(左)韓国の孤児からフランスの大臣となったフレール・ペルラン氏(右上)ベトナムで養子縁組を待つ孤児院のベビーたち(c)Michiko Kurita(右下)娘を迎えた時のベトナム現地での養子縁組式(c)Michiko Kurita
ベルギーの首都ブリュッセル在住のフリーライター・栗田路子さんは、母国ではないこの地で、ベトナムから迎えた養子とともに暮らしてきた。養子も、外国人も、異なる民族もともに暮らすベルギーで感じたマイノリティに優しい社会とは? 自身の子育て経験と国際養子縁組の現状を、栗田路子さんがレポートする。
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9月中旬に行われた民進党代表選を前に、代表に就任した蓮舫氏の「二重国籍疑惑」が日本で取りざたされた。
日本での報道を見ながら、ベルギーに暮らす筆者は、「疑惑」とはなんて大げさな、凶悪犯罪でもあるまいと感じた。重国籍者は日本国内にも5~60万人はいると推定されている。欧米では「国籍を選択させることは人権に反する」との考えが主流で重国籍を認める国の方が多い。
強烈なバッシングの背景に見え隠れするのは、国籍だけなのか。それとも、血や出自にこだわる排他主義なのか。ひやりと冷たい戦慄を覚えた。日本社会も、もう少し皆が一様でない方が生きやすいのではないだろうか——。母国ではないベルギーの地で、ベトナムから迎えた養子とともに暮らしてきた筆者が感じた共生のかたちをまとめてみた。
■養子も、外国人も、異民族も――異なることが当たり前の社会
筆者はヨーロッパの小国ベルギーに暮らす。娘はベトナムから迎えた子だ。1つ年上の息子も同じくベトナムから迎えたが、生後3カ月で迎えてすぐに、重篤な心身障害を持つことがわかった。
娘は、小さい時から、本人にも周りの人々にも「養子であること」をオープンにして育てた。幼稚園以来、20人ほどの小さなクラスには、必ずといってよいほど、養子や里親に育てられている子がいた。外見上、はっきりそれとわかる他人種もいるが、白人の子どもなら見ただけではわかりにくい。我が家の場合は逆に、私が東洋人だから、息子や娘と私を見比べただけでは、誰も養子縁組とは思いもしなかった。
娘を迎えたときのベトナム現地での養子縁組式 (c)Michiko Kurita
懐かしいエピソードがある。娘が幼い頃のこと。たまたま一緒に遊び始めた当時4、5歳の少女が、娘と夫の顔を見比べて、「あんたのお父さん、養子?」と尋ねたのだ。思わず吹き出してしまったが、東洋人顔の娘と遊ぶ少女の青い目には、白人である夫の姿が、「養子」と映ったようだ。そして、次の瞬間には、もうそんなことにはお構いなく遊びの世界に戻っていった。
幼児でも、異人種や異なる言語を話す外国人と交わることは、ここベルギーではごく日常的なことだ。気がつくと、娘や息子の回りには、養子でなくても、世界中の国々から来た、様々な人種・民族・宗教・言語を背景とする子が混じり合っている。みんなバラバラなので、誰も仲間外れになりにくい。
ベルギーは、養子を迎えた私に、実子と同じ育児休業や子育ての手当を惜しみなく与え、知人でなくても、「私たちの社会の子」としてコミュニティーごと大歓迎してくれた。日本国籍を保持したままの母親が、好き好んでベトナムから連れてきた重度障害児の息子は、破産寸前のこの国の社会保障に頼らなければ生きることもできない。それなのに、福祉事務所や施設の人々は、「私たちはこんな子のためにこそ働いている。ベトナムにいたら、もしかしたら死んでしまったかもしれない。いいお母さんに巡り合えてよかったね」と愛おしそうに息子に頬ずりした。
日本の友人知人の多くは、養子と聞いて、まず驚嘆し、そして敬服してくれた。だが、ここベルギーでは養子縁組は不妊治療の選択肢のひとつで、生殖医療を駆使して自分の血やDNAに固執するよりも、生まれている命をいただいて大事な家族をつくりましょうと考える。実子がいても、養子を迎えたい人は多く、今では待機期間は5~6年にも及ぶ。
ベルギーの社会にも、血のつながりに固執する人がいないといえば嘘になる。しかし、そうした言動は公の場ではきっぱりと却下される。あるテレビ討論会で、養親に向かって「実子と養子が同時に溺れていたら、どちらを先に助けますか?」と尋ねた人がいた。養親は迷わず「助けられる命を助けるに決まっているでしょう。先に実子を助けるとでも答えてほしかったのですか」と即答した。質問者は了見の狭さを見透かされたかのように、赤くなって下を向いた。
また、フランスで文化・通信大臣の要職にあるフルール・ペルラン氏(社会党)は、1973年韓国ソウルに生まれ、生後6カ月でフランス人家庭に迎えられた養女だ。2012年に入閣して以来、歴代内閣で大臣を務めてきた。海外で成功する自国出身者をもてはやす韓国メディアに対して、自分は韓国出身ではあるが、中身はフランス人ときっぱり。「素晴らしいフランス人家庭に育てられて、とても幸せな幼少期を過ごし、私はいつもフランス人だと思ってきた」と語る。
フランスのフルール・ペルラン文化・通信大臣
■みんなバラバラ、誰もがマイノリティ
ヨーロッパの中心にある小国ベルギーには、かねてから欧州各地の人々が行き来し、今日では、EU主要機関とNATOなどの国際機関がひしめいて、世界中の人々が隣同士で生活している。
子供たちにとっては、回りの子がバラバラなのは、国籍や人種だけの問題ではない。離婚率でも世界有数とされるベルギーでは、自分の出生上の両親と同じ屋根の下に住む子供たちはマイノリティといってもいいほどだ。
離婚したり別居したりした親が、子連れ再婚したり、再離婚して、再々婚したりして形成される家族は、「つくり直し家族」(famille recomposée)と呼ばれ、同じ家庭の中に、母違い・父違いの同じ年頃の兄弟姉妹がいたりする。そもそも、ベルギーは夫婦別姓で、同じ家族の中でも、親も子供たちの姓はまちまちだから、同じ姓であることが家族の一体感をもたらすとは誰も思ってもいない。
さらに、同性結婚がオランダに次いで早く(2003年)に合法化されたベルギーでは、パパパパ家庭やママママ家庭の子供たちもいる。医療倫理上適切と判断されれば、生殖医療は平等に医療保険内で実施されるので、ドナーや代母によって生まれた子供たちもいて、離婚や未婚以外のシングルマザーやシングルファザーもありうる。
タイから女の子の養子を迎えたベルギーの夫婦(c)Melissa Rancourt
■国際養子縁組のきっかけは戦争孤児だった
そもそも、不遇な子供の里親や養子縁組は、同じ国内の地域社会や親族の中で行われてきた。世界中どこにも、差別されて哀れな継子の物語は枚挙にいとまがないことを見ると、必ずしもハッピーな話ばかりでなかったことは容易に想像がつく。童話『みにくいアヒルの子』は外見で差別されたし、継母や義理の姉と暮らした『シンデレラ』の少女も、『レ・ミゼラブル』のコゼットも、継子としていじめられた。
養子縁組に対する考えは、第二次世界大戦により多くの戦争孤児が発生し、その惨状や不憫な様子が映像などでも伝えられると、国境を越えた市民レベルの支援として大きく様変わりしていった。ちょうどその頃、欧米人の中に芽生え始めた人道援助や基本的人権といった意識に強く鳴り響いたらしい。
こうしてまず、日本やドイツから、その後は朝鮮半島などから、キリスト教団体や様々な人道援助団体などの手を通して、多くの戦争孤児がアメリカ人家庭に養子として迎えられたのだ。1960 年代終わりまでに、日本や朝鮮半島を中心に、アメリカの家庭に受け入れられた子供の数は5万人を超えたという。70年以降は、中国、韓国、ロシア、ウクライナを始めとして、ベトナムや東南アジア諸国、南米、インド、アフリカ諸国などから、毎年25万人以上の子供が欧米に迎えられている(国連やCNNなどによる)。
2000年代に入ってからも、歌手のマドンナや女優アンジェリーナ・ジョリーなどの著名人が続けて養子縁組をしたことなども手伝って、国際養子縁組は盛んに続いたが、その数は近年、横ばいまたは減少傾向にあるという。
ハーグ国際私法会議によれば、それでも毎年アメリカで2万件、カナダ、フランス、ドイツ、スペイン、イタリアなどでそれぞれ毎年2000~5000件の養子縁組が成立。小国のデンマーク(人口600万人弱)やベルギー(人口1100万人)でも1000人前後が毎年養子として迎えられ、ほとんどの国では半分以上が国際養子縁組だ。
■日本の特別養子縁組は、毎年300〜400件
最近になって、日本でも子供の貧困などの問題が取りざたされるようになったが、厚生労働省によれば今日、児童養護施設などで3万人以上の子供が生活している。日本では、従来、家業の継続や相続などを目的とした成人養子縁組が中心で戦後は減少。87年になって、子供の福祉を目的とする特別養子縁組が成立したが、成立数は毎年300~400件程度だという。
一方、今もなお、日本の子供たちがアメリカなど海外の家庭に養子として渡っているとの報告もある。筆者自身も、日本の子供を海外へ養子縁組している組織と何度も連絡をとったことがあるし、日本人の養子を迎えて本国に戻った外国人夫婦を何人も知っている。
国際的な養子縁組についての根拠法は、国連の子どもの権利条約(89年採択、90年発効、日本は94年発効)およびハーグ国際養子条約(ハーグ条約、93年採択、95年発効)だ。ハーグ国際養子条約は、養子となる子供が愛にあふれた恒久的な家庭を得られるように、子供にとっての最善の利益のために法的枠組みを用意することを求めるもので、75カ国が締結。先進7カ国の中で、これを批准していないのは日本だけだ。
■思春期の娘は「私はベルギー人」と答えた
娘は難しい思春期を迎えた。自分の出自や血筋のことに思い悩んでいるのかもしれない。ベルギー人の旧友がふと言った。「この頃、彼女、パパに似てきたね」と。血では説明のしようがない。日本人を母に、日本語も一生懸命学んだ娘に、日本は国籍を認めず、私の戸籍の上段に、外国人としてカタカナ表記されているだけだ。何度となく、ベトナムに行ってみようかと誘っても、「私はベルギー人」と答える。
国籍とは何だろう。人種とは何だろう。家族とは何だろう。血も出自もみんなバラバラなら、「この顔ぶれで助け合って生きていこうよ」「よりよくしていこうよ」との自発的な連帯感や絆しか頼るものはない。そんな家族が集まって、学校や地域社会ができ、国ができる。誰もがマイノリティだから、数で強引に押し切るようなことができない。違いを尊重し、時間をかけて、話し合って、妥協しあって、共生していこうとする社会は誰にとっても居心地がいい。
(栗田路子)
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