フリーアナウンサーの長谷川豊氏が書いた「自業自得の人工透析患者は殺せ」とするブログに批判が殺到し、ニュース番組などを降板する騒ぎになった。
長谷川氏は「言葉が過ぎた」として謝罪したが、ハフィントンポストの対談などで、改めて一部の患者に対して、医療が同じように提供されるべきではないと主張した。
過剰な自己責任論や「本音」に名を借りた暴言に、私たちはどう向き合うべきだろうか。ハフィントンポストでは、老いや病、障害のある人の生存権や社会との関わりについて研究し、相模原事件と長谷川氏の共通性についても指摘した立命館大生存学研究センターの立岩真也教授に話を聞いた。
■立命館大学大学院・立岩真也教授
――まずは、長谷川豊氏の今回の主張についてどう思われますか。
自分で努力して透析を受けずにすんでいる人がいることは否定しなくてよいでしょう。けっこうなことです。けれど他方で、自分の意思や努力と関係なく、病気になることは多くの人が知っている通りです。周囲の医師から聞いた話として、伝聞でなんの裏付けもない情報を振りまくのはいけない。以上、まずは言うまでもないことです。
――「医療費が増えると皆が共倒れになる。皆で考えねばならない」というのが長谷川氏の主張の論拠でした。
倫理学には「救命ボート問題」というものがあります。船が転覆して、救命ボートがあるが全員は乗れない、さらにどういう順番で救うか?という思考実験です。例えば、もう長く生きた人には遠慮してもらう、子供から救うべきだという考え方があります。より「自業自得度」が高い人から除外するというのもあり得るかもしれません。
しかしどのような基準、理由を採用するにせよ、それは誰かを助けると共倒れになる、それを避けたいのであれは誰かを外すしかないという極限状態の場合です。
実際にはそうではない。全員に対して医療サービスを提供して、その皆が生きられる時まで生きても、社会は困りません。
――医療を全員に提供しても実際には社会は困らない。
医療にお金がかかっているのは事実ですが、何を買っているか、何を使っているかを考えてみればよい。使うものは人と人以外のものの2種類で、これで全てです。
ものは、例えば人工透析の機械です。鉄やアルミニウムでできています。それで長生きできるのだから、すくなくとも電子レンジなんかよりは優先されてよいでしょう。そして少なくとも電子レンジに使っている分も含めてもの・材料は今のところ足りなくはない。
そして人は余っています。日本の失業率は1桁ということになっていますが、それはハローワークに行って仕事を探しているが仕事がない人の割合にすぎません。定年で退職になった人、働ける環境があれば働いてもよいと思っている主婦、などなどの人たちを含めれば何割という割合になります。
人は足りている。むしろ足りて余っている状態をうまく制御できないでこの社会は困っていると考えます。どのように困っているのか、余っているのに足りないように見えてしまうのはなぜか、これ以上の説明は略しますが、足りないという事実認識は間違っている。このことは動かない。
――仮に「自己責任」が病気を招いたとして、殺されないにしても負担が人より増えたりする社会政策というのはあってよいのでしょうか?
例えば交通事故について、家から外に出なければ事故に遭わない、とは言えるでしょう。自力で防ぐ方法があって、その方法を採らなかったからといってすべて自分で引き受けよとは、「自己責任、自己責任」と、うるさいこの社会においても、なっていないんです。
その上で、自分で引き受けねばならないとされる場合もあるとして、次に、誰がどのようにそれを決めるかです。だいたい病気ひとつとっても多くの要因が絡んでいて、それを区分けしていくなど容易なことではない。そして、生活の仕方の多様性を認めるべきだということもある。自制や反省を求めるために制裁を課す、社会は負担しないという場面は狭く限定した方がいいんです。
好きなものを飲み食いしてもたまたま健康でいられたら、その人はなんのお咎めもないわけですよね。他方で、人工透析が必要になったら、透析の費用を社会は出すべきでない、つまりそれは「死ね」ということてす。実際死んでしまいます。非常に重い大きな制裁です。そんなことが認められてよいのかと、ほんのわずかでも考えてみればよいのです。
その長谷川という人はスポーツジムの「ライザップ」の社長の話を引いてきて、「努力しだいで誰もが決して病気にならない」などといった話をしている。言うまでもなく、端的に間違っており、何も考えていないことがよくわかります。そういう人(たち)の乱暴で粗雑な話になどつきあっていられないのですが、まあ仕方がない。言えばわかる人なのか、それも疑問ですが、言うべきは言っておきます。そんな人(たち)に人の生き死に関わる話をしてほしくないと心底思います。
――「ブログに書いたのは医師の『本音』である」と話していました。「本音」が「建前」を述べることよりも価値があるとみなされる風潮もある気がします。
本音を語りたいというのであれば、まずはどうぞです。ただ、言論を公に発信した人は、反論に対してきちんと答えるべきです。間違っていたらそれを認めるべきです。最低限のルールです。元の発言もですが、さらにその後の対応がどうしようもありません。
――長谷川さんの最初の「殺せ」という主張は、相模原事件に通じるとの指摘が多くありました。私たちはどう向き合えばよいでしょうか。
「殺せ」と煽る言葉に対しては、もっと「圧」を持って怒る必要があると思っています。その人(相模原事件の容疑者)は、事件の前にも「障害者は不幸で死んだ方がいい」とか、「殺せば社会は助かる」というようなことを周りに話していたといいます。
まず「なんでお前が他人の幸不幸がわかるんだよ、言えるんだよ」ということです。次が、すでに言ったことと同じで、人を殺さないとやっていけないような社会では全くない、ということです。
職場での失礼な発言、場をわきまえない言動を注意する、ではなくて、正面から怒りと理屈をもって対すること、まずはそういうことをするべきだったんじゃないか。今でも誰に対してもするべきだと思います。
相模原の事件後の報道も、「障害者にもこんなよいところがあります」みたいな報じ方になってしまうところがありました。分からないではないのですが。
――どのような点が良くなかったでしょうか
「こんなにいい人だった」と、良いところ探しをして報じたりすることで、それが殺されてはならない理由みたいになってしまう。それは逆に「生きる価値」というものを狭く規定してしまう恐れがあります。
よいところがあろうが悪いところがあろうが、誰にもどんな人であろうと生きる、殺されない。ちゃんと暮らせるようにすればよいし、それはまったく可能です。
「足りない」という危機感が過剰に煽られるから、「悪いところのない僕たちに、しわ寄せがきて大変」という言論になる。過剰な危機感を脱していく方法を、我々は考えて伝えていかないといけないと思います。それは私自身の課題でもあります。
――小泉進次郎氏らによる提言で出てきた「健康ゴールド免許」についてはどうでしょうか。長谷川氏の言論との類似性を指摘する声もありますが、賛同する人も多くいるようです。
ペナルティではなく負担額を安くしてもらえるというアイディアなので、賛成する人も出てくるのでしょう。ただ、他を同じとすれば、保険料は増えることになります。そして、健康診断を職場で簡単に受けられないような非正規労働者や無職の人がより大きな割合の多い額を払うことになるでしょう。考えが浅いというか…。
提言ってたいがいもっともなことも当然書いてはある。しかしそこの中に、一見よさそうで、受けそうだが、すこし考えてみるとうまくない、使えないことが出てくる。そして全体として「自助」の方に行かねばならないという主張がなされるんですが、なんでその方角を向かねばならないのか。
――「痛みを伴う改革が必要」と取材に答えていました。
まず誰が痛むのかということです。どうしても痛みを感じる必要があるのなら、「皆が痛みを分け合って」という話はありえますし、場合によってはさっきの救命ボートの話みたいに誰に痛んでもらうのかを選ばざるをえないこともあるかもしれません。
しかし、繰り返しますが、痛みを引き受ける必要はないのです。そして、痛みは、今だって偏ったところにかかっています。生活がきびしい人は健康状態も悪くなりがちで、健康を維持したり回復させたりする時間やお金の余裕も少ない。
思慮のない「改革」はその痛みを拡大させてしまいます。「足りない」という危機感に惑わされることはないんです。落ち着いて考える、考えが足りない論には反論する。そしてひどい暴言にはきちんと対峙する、無視する、馬鹿にする。これらを皆いっしょにやってかまわない。とにかく水準の低すぎる言論が横行しているのにはうんざりです。
■プロフィール
立岩真也(たていわ・しんや)
1960年、新潟・佐渡島生まれ。専攻は社会学。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。千葉大学、信州大学医療技術短期大学部を経て、現在は立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。単著として『私的所有論』(勁草書房、1997、第2版生活書院、2013)、『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000)、『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004)、『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院、2004)、『希望について』(青土社、2006)、『良い死』(筑摩書房、2008)、『唯の生』(筑摩書房、2009)、『人間の条件――そんなものない』(Kyoto Books)、『造反有理――精神医療現代史へ』(青土社、2013)、『自閉症連続体の時代』(みすず書房、2014)、『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(青土社、2015)。近著に『On Private Property, English Version』 (Kyoto Books、2016)。12月に杉田俊介との共著で『相模原障碍者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(青土社)刊行予定。