奈良市の平城宮跡で出土した木簡に、ペルシャ人の役人とみられる「破斯清通(はしのきよみち)」という名前が記されていたことが10月5日、奈良文化財研究所(奈文研)の調査でわかった。
奈文研によると、国内の出土品でペルシャ人を示す文字が確認されたのは初めて。「破斯(はし)」は「ペルシャ(現在のイラン付近)」を意味する。外国人が来日し、国際色豊かだった平城京の姿を知る史料になりそうだ。
ハフポスト日本版では奈文研・史料研究室の渡辺晃宏・室長に詳しい話を聞いた。
――この木簡は、いつごろ発見されたのでしょうか?
1966年8月に、平城宮跡・東南隅の築地塀の「雨落ち溝」で出土しました。1万3000点の木簡が出土しましたが、「破斯」の文字があった木簡はそのうちの1枚です。長さ268mm、幅32mm、厚さは最も厚みがある箇所で3mmです。腐食している箇所がありますが、四角い木の板だと思っていただければと。
木簡の出土地(1966年)
――木簡にはどんな内容が記されていましたか?
書かれていたのは「大学寮解 申宿直官人事 員外大属破斯清通 天平神護元年」の文字です。「天平神護元年」は西暦765年で、聖武天皇の娘だった孝謙天皇が、再び皇位に就いて「称徳天皇」となっていた時代ですね。
記されていた内容は、役人を養成する「大学寮」の宿直勤務の記録です。「大属(だいさかん)」は役職名で、四等事務官にあたります。「員外」は特別職の意。おそらくこのペルシャ人の学問的知識を活かすため、特別枠で任命されたのだと思います。ただ、宿直の勤務にも従事していたということは、「員外」であっても他の役人と同じように勤務していたと思われます。
ペルシャ人とみられる名前が書かれていた木簡(奈良文化財研究所提供)
――765年ということは、ペルシャ地域がイスラーム勢力(アッバース朝)の支配下にあった時期ですね。「シルクロード」を通り、日本にやってきたということでしょうか。
そうなりますね。この時代の人はペルシャから中国を経由し、それから日本にやってきたのではないでしょうか。
――平安時代に編纂された歴史書『続日本紀』には、天平8年(736年)に「唐の人三人、波斯一人」が聖武天皇に謁見したという記録がありますが、それと関連はありますか?
遣唐使が連れ帰った波斯人のことですね。この人物は、『続日本紀』には李密翳(り・みつえい)という中国名で記されていますが、この記録以後の足取りは不明でした。
李が聖武天皇に謁見したのと、破斯清通の名が木簡に記された時代は30年しか離れていない。破斯清通が、李密翳やその関係者である可能性は十分考えられると思います。
――奈良時代のペルシャ人について知るきっかけになりそうな、ロマンあふれる発見ですね。
わずか2文字の発見ですが、これこそ「偶然のしからしむるところ」ですね。聖武天皇は、唐(中国)と仏教の影響を受けて、国際色豊かな国を目指していました。娘の孝謙天皇(称徳天皇)も西大寺の建立を発願するなど、親の時代同様に国際色豊かな文化を継続させようとしていたのではないでしょうか。その一端を知るきっかけになればと思います。
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