10月27日に100歳で亡くなられた三笠宮さまは戦前・戦中を陸軍軍人として過ごし、戦後は古代オリエント史の歴史学者として活躍した。時には旧軍への批判や「紀元節の復活」の動きに反対の論陣を張るなど、踏み込んだ発言でも話題になった。大正・昭和・平成と、激動の一世紀を歩んだ三笠宮さまの足跡を振り返る。
■陸軍参謀として中国へ 軍規の乱れを戒める講話も
三笠宮さまは1915(大正4)年12月2日に大正天皇の四男として誕生。学習院初・中等科から陸軍士官学校、陸軍大学校に進んだ。
大正天皇の皇后、貞明皇后が秩父宮邸(当時)を訪問し、ご家族で記念撮影。後列左から秩父宮さま、高松宮さま、三笠宮さま=1939年10月
43年1月からは中国への派遣軍の参謀として南京に赴任。お印にちなんだ「若杉参謀」の名を用いた。現地で軍紀の乱れや中国人の虐殺などを見聞し、現地の将校らを戒める激烈な講話をした。当時としては、命がけともいえる行動だった。
この講話は「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられており、94年に国立国会図書館で発見された。
三笠宮さまは、日中戦争の解決しない理由を「日本陸軍軍人の『内省』『自粛』の欠如と断ずる」と厳しく軍部を批判、中国内の抗日活動について「抗日ならしめた責任は日本が負わなければならない」と指摘している。
また、南京に樹立した国民政府についても、「元来、国民政府は日本が真に中国のためを思い、民衆を救い、統一国家を完成するために作ったというより、諸外国から非難された日本の侵略主義を掩蔽(えんぺい)せんがための、一時的思いつきによる小刀細工の観が深い」としている。
さらに、日中戦争について「陛下の御考え又は御命令で戦闘が生じたのでなく、現地軍が戦闘を始めてから陛下に後始末を押しつけ奉ったとも言うべきもの」と、軍部の独走を指摘している。
(朝日新聞1994年7月6日夕刊)
著書『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの』に付された自叙伝「わが思い出の記」の中でも、「一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった」「聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」と、戦時中の苦しい心境を吐露している。
上海に入る日本軍の車両(1935年)
三笠宮さまは終戦時には陸軍少佐だった。ご結婚70年に寄せた文書では「空襲で邸(やしき)が全焼したため、経済的な労苦はほかの宮家と比べてはるかに大きかった」と当時を偲んでいる。
■「戦争放棄」を強く支持。しかし… 新憲法への揺れる思い
1946年(昭和21年)国鉄横須賀線にて
戦後間もない1946年6月、新憲法案を採決した枢密院の本会議で、三笠宮さまは新憲法案の戦争放棄を積極的に支持。日本の非武装中立を主張した。その一方で、「本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法という印象を受ける」「種々の情勢上反対する訳にも行かないが、さりとて賛成することは良心が許さぬ」と賛否矛盾した態度をとった。こうした矛盾からは、当時置かれた困難な立場と率直な思いがうかがえる。以下に発言の一部を紹介する。
日本はたとえ受動的にせよ他国間の戦争はもちろん局地紛争にでも巻き込まれては日本の再建ができぬばかりでなく、今度こそ日本人の滅亡に陥る危険性がある。兵器の進歩を予察する時一層しかりである。故に日本は絶対に厳正なる局外中立を堅持せねばならぬ。
第一は本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法か、一歩譲ってもごく少数の日本人の決めた憲法という印象を受けること。
■戦後はオリエント研究者に 歴史学者として「紀元節」復活に反対も
カナダ訪問中の三笠宮ご夫妻
戦後は東京大学文学部の研究生として「古代オリエント史」を専攻。トルコなどで遺跡調査に携わった後、青山学院大学などで古代オリエント史の講師として教壇に立った。
戦後廃止された「紀元節」(神武天皇即位の日とされる2月11日)が、1950年代に「建国記念日」として復活させようという動きが高まると、歴史学上の確証がないことから歴史学者として反対の論陣を張った。デイリー新潮によると、三笠宮さまは「紀元節についての私の信念(「文藝春秋」59年1月号)」の中で、以下のように記している。
昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている
(南京虐殺は“人数に関係はありません”のお立場「三笠宮殿下」 | デイリー新潮より 2015/12/3)
保守派からは「赤い宮さま」と揶揄されたこともあったが、激動の時代を生きた皇族として、また歴史学者として時に踏み込んだ見解を示した。
■激動の時代を共に歩んだ妃・百合子さまへの思い
こうした三笠宮さまを支えたのが、妃の百合子さまだった。太平洋戦争開戦前夜の41年10月、三笠宮さまは高木正得子爵の次女だった百合子さまと結婚。ただ当時は日中戦争の真っ只中。朝日新聞によると、引き出物のボンボニエール(お菓子入れの小箱)は竹製の質素なものだったという。
三笠宮さま(左)と同妃百合子さま
三笠宮さまは結婚70年を迎えた2011年10月、宮内記者会の求めに応じて所感を寄せた文書で、百合子さまへの感謝の思いをつづっている。
顧みれば,70年間,陰になり日なたになり私を助けてくれたのは,何といっても妻百合子であった。結婚のとき,私は陸軍大学校の学生だったので,宿題のためにしばしば徹夜したし,間もなく戦争となり,厳しい生活が始まった。
陸大の研究部部員を務めた後,私は支那派遣軍総司令部の参謀として南京に赴任した。妻は華族の出身であるが,皇族の生活は一段と厳しく,忙しいから,留守を守っていた妻の労苦は並々ならぬものであったに違いない。
私は帰国後,大本営の参謀などを務めているうちに,敗戦となった。三笠宮家は新しく創設されたために経済的な基盤がなかったばかりでなく,空襲で邸やしきが全焼したため,経済的な労苦はほかの宮家と比べてはるかに大きかった。それを支えてくれたのも妻であった。
やがて私は東大文学部で勉強することになったが,いろいろな公務もあり,授業に出られないときには友人のノートを借りてきて,夜のうちに妻に写してもらった。それは教室で筆記するより大変だったろう。
その後,半世紀,私は諸大学の講師を務めながらほかの公務にも出席していたので,妻は親王妃としての公務を果たしながら,5人の子供の世話や教育を一手に引き受けてくれ,しかもそれを見事に果たしてくれたのである。
今静かに過去の70年を振り返ってみるとき,百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである。
結婚70年を迎えた三笠宮ご夫妻
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