2016年は太平洋戦争開戦から75年、日本国憲法公布から70年と、戦後日本にとって節目の年だ。1年を振り返れば、7月には参院選の結果、憲法改正が現実味を増し、8月には天皇陛下が譲位の希望を示されるなど、戦後の枠組みが大きく変化する予兆を感じさせる年となった。
戦後生まれが総人口の8割を超え、私たちがこれまで経験したことのない大きな時代のうねりを前に、歴史からなにが学べるのだろうか。近著『戦争まで』で日本が太平洋戦争へと至る過程を論じた歴史家の加藤陽子・東京大学教授は、「戦前と比べ、安価な中等教育の機会を等しく付与した戦後社会は立派なもの」と評価する一方、TPP協定を例に、「国際舞台において、日本は賢明な狡猾さも身につけてよいのでは」と語る。その真意とは…。
加藤陽子・東京大学教授
■「TPP」と「満州事変」を比較してみると…
――太平洋戦争の開戦から75年、あの時代と比べて日本は変わりましたか。
もちろん大きく変わったと思います。というのも、人口の過半を占める女性への公的な高等教育の道が開かれるようになり、普通選挙権をはじめとする女性の政治的権利も拡大された。政治に関われる国民の数が倍になったのは画期的なこと。また、少数のエリートを育成していればよかった高等教育制度も変わりました。
終戦工作に従事し、のちに東大総長となった南原繁は、1947年2月の時点で「従来の制度によれば、国民大衆のこの方面における教育の門はきわめて狭く、大衆を支配するための少数者の養成に当てられた感がある。軍国主義や官僚主義が容易にそれによって注入された」のだ、と反省の弁を述べていました。
――過去の選択の失敗から、今の私たちは何を学べば良いでしょうか。
過去の例から学べるのは、こういうことです。私たちは日々、判断するのが極めて難しい問題に対し、答えを出せと日々迫られています。そのような悩ましい時、ちょっと立ち止まって、「この問題の本質は、正しいかたちで選択肢に反映され、私の目の前に示されているかどうか、少し冷静に考えてみよう」といった態度が身につくのではないでしょうか。
TPP(環太平洋パートナーシップ)協定を例に説明しましょう。アメリカ大統領選で勝利したトランプ氏は、大統領就任当日に離脱すると言っています。にもかかわらず、日本は大統領選の直後にTPP承認案を衆院本会議で可決しました。
11月21日、トランプ氏はTPP離脱について言及した
アメリカの方向が判明した後でも、なぜ日本は急ぐのでしょう。2015年の11月、政府が発表した「総合的なTPP関連政策大綱」では、こう謳っていました。「世界のGDPの約4割(3100兆円)という、かつてない規模の経済圏をカバーした経済連携。人口8億人という巨大市場が創出される」と。自由で公正な一つの経済圏が構成されるのだから、その巨大市場に日本が打って出ない手はないと。
この話法は、あたかも日本の進出を待ちうける「空白地帯」が世界に用意されているかのようですね。しかし、医療、保険、農業などの国内産業に対して、この協定がどう影響するのか具体的な絵は見えてきません。
政府が私たちに示す選択肢が、「世界のGDP4割、人口8億の沃野に打ってでるか、それとも国内に引きこもるか」だとしても、その見せかけの選択肢の文句に惑わされることなく、問題の本質を正確に表示した選択肢を自ら頭に描き、ニュースを聞く必要があります。
協定が発効するには、「6カ国以上で、かつGDPの合計が全体の85%以上になる国が批准」(アジア太平洋資料センター事務局長内田聖子氏)する必要がありますから、日米両国が批准しなければTPPは発効しません。
この事実を前提として、なぜ日本政府が国会承認を急ぐのか、それを問うような態度を是非とも歴史から身につけたいと思います。「日米両国の批准がなければ発効しない協定が、アメリカの不参加にもかかわらず、承認を急がされるのは何故なのか」という形に、問いの形を変えていけばよいのです。
TPP協定の正文は、英・仏・スペイン語で、30章からなる膨大なものでした。協定文の日本語訳の誤訳問題も起こりましたが、関係各省庁では、関連分野について、必死で検討がなされてきたはずです。
その省内のプロの官僚たちが、TPPを議論・検討する過程で出てきた問題点を、国会の論戦を通じてでもよいから国民の前に正直に示すべきだ、というのが歴史から学べる教訓の2つ目です。司(つかさ)司(つかさ)で検討尽くされたはずの、本当にテクニカルな協定の問題点を、国民の前に明らかにした上で、国会論議を行っていただきたい。
日本の霞ヶ関の官僚は公正さや能力という点で、世界で最も安価で信頼できる「ブレーントラスト」の塊だと思います。官僚レベルで析出された問題点を、今度は政治家が、法や政治の言葉に書き換えてゆく、そのようなフィードバックがあってよいはずです。
――官僚制の良いところを活かして欲しいと。
霞ヶ関批判は楽ですし、人々から人気がありますね。しかし、日本のような公平な試験任用によって支えられている官僚制度を持つ国も、あまりないのでは。ですので、今回のTPP協定に登場する附属書の留保の内容や「投資家と国家間の紛争処理(ISDS)」の問題点など、省庁を挙げた議論のとりまとめを、国民に前に示していただきたい。
30章からなる協定全文の日本語訳が揃ったのも遅かった。交渉過程が秘密だったのですから、合意に至った後は国内に向けて早急に公開しなければ、国会での議論など間に合いません。1940年9月にたった20日間の協議で締結されてしまった日独伊三国軍事同盟も、枢密院の審査にかけられたのは、協定本文だけで、附属文書などは、審査の対象になっていなかった。拙速は、歴史に照らして何一つよいことはありません。
――日本が国際情勢の中で、リアルタイムでどういう状況に置かれているのか、今も昔も国民には見えにくい。
まさにそこです。TPP交渉と満州事変後の国際連盟での議論を比べたりすれば、お怒りになる方もでそうですが、1932年11月から、国際連盟での満州問題論議を任された日本全権団のことを思い出してみましょう。
日本の外務本省が、全権に与えていた指示は、実は穏やかなものでした。日本の既得権益を守る条約関係を継承する、日本軍を満州国に置けるよう認めさせるよう努めよ、と。ただ、連盟が日本を侵略国呼ばわりした場合、あるいは、日本と満州国が結んだ「日満議定書」の運用を拘束するような決議を行なった場合のみ、極力争えと指示していました。リットン報告書が出たとたん、排撃すべしと声高に叫んだ朝野の雰囲気と外務省の方針は、本当は異なっていた。
しかし、そのような外務本省の方針は、国民の前には隠されていたのです。むろん、外交交渉には秘密がつきものです。しかし、国の意図するところを、秘密にすべきところは守りつつ、方向性を国民に正確に伝えることはできたはずでした。
ですから、先に述べたような問いを立てつつ、状況の変化を待つ。そうせずに、「日本が参加することで、アメリカにも参加を促す」のは無謀です。
――日独伊三国同盟が20日間で作られたという話を考えると、TPPもアメリカが脱退すると宣言している状況で急ぐのはどうか…と思ってしまいます。
歴史は一回性ですので、容易な比較をしてはなりませんが、待つことの重要性を示唆するにはよいかもしれません。バトル・オブ・ブリテンの結果など、やはり待てばよかったと言えましょう。三国同盟締結があと一月遅れていれば…と思います。
詮方ない話ですが、1941年12月8日の真珠湾攻撃についても、この日は、まさにドイツ軍が初めてソ連軍の反撃によってモスクワ近郊から後退した日でした。独ソ戦は既に1941年6月に開始されていたのですから、ソ連軍の反攻を見きわめて対応して欲しかった。
イギリス軍の空軍司令所
――ちょっと狡猾な気がしますね(笑)
そうですね。ただ、賢明な狡猾さというものも歴史的にはあってよいと思います。
たしかに、気象条件や石油の備蓄量から、アメリカへの奇襲攻撃が可能な下限は決まっていたでしょう。ただ、ではなぜ奇襲攻撃で開戦しなければならないかと詰めて考えれば、それは、軍需物資をまさに敵国アメリカに依存する日本にとって、対英米戦とは短期決戦以外になかったからです。
ならばもし、緒戦の圧勝が不可能な場合はどうするかという、次の手を柔軟に考えてもよかったのではないか。その中には、できるだけ戦争に参加しないように待つ、という選択肢があってもよいはずですね。日露戦争の実戦に参加し、のちに批評家に転じた水野広徳は、1929年の著作で、「戦争が機械化し、工業化し、経済力化したる現代においては、軍需原料の大部分を外国に仰ぐが如き他力本願の国防は…戦争国家として致命的弱点」を持つのだから、日本は戦争する資格のない国、と喝破していました。
■天皇陛下の譲位への対応は「国会」で
――8月には天皇陛下が自ら、譲位を望むお気持ちをビデオメッセージで出されました。加藤さんはどう感じましたか。
8月8日、天皇陛下はビデオメッセージでお気持ちを表明した
私は1960年生まれなので、終戦の玉音放送は歴史上の世界なのですが、固唾を飲んで見守るという表現が実感として初めてわかりました。
昨年あたりまで、安倍内閣が成立させた安全保障関連法案がらみで、日本国憲法第二章「戦争の放棄」「平和主義」にばかり目が向いていたのですが、このメッセージによって、新たに気づかされたことがありました。圧倒的な武力で日本を打倒したアメリカ占領当局が目指したのは、「象徴天皇制」と「平和主義」、2つの柱だったということです。
憲法第9条の意義については、憲法制定当時から現代に至るまで、それこそ入念に議論がなされ続けてきましたが、象徴天皇制、特に象徴とは何かという問いについては、迂闊なことに戦後の一時期を除いては考えられてこなかったといえる。昭和天皇と今上天皇の存在それ自体に、国民は安心しきっていたというのが正直なところでしょうか。
しかし、「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」天皇の地位については、平和な戦後を長らく生きてきた国民の側からも、改めて考えなければならない、と気づかされました。
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』や『戦争まで』でも論じましたが、戦争の究極の目的は、相手国の基本的な社会秩序(=憲法)に手を突っ込んで書き換えることにあります。戦前期の国体(=天皇制)を、アメリカ側は見事に書き換えた。
しかし、日本国憲法第二章の戦争放棄に関する条文に比べ、第一章の天皇に関する条文については、1946年時点の宮内省、枢密院、政府内の守旧派の影響力も強く、アメリカ側の思惑は貫徹しなかったのではないか。日本側の思惑に主導され、憲法第2条には「国会の議決した皇室典範の定めるところ」と定めますが、実際のところ法律である皇室典範に何が書かれたかというところまでは、掴めていなかったのではないか。戦後の精神に従って、新皇室典範が定められたかといえば、そうではない部分もあった。
現在の皇室典範は、厳密に言えば、「"国会"の議決した皇室典範」ではないのです。新憲法が、大日本帝国憲法の修正手続きで出来たように、皇室典範も、貴族院・衆議院からなる"帝国議会"という旧来の制度下に成立したのです。ただ、当時の帝国議会議員は真面目であって、「現在の議院は国会ではないのだから、新憲法が施行された後に国会が出来てから皇室典範を議論してはどうか」と述べる議員もいました。
また、皇室典範が議論された帝国議会の議論で興味深いのは、新しい憲法には、女性が天皇になってはいけないと書いてないということで、意外にも、女性天皇について容認する考えが委員会レベルでは多かったことです。1946年の第91回帝国議会の皇室典範案の審議では、「新憲法の精神からも、ただ女性であるということで皇位継承資格がないとする理由はなく、女性も皇位継承資格を有するようにすべき」といった議論もあった。当時は、憲法の規定に従おうという姿勢が顕著に見られたのです。
――終戦直後の議会は風通しが良かった。
憲法に書いてないということは、女性天皇は禁じられていない、との原則的な議論でした。今回の譲位への対応も、戦後の議会における空間を思い出す必要がありそうですね。今度こそ「"国会"の議決した皇室典範」を、改正法として、国権の最高機関である国会が定めればよいのです。
――終戦直後の議論が、天皇陛下の譲位へのヒントになりそうです。
政府の「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」(2016年11月30日)
そうです。帝国議会も国会も議事録は完全に残されておりますし、デジタルで誰でもアクセスできます。内閣側も、国民の意見を代表しているとは言いがたい有識者を呼ぶことなどせず、まずは国会で皇室典範改正案の議論をすべきです。
■揺らぐ「戦後70年」の価値観
――参院選では改憲の現実味が増し、都知事選では敗北した鳥越俊太郎氏が「日本のリベラルは現実に負けている」と指摘しました。アメリカ大統領選では、右翼的な発言を続けたドナルド・トランプ氏が勝利しました。こうした現状を加藤さんはどう感じますか。
おそらく、戦後70年間続いてきた、欧米の普遍主義的な価値観の優位性が崩れたのだと思います。欧米は自らを利する自由貿易主義を掲げ、武力を用いてでも、地域主義的な経済圏を打破してきた訳ですが、彼らの行動に理があったのは、そこに、敵対者をも利する普遍主義的な価値観や自らを律する政治的公正さがあったからです。しかし、現在のイギリスやアメリカは、それらをかなぐり捨て、自国の利益を固守するような振る舞いを始めています。
ただ、ここで地に落ちたのは、欧米流の普遍主義です。戦前期であれば指弾された、不満足国家としてのロシアや中国が、今後、自らが主導する秩序や論理を、なんらかの普遍主義的な思想で包んで世界に提示してこないとも限りません、そこは見所だと思います。
第二次世界大戦後というのは、フランスの経済学者ピケティがいうように、連合国であれ枢軸国であれ、極めて珍しいレベルの格差のない社会が生まれた時代でした。2000万の人間が犠牲となった大戦の後ゆえに誕生した、教育や賃金という側面で格差の少ない社会が、大戦後70年で終わりを告げたということです。
今後は、戦争という、最も残酷な平等創出装置を経ることなく、いかに格差の少ない社会にしていくか、その工夫が世界の人々の双肩にかかってきているのだと思います。
――日本でも7月の参院選で憲法改正が現実味を増し、戦後70年の価値観が揺らいできています。そもそも、日本が敗戦と新憲法によって得たものは何でしょうか。
日本国憲法は、連合国に敗北し、国家の基本的な秩序(=国体)を書き換えられた日本が、再び世界へ出ていくための、いわば「搭乗券」でした。1952年の独立回復前に、日本が旧植民地を含めたアジア地域との貿易を再開し、飢えずに生きていくには、日本国憲法という搭乗券が必要でした。
日本国憲法原本「上諭」「御名御璽」と大臣の副署
さらに戦後の価値で重要だったのは、憲法11条の「基本的人権の享有」と13条の「個人の尊重」でしょう。戦前との比較で特に肝に銘じたいのは、13条「すべて国民は、個人として尊重される」の、「個人」の部分です。この「個人として」という意味は、たとえ国家が「戦争をやる」と意思決定をしたとしても、それに従わず、国家に対峙する自由が認められているということです。
戦前期の日本を顧みますと、英米に比し、武力で劣っていただけでなく、総力戦時代に国民の総力を真に結集しうる議会制度や民主的な制度を日本は欠いていました。個人として尊重されることの重さを尊重したい理由は、そこにあります。
――自民党の憲法改正草案では、13条の「個人として尊重される」の「個人」の部分が、単に「人」となっています。加藤さんは「戦争は、憲法を書き換えること」と述べましたが、それを変えようということは太平洋戦争の結果を否定することになるのでは…。
論理必然的にはそうなります。朝日新聞による2015年春の世論調査では、日本がなぜ戦争をしたのか「自ら追及し解明する努力を十分にしてきたと思うか」という問いに、「いまだ不十分だ」と答えた人が65%もいました(2015年4月18日付朝刊)。憲法を変えるのであれば、戦争の結果できた憲法ですから、その戦争自体について再定義しなければならなくなると思います。
――「戦争の再定義」というのは。
1937年の日中戦争から45年の敗戦までのあの戦争の位置付けを、もう一度考え直すということです。今でも、「日本は英・米・蘭から経済封鎖を受けたからやむにやまれず開戦を決意した」という説明がなされることがありますが、防衛戦争だったとの説明の仕方は、実のところ太平洋戦争中の1943年に、東條英機内閣の外相に就任した重光葵が意図的に採用したものでした。
太平洋戦争の再定義自体が、1943年〜44年の戦争中になされ始めたことが興味深いのです。もともとは英米側が1941年8月に戦争目的や戦後世界を語った声明に「大西洋憲章」がありました。それに匹敵するような論理を日本側も準備するため、またイタリアの降伏を目の当たりにして、戦後になされるかもしれない戦争裁判において、いかに説得力ある申し開きをするのか、そのための合理化が必要だったと思います。
事実、重光の主導で日本は1943年11月、欧米の植民地であったアジア諸国の指導者を集め、大東亜会議を開きました。「被支配民族の解放という英米の戦争目的は口先だけだが、日本側は確かに多くの国を独立させたではないか」と胸を張りました。しかし言うまでもなく、日本が太平洋戦争を開始したのは、東南アジアの植民地を独立させるためではなく、後付けの論理でした。
大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、チャンドラ・ボース
防衛戦争としての太平洋戦争イメージは、実のところ戦時中の再定義に起源を持つものでした。
これと似た理解として、2015年の「安倍談話」の、世界がブロック化したために日本側は戦争に追い込まれていったとの理解があります。この問題点は、『戦争まで』の第1章で論じておきましたので、ご興味がある方はご覧ください。
太平洋戦争は、戦争の渦中において既に再定義の試みが開始されていた戦争でした。そのことを噛み締め、今の私たちこそが、いま一度、あの戦争を再定義してみるべきでしょう。
加藤陽子(かとう・ようこ)1960年、埼玉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。1989年、東京大学大学院博士課程修了。山梨大学助教授、スタンフォード大学フーバー研究所訪問研究員などを経て現職。専攻は日本近現代史。2010年に『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』で小林秀雄賞受賞。著書に『徴兵制と近代日本』『戦争の日本近現代史』『戦争の論理』『戦争を読む』『満州事変から日中戦争へ』『昭和天皇と戦争の世紀』など多数。近著に『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』。
『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』は朝日出版社から発売中。
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