「オリンピックが人生を破壊する」再開発で住居を奪われた貧しい人たちの叫び

「これは現代のオリンピックの一部分でしかありません」

リオのオリンピック村近くのファヴェーラ、ビラ・アウトドローモの最後に残った住宅の一つは、8月2日に取り壊された。

■ オリンピックの名のもとに取り壊される住宅たち

7年前、ビラ・アウトドローモは、かつてその地名にちなんで名付けられたモーターレースのサーキット「ジャカレパグア・サーキット」(現在はリオオリンピックのメイン会場「オリンピックパーク」)の隣にある湖「ジャカレパグア・ラグーン」沿いにある静かな漁村にすぎなかった。リオデジャネイロの風景に点在する他の数百のファヴェーラ(スラム街)と同様に、ビラ・アウトドローモは、長い間自治体から認定されず、海外の急成長しているもっと裕福な都市では標準となっている必要最小限度の公共サービスさえも備えていない地区が多かった。しかしそこに居住する600以上の世帯にとって、ビラ・アウトドローモはまさしく故郷だった。

「ここは天国でした」と、アウトドローモに20年間以上住んできた、ルイス・クラウディオ・シルバさんは言った。「私は残りの人生の間、ずっとここに住み続けるつもりです」

2009年、国際オリンピック委員会(IOC)は、リオデジャネイロを開催都市に指名した。指名当時にアウトドローモに住んでいた世帯のうち、今残っているのはわずか20世帯ほどだ。2009年、国際オリンピック委員会(IOC)は、リオデジャネイロを開催都市に指名した。ビラ・アウトドローモのコミュニティーは、オリンピックパークから1マイルも離れていない距離にあり、リオ市がオリンピック会場と繋がる新しい連絡道路を建設できるように取り壊された。

ブラジルと世界中のメディアの支局が、何年間もこの苦境に立たされた家族を報じてきた。メディアはリオ市関係者がした約束について、読者に伝えていた。オリンピック開催中もアウトドローモの住人はこの場所に住むことができ、むしろオリンピック効果で地域が改善される、というものだった。その後メディアは、政治家がどのようにその約束を破ったかについて報じた。つまり、どのようにしてリオ市が、アウトドローモの住人の大半を、強制的に立ち退かせたのか、どのようにして警察が、立ち退きに抗議した人々を取り締まったか、どのようにしてブルドーザーが、シルバさんのような人々の家を跡形もなく破壊したのか、といったことだ。3月、シルバさんが妻のために建てた家は瓦礫になった。

リオオリンピックが閉会すれば、次のようなことが起こるだろう。報道陣が去り、国際メディアは、ビラ・アウトドローモの人々について忘れる。人々の立ち退きは、華やかなオリンピックの歴史の中の些細なこととして扱われることになる。何しろ世間では、次のオリンピック開催都市の東京で、一体どんな問題が生じているか検討することに話題が移っているからだ。

東京でも、2020年の東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場の近隣にある、1964年の東京オリンピックに合わせて建設された都営団地の霞ケ丘アパートが取り壊される。かつては最大で 300世帯あった居住者も、2012年に取り壊しの計画が住民たちに伝えられ、移転が始まった。

1964年の東京オリンピックに合わせて建設された都営団地の霞ケ丘アパート

ビラ・アウトドローモの取り壊しは、決してここだけの問題ではない。スイスに拠点を置く居住権・立ち退き問題センター(COHRE)からの報告によると、1988年のソウルオリンピックから2008年の北京オリンピックの間の6回のオリンピックで、200万人以上が強制退去、あるいは他の方法で立ち退きさせられた。その半数以上が、北京オリンピックの時だ。地域活動家と人権グループによる(オリンピック開催前の)推定によると、リオオリンピックでは、 7万〜9万人以上が、どこかに立ち退きすることになる。

それぞれの都市は、開催された自治体周辺で起きた立ち退き件数の具体的な数字に反論しているが、その多くは詳細に明らかになっている。都市の貧困層の立ち退きは、近代オリンピックで顕著な特徴で、偶発的なことではなく、確実に起きることだ。

過去20年間で、オリンピックは単なるスポーツイベントであるだけなく、都市再開発の目的達成手段となった。都市は、再開発で長期的な遺産として残ることになるインフラやその他のプロジェクトに、数10億ドルではないにしても、数億ドルを注入することになる。リオや他の都市でも、政治家は、あらゆる人々のために、その都市を全体的に改善させる方法として、このような投資を推進してきた。

実際は、オリンピックの主な受益者となるのは、こうしたプロジェクトを担当することになる地元と世界の開発業者であり、主催都市の裕福な住人だ。貧しい人々は損をしている。

「これはオリンピックの副産物ではありません」と、チューリッヒ大学都市地理学の、クリストファー・ガフニー上席研究員は述べた。ガフニー上席研究員は、2009年から2014年まで、リオがオリンピック開催準備中、リオで客員教授と研究員を務めていた。それ以来、このオリンピックを声高に非難している。

「これはオリンピックの産物なのです」と、ガフニー氏は言う。

■ 想定外だったアトランタ招致、再開発の口実に使われる

20年経って、アメリカで一番最後に夏のオリンピックを開催した都市でさえも、このダメージは今も根深く残っている。アトランタオリンピックだ。

テックウッド・ホームズ歴史地区に建てられた建物は、アトランタオリンピックの前は、かつて巨大な集合住宅だったが、今やまさに残骸だ。

アトランタの繁華街から北へ1マイル行ったところに、不格好なバラックづくりのアパートが空室で建っている。その白い格子づくりの窓は今も夏の日差しを浴びて輝いているが、その戸口は深緑色に塗られたベニヤ板で覆われている。木の大枝と伸びすぎた草の茂みが、裏庭のフェンスにまとわり付いていて、かつては物干し用ロープを取り付けていた木製の柱は、年月が経って傾いている。

この建物が、アメリカ合衆国国家歴史登録財に登録されているという公的な証明はない。しかし1935年11月の極寒の朝、 フランクリン・ルーズベルト大統領がこの場所を、アメリカで初めての連邦政府による助成金支給の公営住宅「テックウッド・ホームズ」として開所する時、 5万人が集まり演説を聞いていた。

このアパート建築物は、今ではテックウッド・ホームズ歴史地区として知られているが、かつてそ22ユニットあった建物のうち、現在残っているのは1ユニットだけだ。アトランタ市は、1996年のオリンピック開催地建設のため、テックウッドと近くのクラーク・ハウエル公団住宅の大半を取り壊した。居住権・立ち退き問題センターによると、この取り壊しで、 4000人が立ち退かざるを得なかった。

アトランタがオリンピック開催準備のために、取り壊し再開発した公営共同住宅はこれだけではない。居住権・立ち退き問題センターの報告書によると、アトランタはオリンピック開催が近づくと、公営住宅の 6000人の住人を引越しさせた後、オリンピック閉会後にこの地区の高級化が進み、さらに 2万4000人が引越しせざるを得なくなった。

アトランタ招致に最も熱心だったオリンピック招致委員でさえ、実際に開催地として選ばれるとは思っていなかった。近代オリンピック100周年にあたる記念大会だから、通常ならオリンピックを生んだ国の首都で、1896年に最初の近代大会を主催した都市アテネが指名されると思われていた。しかし、IOCは1990年9月、夏期オリンピック開催地をアトランタと発表した。これは今もオリンピック史上最もショッキングな発表だったと言われている。

「オリンピックは、破壊を覆い隠したのです」

――ジョージア工科大学のラリー・キーティング教授

アトランタ市は急遽オリンピック開催準備にとりかかった。テックウッド・ホームズとクラーク・ハウエル公団住宅は、この不幸な開催準備過程に巻き込まれた。アトランタの準備計画は、繁華街近くの広大な新しいオリンピック公園と、ジョージア工科大学の近くに選手村の建設を計画した。選手村は大会終了後、ジョージア工科大学の学生用住居に転用されることになっていた。テックウッドとクラーク・ハウエルは、不動産的価値が最も高い場所に立地していた。北側に新しいオリンピック広場、南側にジョージア工科大学、西側にコカコーラの世界本社があり、テックウッドとクラーク・ハウエルの高い貧困と犯罪率を考えれば、同地域を再開発する機は熟していた。

この2つの共同住宅は、長い間開発業者の標的となってきたが、テックウッドとクラーク・ハウエルを取り壊そうとする以前の計画は、行政の腰が重たかったか、あるいは住人の転居が難しかったため頓挫していた。しかしオリンピック開催地に決定したあとは、世界数億人の選手、観光客、外国の要人にアトランタをお披露目する欲求が強まり、共同住宅の取り壊しは円滑に進み始めた。

「オリンピックは、破壊を覆い隠したのです」と、ジョージア工科大学のラリー・キーティング教授は述べた。キーティング教授はアトランタの低所得住宅に住む人々にオリンピックが及ぼした影響を調査してきた。「オリンピックがあったから、政治的な力を行使して取り壊しを始めることができたと思う」と、キーティング教授は言う。

2つの共同住宅の住人は懐疑的だった。オリンピック開催地決定の数カ月後に、市の住宅局職員が良い知らせを持って、賃借人組合の会合に姿を現し始めても信用できなかった。アトランタ市はそれまで長い間この地域を無視してきたからだ。

オリンピックが近付いてくるにつれて、市の住宅局職員は突然住民に配慮するようになった。再開発計画で、職員は住宅を大幅に修繕すると住人に伝えていた。このような約束があったから、テックウッドとクラーク・ハウエルの住人は開発業者や住宅局職員と共に、提案書作成に取り組むようになった。そしてこの提案書は、居住者、開発業者、市の住宅局職員、そして必要な資金を提供する連邦の住宅供給公社すべてが納得できるように作成された。

最初の提案書は、テックウッドとクラーク・ハウエルを完全に取り壊すのではなく、破損している建物を修繕することだけが書かれていた。その後の草案では、全てではないものの、公営住宅ユニットの一部を建て替え、敷地内を最大限に再開発する提案となった。しかしこの段階でも、住人の多くが留まることは認められていた。

この計画策定は、ほぼ5年間にわたって延々と続いた。その間に、アトランタ市の行政と住宅供給局のトップが入れ替わった。新しい連邦法は、市が取り壊した公営住宅のユニットに対しては、他の場所で同等数のユニットで補充すべきであるとする、以前の前提条件を無効にした。そして最終的な再開発計画は、2つの共同住宅地区をほぼすべて取り壊すことになった。

1995年3月に発表されたこの計画は、4000万ドルの連邦政府の助成金を用いて、テックウッドとクラーク・ハウエルにある 1100軒以上の住居を取り壊し、代わりに新たに900ユニットの中・低得者向けが混在した、共同アパートに建て替えるものだった。この新たなアパートのうちの40パーセント、すなわち合計360ユニットが公営住宅になる。40%(360ユニット)は、市場価格で賃貸されることになった。残りの180ユニットは、「アフォーダブルハウジング」、つまり中・低所得のアトランタ市民に連邦税額控除で補助される賃貸住宅になる予定だった。アメリカ合衆国住宅都市開発省(HUD)は、アトランタ市の計画を承認するのに1カ月も要しなかった。

取り壊しが開始される前に、共同住宅はほぼ空家になった。ジョージア州立大学のハーヴェイ・ニューマン教授によると、テックウッド取り壊しに関する2002年の調査で、アトランタがオリンピック招致の指名を獲得する前年の1989年には、テックウッド・ホームズの入居率は90%以上だったが、5年間の計画立案過程の間に、住人たちは撤退し始めた。最終的には、どちらにしても、引っ越さなければならなくなることを危惧していたからだ。1993年4月までには、2つの共同住宅での入居率は、50%未満まで落ち込んだ。10月には、空室率が77%になっていた。

今もなお、アトランタ市住宅局の職員はこの推移について、人々がより良い機会を求めて退去を選択した事例だと説明している。また、取り壊し計画に賛成したのは、テックウッドとクラーク・ハウエルの住人たち自身だと述べている。しかしこの地域の住人たちが撤退したのは、事情が異なっていた。この地域は、オリンピック開催前は、比較的安定した人口を保っていた。キーティング教授の研究によれば、1990年には、テックウッドの住人は、平均8年間そこに居住し、その世帯のおよそ3分の1が、11年以上居住していた。

自分の意志で退去した人がいたのは間違いない。しかし中には、計画が複雑に二転三転し、長期間におよんだことで疲弊し、オリンピック閉会後も居住できるのか確信できなくなった人も間違いなくいる。

ニューマン教授によると、アトランタ市の住宅供給局は、共同住宅からの退去を支援する一方で、「ささいな賃貸契約違反」であっても住人を退去させられるように契約条件を改正した。また、住宅供給局の職員は、住民調査の結果を巧妙に操作し、テックウッドとクラーク・ハウエルの住人の大半が、あたかも退出を望んでいるかのように見せかけたと、マサチューセッツ工科大学のローレンス・ヴェイル教授は語る。ヴェイル教授は、アトランタオリンピック閉会後の住宅供給の存続について研究していた。例えば、ある住民調査によると、住民のうち51%がオリンピック閉会後に、他の場所への転居を希望していた。住宅供給局の職員は、この結果をことさら強調し、人々が移転を望んだ何よりの証拠であると、自らの取り壊しを正当化していた。しかし、調査に答えた多くの住人は、移らなければならないだろう、と思ったにすぎない、とヴェイル教授は言う。

ヴェイル教授とキーティング教授の双方とも、住人の退去で、その地域の問題が深刻化したことを認める。空家の増加は犯罪の増加につながり、ここから脱出したいという住民たちの思いが加速した。これにより、この地域がさらに政治的な標的になりやすくなった。

「再開発が軌道に乗ったのです」と、キーティング教授は述べた。

オリンピック開催までに取り壊しは完了し、「テックウッド・ホームズ歴史地区」と一つだけ表示された建物一棟のみが残された。アメリカ国家歴史登録財に登録されたことで、かろうじてその棟だけは残った。

1935年に、フランクリン・ルーズベルト大統領が、テックウッド・ホームズの開所演説をした。翌年同施設が開所し、これが最初のアメリカの連邦政府助成の公営住宅となった。

テックウッドの代わりに建った建物は、センテニアル・プレイス・アパートメンツとして知られおり、テックウッドよりも見た目は良い。テックウッドの建設前には碁盤の目になっていた通りが修復されたことで、その地域はより歩きやすく、魅力的になった。

表面上は、市の住宅供給局の職員がその地域を再生させて、オリンピック前に荒廃した地区から人々を脱出させる目標を達成したかのように見える。

どういった人々を除いて?

この一連の再開発が地域の住民に恩恵を与えているという触れ込みにも関わらず、オリンピック閉会後、そのほとんどが戻って来ることはなかった。アトランタがオリンピック開催権を獲得した1990年には、テックウッドとクラーク・ハウエルには、900世帯の家族が居住していた。キーティング教授の調査によると、センテニアル・プレイス・アパートメンツが満室になった2000年までには、900世帯のうち新しい共同住宅の供給を受け入れたのはわずか78世帯だけだった。

連邦政府でも状況は同じだった。1990年代前半、連邦議会は国営共同住宅の再生または再開発をめざす「HOPE VI」と呼ばれる新たな計画を開始した。アメリカ合衆国住宅都市開発省(HUC)開発長官が1998年に報告したように、この計画の目標は、家屋を再開発するためではなく、人々のために住環境の改善に取り組むことだった。

開発長官は、アトランタ市はテックウッドとクラーク・ハウエルについて「この地域の再活性化は目覚ましいものだった」と言った。「しかし、そこに居住していた人たちの生活が向上したかというと、それほど眼を見張るものはなかった」と認めている。

3年後、HUDがアトランタのオリンピック跡地を再調査した時、オリンピックを開催しなくても同様の資金援助を受けた他の都市と比べても、アトランタ市の公営住宅の再開発は芳しくなかったことが明らかになっている。センテニアル・プレイスの新しい家屋の60%は、公営住宅として分類されなかった。この割合は、HUDが調査したアメリカ全土の跡地建て替えと比較して、平均より倍以上の割合だった。比較可能なアメリカ国内の15の跡地開発のうち、5つの地域では、元の住民の半数以上が戻って来ていた。アトランタでは、かろうじて9%が戻っただけだ。これはキーティング教授が調査で明らかにした数値をわずかに上回っただけだが、HUDの調査では、他のどの都市の数値よりもはるかに低かった。

「この地域の再活性化は目覚ましいものだった。しかし、そこに居住していた人たちの生活が向上したかというと、それほど眼を見張るものはなかった」

――アメリカ合衆国住宅都市開発省の報告書

アトランタ市は転居させた住民に、他の公営共同住宅の提供か、新居への支払いを支援する家賃援助バウチャーの提供のいずれかを約束した。

他の調査を見ると、アトランタ市がその約束を十分に果たしたかどうかは疑問だ。ジョージア州立大学のニューマン教授によると、1990年にテックウッドとクラーク・ハウエルに住んでいた人々のうち、「半分以上がいかなる支援も得られず、移転先を確保することもできないまま転居または立ち退きを強要された」という。

しかし、元からのテックウッド住民の中には、この変化を歓迎する人もいた。アンドレル・クラウダー・ジョーダンさんは、1996年のオリンピック開催の数年前から借家人組合の理事長を務め、センテニアル・プレイスの新居に戻って来た。そこは4つの寝室と2つの浴室があり、彼女の家族のニーズを十分に満たすものだった。

「環境は良くなりましたね」と、彼女は言った。「今でも前から住んでいた人たちと、ばったり出くわします。彼らは今、以前よりもっと良い暮らしをしていますよ」

しかし、新たな住宅供給や支援を受けられず、最悪な暮らしをしていた人々はどうなったのか? これを知ることは難しい。取り壊される数年前にテックウッドとクラーク・ハウエルを離れた住人がどこに行ってしまったか、オリンピックが閉会した5年後の2001年の時点では「追跡するのは不可能」だったと、ニューマン教授は言う。以前からの住人が再開発されてどれだけ恩恵を受けてきたかを、十分に評価することも同じく不可能だ。

オリンピックによって、テックウッドが取り壊されから20年も経ってしまえば、住宅供給であろうが、支援バウチャーであろうが、このシステムを利用しなかった人々を、今さら見つけることは困難だ。

2016年の夏のある朝、アトランタの都市圏「メトロ・アトランタ・タスクフォース・フォー・ザ・ホームレス」(アトランタ市の都市圏「メトロ・アトランタ」のホームレス対策有識者会議)のアニータ・ビーティー事務局長は、古い住所録をあたり、数年前に自分たちが強制退去されることにに抵抗していた時、共に活動していたテックウッドとクラーク・ハウエルの住民たちの名前を探していた。ビーティー事務局長が住所録に記載された電話番号にかけてもつながらず、結局住民の追跡調査は、うまくいかないとわかった。

「オリンピックの間、アトランタをまさにポチョムキン村(実態を隠すために作られた見せかけだけの村)にしようとした再開発は、住まいを失った人々の住宅状況を改善しようとしたのです」と、ビーティー事務局長は述べた。「しかし特定の地域に貧困層を集中させたことは、大きな間違いでした。しかしその時、この失敗を取り繕うために、責任を追求せず、住民たちを追い出しただけでした。そして後になってから言うんです、『うーん、彼らがどこに行ったかわからない』と」

新たな共同住宅に戻った人でさえ、何かを失っていることに気付いていた。

かつてテックウッドの借家人組合理事長をつとめ、センテニアル・プレイスの新居に住むマーギ・スミスさんは2006年、「ジョージア・トレンド・マガジン」に「住宅事情は改善していますが、以前はもっとコミュニティの意識があったように思います」と語った。「地域の人たちはは全員の顔を知っていて、お互いに話しかけ、助け合いました。もしジョーンズの奥さんが道端で気分が悪かったら、誰かが介抱してくれました。しかしセンテニアル・プレイスが建設されている間、ジョーンズの奥さんがこの街を歩いていても、交流がありません。それどころか、次に聞くのは、彼女が亡くなった、という話なのです。私たちは戻って来ない、あるいは戻って来れない友人たちを多く失いました」

「そして多くの人がこの地区からいなくなりました。私たちは素晴らしいものを得ましたが、それ以上に多くのものを失ってしまったのではないかと思っています」と、スミスさんは振り返る。

1994年から2013年まで、アトランタ市の住宅局の責任者を務めてきたレニー・グローバー氏は、こうした評価に反論する。全般的に、テックウッドとクラーク・ハウエルに住んでいた家族は、オリンピック以前と比べて相当良い暮らしになっている、とグローバー氏は言う。

グローバー氏も、1994年の時点ではこの地区の住民だった。グローバー氏は、「資格要件を満たすことが出来る人なら誰でも何らかの形で住宅援助を受けていた」と語った。テックウッドの計画には、住民支援のため、新たな地域の学校建設とカウンセリングプログラムが含まれていたと、グローバー氏は言う。ジョージア工科大学のトーマス・D・ボストン教授は、生徒たちは以前の学校よりも、新しい学校で、より学習に取り組むようになったという。

アトランタ市のテックウッドとクラーク・ハウエルアトランタ市への対応に批判的は人は「後になって口を挟んできた」と、グローバー氏は主張する。「暴力犯罪率が極めて高く、子どもたちが問題のある学校へ通い、家族離散するようなところだったんです。こんなひどい公営住宅の中で、人々がおびえながら暮らしてきたのは、いつの話だったんでしょう。誰もこのようなことに焦点を当てていませんが」とグローバー氏は言う。「しかし、より良い結果を求めて努力しようとしたらすぐに、あらゆる人がぞろぞろと現れてきて、『うーん、これは酷かった』と言うんです」

「家族が崩壊しようとしていた時、皆さんどこにいたのですか?」と、グローバー氏は問いかける。「どこかで始めなくては、変えることなどできないのです」

2015年、ビラ・アウトドローモの住人たちは、自分たちの住処を取り壊すなと抗議し、警官隊と激しく衝突した。

オリンピック関連の住宅開発を約束するのは、都市が現在住んでいる住民の生活を向上させる方法で対象地域を再建するためだ。しかしこんな約束は、めったに実現しない。

オリンピック前にブルドーザーの通路となる地域は、ほとんどの場合、低所得層世帯が居住している。オリンピック前と様変わりした地域には、低所得者の住居だった公営住宅が、さらに高所得の人々を対象としたより高級な住居を含む公営住宅となり、低所得世帯が目に見えて減少するケースがほとんどだ。

アトランタオリンピックから8年後の2004年までに、センテニアル・プレイスの賃貸用アパートの家賃は高騰した。これは公営住宅のように自治体の助成を受けない家賃だ。アパートの規模にもよるが、42〜72%上昇した。一方で1990〜2000年にかけて、テックウッド地区住民の平均収入は174%と急上昇した。これはアトランタ市全体の上昇率の10倍に当たる。

「手頃な住宅」として助成を受けるアパートも、家賃が減額されるにしても、オリンピック前にテックウッドとクラーク・ハウエルに住んでいた人々の大半は、手が届く価格ではなかった。

「手頃な、とは何を意味するのか? ということです」と、ジョージア州立大学のディアドラ・オークリー教授は語る。オークリー教授はオリンピック後、アトランタの公営住宅の住人が立ち退いた後の影響を調査した。「もともとこの公営住宅に住んでいた人々からすれば、 この収入レベルは、手頃とは言えません」

■ 反故にされる「新しい手頃な住宅」の供給

同じような事態が、2012年のロンドンでも起きている。ロンドン市は、新たな住宅開発を、このオリンピック大会の主要な相続財産にする、と約束していた。

ロンドンオリンピックの開催地は、新しい住宅を本当に必要としていた工業地域の、ロンドン東部ストラットフォードとニューアムの特別区に集中していた。ロンドン市もまた、低所得層の共同住宅を取り壊した。

スタンフォードのクレイズ・レーン地区は、オリンピック前は400人以上の人々が暮らしていた。オリンピック組織委員会は、新築される住宅の半分は、その地域の不動産価値で定められた「手頃な賃料」になるように制限を加えると約束した

「きちんとした説明会もなく、住民投票も何もない。だから私たちは衝突したのです」

――2012年ロンドンオリンピックで住居を失ったジュリアン・チェーンさん

しかしストラットフォードとニューアムの家賃は、オリンピック後急上昇した。ストラットフォードでは、IOCがロンドンを開催地に指名した2005年から不動産価格が71%上昇し、2016年初頭までには、ロンドン全体の不動産価格をはるかに上回る増加となった。これはアトランタのケースと同様に、中・低所得者層のために特別に確保されていた「手頃な住宅」の多くが、もはやこの地域の貧困層の手が届く価格帯ではなかった。

イーストロンドン大学のペニー・バーンズストック教授によると、現在オリンピック公園で再開発されている住宅は、年収1000万円の人々が「手頃な住宅」の入居有資格者になっているという。「この住宅は貧しい人々にとって手頃とはいえない」と、バーンズストック教授は語った。

オリンピック前に交わされた住宅供給の約束が反故にされたのは、これだけではない。2012年のオリンピック直後に、ロンドン市の関係者は、新たに出来る住宅の50%は手頃な価格になるよう制限する約束を見直し、41%まで引き下げた。バーンズストック教授によれば、ロンドン・オリンピック・レガシー開発公社は、手頃な住宅は最大31%に留まる、と述べているという。

クレイズ・レーン地区に住んでいたジュリアン・チェーンさんは、オリンピック会場のために自分の住処を取り壊された。彼は、たとえオリンピックがなくても、イーストロンドンは結局再開発されただろう、と言う。しかしオリンピックが無かったら、立ち退きと取り壊しはこれ程圧力を受けず、もっと慎重に検討されたかもしれない。そうなれば、既存の住人は、もっと広範な恩恵を受けられたかもしれない。

「そうなれば、もっと民主的に手続きが進んだでしょう。そうずれば、もっと有益だったはずです」と、チェーンさんは言った。「きちんとした説明会もなく、住民投票も何もない。だから私たちは衝突したのです」

イラン・ソウサさんは、アウトドローモの自宅が取り壊された後、新しい住宅に引越しをさせられたが、ソウサさんは幸福ではない。「ほとんどの世帯が、ここに住んだことを後悔しています」と、彼は語る。

リオのエドゥアルド・パエス市長はハフポストブラジル版に、リオは「街の見過ごされてきた地域を再開発していて、オリンピック開催都市では今までにない、最も有望な都市計画に着手していると語っていた

しかしビラ・アウトドローモと同じような低所得者層の地域では、オリンピックが閉会すれば政府がオリンピック前の約束を守ってくれるという希望をとっくに捨てている。

パエス市長は2012年の市長選の選挙活動で、安定した電力供給、ゴミ収集、水処理施設、その他今まで欠いていた基本的行政サービスを整備し、リオ市の140万人が住んでいるファヴェーラ(スラム街)を改善をする有望な計画をぶちあげていた。「モラーカリオカ」と呼ばれるその計画は、正式なオリンピック遺産相続プログラムの一環ではなかったが、リオ市住民全てが恩恵を受けられるためにオリンピックを活用するという市長の公約に含まれていた。

しかし、オリンピックの準備期間中にリオに滞在していたチューリッヒ大学のクリストファー・ガフニー教授によれば、パエス市長は再当選を果たした後、モラーカリオカの大部分を放棄した

「オリンピックが、多くの人たちの人生を破壊するのを許してはいけません」

――リオオリンピックで住居を失ったルイス・クラウディオ・シルバさん

リオのオリンピック選手村は、大会終了後に最高92万5000ドル(約9260万円)で売り出されるユニットもあり、豪華な住居になるだろう、とリオ市は発表している。オリンピック誘致に向けて、リオ市は新たに2万4000ユニットの低所得層住宅が入る「レガシービレッジ」を建築すると公言していたが、実際にできる保証はない

一方、移転したビラ・アウトドローモの住人の中には、自分の新居に関して深刻な問題があると打ち明ける人もいる。「私たちにあてがわれたアパートはひどいものでした。壁は破損していて、下水管も壊れています。文句を言いましたが、何もかわりませんでした」と、 イラン・ソウサさんは言った。「ほとんどの世帯が、ここに移住したことを後悔しています」

結局、リオオリンピックは、取り壊された住宅、忘れ去られた約束、そして将来のオリンピック開催都市でも同じような境遇の人々が同じような経験をしてほしくないと願うことが唯一の願いとなる、貧しい住人たちが取り残されることになる。

「オリンピック開催地に立候補した都市に対して、自らの足元を見直すようにお願いしたいのです」と、この3月に住居を失ったビラアウトドローモの住人ルイス・クラウディオ・シルバさんは言った。「オリンピックが、多くの人たちの人生を破壊するのを許してはいけません」

アトランタのテックウッドと、リオのビラ・アウトドローモが、オリンピック開催で被った破壊的な影響を覆すには、もう遅すぎるかもしれない。しかし、こうした地域の物語は、他の都市への警鐘となっている。

ボストンのオリンピック招致活動は、民間組織の主導で行われている。この組織は、アメリカオリンピック委員会(USOC)を説き伏せ、2015年1月に2024年オリンピックの候補地としてボストンを選出させた。2015年7月までは、招致反対のグループが住民の不満を効果的に表明したので、USOCはボストン招致を認めることはなかった

反対派は、オリンピックでかかるコストを招致反対の理由に挙げる。結局は地元の納税者たちが負担することになるという考え方からだ。また、オリンピックが地元住人を強制退去させざるを得ない開発手段に利用されると警告している

「人々は目を覚まし、発言し始めたのです。『よく考えてください。オリンピックは3週間の祭典といった単純なものではないのです」と、地元の政治コンサルタント、クリス・デンプシー氏は述べた。デンプシー氏はボストンのオリンピック招致に反対する最も著名なグループ「ノー・ボストンオリンピック」の共同創設者だ。

「これは現代のオリンピックの一部分でしかありません」と、デンプシー氏は言う。「オリンピックをきっかけに都市開発するなら、貧しい人々を追い出すことになるのです」

トラヴィス・ウォルドロンがリオ、ロンドン、アトランタの記事を担当。エドガー・マシエルが、リオの記事を担当。

ハフポストUS版より翻訳・加筆しました。

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