、取り消しを求めて裁判を起こしたのである。そのとき、ウティナン君はすでに中学3年生になっていた。
裁判を起こすに際して、ウティナン君は学校で自分に在留資格がないこと、強制退去処分を受けていることをクラスメイトの前で打ち明けた。
「僕は日本で生まれ育ち、日本語しか話せない。しかしいま、タイに帰れといわれている。タイには行ったこともないし、言葉も話せない。だから裁判で闘いたい。みんなと一緒にこれからも日本で過ごしたい」
ウティナン君の突然の言葉に、泣き出す女子生徒もいたという。しかし、同級生たちはウティナン君を支援することを決めた。「強制退去をしないでほしい」と署名活動に走り回った。同級生の親たち、教師、町内会の人たちも立ちあがった。裁判費用を賄うためにバザーを開き、プロの落語家を呼んでチャリティ落語会を開くなどした。地域ぐるみで母子を支えた。
6月30日。東京地方裁判所は母子の訴えを退けた。
判決では母親の不法滞在が約18年という長期に及ぶこと、さらにその間、不法に就労していたことをもって「入国管理の秩序を著しく乱し」「悪質といわざるを得ない」と、その不法性を強調した。
またウティナン君に関しては「順応性が高い」ことを評価したうえで、「本国(タイ)の生活に適応していくことは十分に可能」だと結論付け、母親と一緒に日本から出て行くよう促した。
すでに日本社会に溶け込み、地域に根付いて生活している実態を無視するかのような判決だった。
判決が読み上げられたとき、原告席でその意味を母親に伝えたのはウティナン君だった。もちろん難しい裁判用語を訳すことはできないし、そもそもタイ語もほとんど話すことができないのだ。「負けたよ」とだけ、ウティナン君は母親の耳元でささやいた。そして、そのときは二人でうつむいた。
判決後、母子と支援者らは話し合いを重ねた。支援継続を確認しつつ、しかし客観的に状況を検討するなか、ウティナン君のみが控訴し、ロンサーンさんはタイに帰国することで今後の方針を固めた。
「私が帰国することでウティナンが助かるのであれば、そうしたい」
ロンサーンさんはそう申し出たのだ。
実は、地裁判決では母子の請求を棄却する一方、次のようにも指摘していた。
仮に、今後、原告母が本国に送還された後も原告母に代わって原告子の監護養育を担う監護者となり得る者が現れてそのような支援の態勢が築かれ、原告子自身も本国に帰国する原告母と離れても日本での生活を続けることを希望するなどの状況の変化が生じた場合(中略)原告子に対する在留特別許可の許否につき改めて再検討が行われる余地があり得るものと考えられるところである
わかりにくい表現であるが、つまり、保護者に代わる者がウティナン君の面倒を見ることできれば、彼だけは日本に滞在することができるかもしれない、といった意味である。
ロンサーンさんは、そこに一縷の望みを託した。せめて息子だけは思い望んだ人生をおくってほしいと願ったのだ。
ウティナン君の姿が見えなくなるだけで大騒ぎするロンサーンさんにとっては苦渋の選択だった。逃げ続け、隠れ続け、互いをかばいあいながら、ずっと二人で生きてきたのだ。
9月15日、成田空港。搭乗時間間際まで、母子はずっと手を握り合っていた。時間を惜しむように、ゆっくり歩く。時々、見つめあう。
出国ゲートの手前で二人は立ち止まった。ウティナン君は両手でロンサーンさんを抱きしめた。じっと抱き合ったまま動かない。そして意を決したようにロンサーンさんはウティナン君の肩に乗せた手をほどき、出国ゲートの向こう側に足を進めた。何度も振り返る。互いに手を振る。
ロンサーンさんの姿が消えても、ウティナン君はしばらくの間、そこに立ち続けた。唇をかみしめ、微動だにしなかった。必死に悲しみと闘っているようにも見えた。
「一緒に行けばよかったのかな」
ウティナン君はそう漏らした。
離れて暮らすことは、母子が悩みぬいた末の決断だった。16歳の少年にとって、それはどれほどに重たく、そして苦痛を伴ったものであっただろうか。疑念も後悔もあったに違いない。
ロンサーンさんのみが帰国することを決めた際、ウティナン君は「誰であっても、いつかは親と離れて生きていかなければならない。僕の場合、それが少し早くなっただけ」と私に話していた。
だが、成田空港での彼は、ただの子どもだった。母親にしがみついて離れない、幼子のようだった。
帰り際、空港の中を歩きながら、ウティナン君は何度も周囲をきょろきょろと見まわした。
「お母さん、日本語も不自由だし、おっちょこちょいだし、もしかしたら飛行機に乗り損ねて、そこらへんで僕のことを探し回ってるんじゃないかなあって、心配になるんです」
彼は雑踏の中に母親の姿を探し求めた。何度も何度も後ろを振り返った。
東京高裁は、それでもウティナン君の在留を認めなかった。いったい、母親は何のために帰国したのか。
「そもそも、ウティナン君の在留を認めないのは、在留特別許可のガイドラインに反している。ふざけた判決ですよ」
そう憤るのは、母子の代理人を務めてきた児玉晃一弁護士だ。
ガイドラインとは、非正規滞在者(不法滞在、オーバーステイ、難民申請者)を対象に、在留許可を与えるために法務省が定めた基準。日本での定着性、家族状況、生活状況、人道的配慮などが総合的に判断される。ウティナン君の場合、日本への定着性、自ら入管に出頭した点などを考えても、ガイドラインが定めた「積極要素」を十分に満たしている。
「ルール違反というのであれば、ガイドラインを無視した裁判所こそ問われるべき」(児玉弁護士)
高裁判決では、ガイドラインに関して次のように触れている。
たとえガイドラインに示された実例の積極要素又は消極要素に一定の共通性が見いだせるとしても、それがそのまま一義的な判断基準となるものではなく、法務大臣等がその判断に際して、ガイドラインに拘束されることはないというべきである
要するに法務大臣の判断がすべてに優先されるというわけだが、では何のためのガイドラインなのか。
さらにいえば、日本も批准している「児童の権利に関する条約」(子どもの権利条約)も無視されている。同条約は子どもを権利の主体としてとらえ、どのような状況下であっても、生きる権利、守られる権利、育つ権利、社会に参加する権利、そして親と一緒に暮らす権利があるのだと規定しているのだ。
「僕が日本にいてはいけないのでしょうか。日本にいては迷惑なのでしょうか」
控訴審でウティナン君はそう訴えた。
その答えを司法は返していない。
だからこそウティナン君は、最高裁でもそれを問い続けたいと決意したのである。
安田浩一(やすだ・こういち) 1964年生まれ。週刊誌記者などを経てフリーに。主に事件や労働問題を取材し『外国人研修生殺人事件』などの著書がある。2012年、『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(講談社)で第34回講談社ノンフィクション賞受賞。2015年には「外国人『隷属』労働者」で第46回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞。近著に『ヘイトスピーチ 「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書)、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)など。