オリンピックの体操競技にチャンネルを合わせると、すべり止め用の炭酸マグネシウムに手を伸ばすシーンとか、余計なスローモーション映像をたくさん見ることになるからその準備をしておくべきだ。そして、もちろん、度肝を抜かれるアクロバティックな演技もたくさん見ることになるだろう。しかし、体操で見られなくなったものもある。「10点満点」だ。
体操競技が始まったら解説者も視聴者に伝えることになるだろうが、体操を象徴していた10点満点はもう存在しない。正確にいうと、存在しないも同然だ。
体操選手には2種類の点数が出される。1つは難度(Dスコア)。ルールでは上限はないが、現時点で6.5点を超えることは滅多にない。もう1つは完成度 (Eスコア) 。これは実は10点満点だ。つまり、難度が6.5点のルーティンを完全な演技で行うと、スコアは16.5となる。しかし、2006年に新しい採点方式が採用されてから、完成度で10点満点を獲得した選手はいない。
以前、10点満点を出すのは難しかったが、実際に存在した。しかし、ここ10年では、全く聞かれることがなくなった。
新著「10点満点の終わり 体操の最高点の始まりと終わり (The End of the Perfect 10: The Making and Breaking of Gymnastics’ Top Score — From Nadia to Now)」で、体操ジャーナリストのドゥボラ・マイヤーズは、体操史上もっとも重大なルール変更がどのようにして起こったのかを詳しく記述している。さらに、この新しい採点方式が施行されたことで、アメリカ人体操選手が世界の体操界を席巻する絶好の機会をもたらしていることも説明している。
世界で初めて、10点満点を獲得した女性選手はルーマニアのナディア・コマネチだ。彼女は1976年モントリオールオリンピックの時、団体演技規定の段違い平行棒の演技で世界初の10点満点を出した。この他にも自由の平均台、段違い平行棒など計7回の10点満点を出し、個人総合と種目別で3つの金メダル、団体で銀メダル、ゆかで銅メダルを獲得した。
ナディア・コマネチ
しかし、その後の30年間で体操競技は大きく変わった。10点満点を出す選手の数が激増した。体操選手たちより難度の高い技に挑むようになったからだ。いつも完璧な演技ができたわけではないが。競技を進化させていた選手たちを正当に評価する方法がなかった。どちらの方がより価値があるのだろうか? 簡単なルーティンをきれいに演技してみせることか? それとも、少し乱れがあっても難度の高い演技をすることか? 10点満点の採点方式では、前者に力点を置く傾向が強かった。
ある意味、より難しい演技に挑戦する体操選手は損をしていた。体操には、観客が理解しやすい採点方式があった。得点が10点に近いほど、ルーティンが良かった。しかし、これによってイノベーションは妨げられ、選手は安全策を取りがちになった。そして、さらに多くの選手が最高点を記録するようになり、メダルの順位は僅差で決まるようになった。例えば、金メダルをとった選手の得点が9.91点で、5位の選手の得点が9.87点となることもあった。
明らかに、何かを変える必要があった。
マイヤーズが説明するように、新しいシステムが夢物語の段階から体操競技上のルールになるまでに何十年もの時間がかかった。そして、多くの議論も起こった。今でもたくさんの人々が、従来の採点方式に戻したがっている。この中には、体操界の有力者もいる。しかし、元に戻る可能性は低そうだ。部分的には、上限のない採点方式で、アメリカ人の体操選手が優勢になっているからだ。
最高点のない新しい採点方式に対する大きな反論として、印象に残りやすい10点満点と比べて、一般層に受けないという問題があり、今でもそうした批判がある。この主張に沿うと、観客は理解しづらく、見た時の興奮度が下がってしまう。というのも、見た選手どの程度完全に近い演技をしたのか理解できないからだ。
実際に、新しい採点方式を採用してから、体操競技の視聴者は減っている。しかし、この点に関しては、他にも多くの要素が影響している。昔にはなかったXゲームのようなスポーツを含めて、テレビで視聴できるスポーツが増えた。しかし、体操競技に一般の関心が集まるのはオリンピックシーズンだけだから、無制限方式の新採点方式に懐疑的な人々は「一般の視聴者や体操に馴染みがない人々が理解できないことに神経をとがらせ、視聴者数が減少すると競技が理解しにくいことのせいにするのです」とマイヤーズは語る。
しかし、新しいシステムはそれほど難解というわけではない。特に、放送でDスコアとEスコアの両方を表示すれば、それほど難しいわけではない。特にEスコアが10点満点であることには変わりがない。マイヤーズによると、古い10点満点の採点方式が持つ魅力は「基準がひとつしかないわかりやすさ」だという。理論的には最高点のない新しい採点方式が導入されたことで、古い採点方式にあった標準的な指標と方向感覚がある程度失われてしまったのだ。
そして、マイヤーズが言うには、10点満点を求める人は、過去の郷愁にとらわれている面もある。10点満点というと、ナディア・コマネチや、ロサンゼルスオリンピックで金メダルをとったメアリー・ルー・レットンを思い浮かべる。ルー・レットンはゆかと跳馬で10点満点を叩き出し、アメリカ人女性として初めて体操個人総合で金メダルを獲得した。
メアリー・ルー・レットン
彼女の金メダルは、東西冷戦の中でも重要な局面となった。1980年のモスクワオリンピックにアメリカをはじめとする西側諸国がボイコットしたのに対し、ロサンゼルス大会では旧ソ連などルーマニアを除く東欧圏がボイコットするなど、冷戦構造がオリンピックにも影を落としていた。そんな中、伝統的に東欧圏が優勢な体操競技で、アメリカ人が初めて金メダルをとった。
「ルットンの演技は単に10点満点だっただけでなく、それ以外にも多くの意義があったのです」と、マイヤーズは語る。「私からすると、10点満点に戻せという人は、昔を懐かしんでいる部分が大きいのです。体操選手が文化のより中心的な場所を占めているように思えた時代がありました。少なくとも、五輪ではそうだったのです。体操競技に追い風が吹いていたのです」。
「アメリカでは、体操女子の人気は依然として高いのです」と、マイヤーズは指摘した。これまで3大会連続でアメリカ人女性が個人総合で金メダルを獲得してきたからだ。
この傾向は続きそうだ。世界選手権を3回制覇したシモーネ・バイルズがリオ五輪で金メダルをいくつも首にかけることになるのではと予想される。マイヤーズによると、新しい採点方式 (正式には採点規則と呼ばれる) だとバイルズのような選手が優位になるという。
マイヤーズはバイルズについて「一生に一度出会うかどうかという類まれな才能を持つ選手です。上限値のない採点方式を推進した人々は、こういう選手が出てくるのを期待したのでしょう。彼女は明らかに、従来の想定を超えた技術を持っています。新しい採点方式の難度点には上限がないから、バイルズのように大胆な演技に挑戦できるのです」
シモーネ・バイルズ
シモーネ・バイルズは競技でも頻繁にアマナール(伸身ユルチェンコ2回半ひねり)を披露する稀な女性選手の1人だ。この技は極限に難しい。
バイルズは唯一無二の存在だ。議論の余地はあるが、バイルズは史上最高の体操選手で、全スポーツ競技を通じても最高の選手の1人かもしれない。しかし、新しい採点方式で有利になるアメリカ人選手は彼女だけでない。
新しい採点方式は力強さとスピードに重視している。資金が潤沢で、半ば中央集権化されたトレーニングのシステムを持ち、ルーマニアと中国からのコーチを多く招いているアメリカの体操選手は、これまで3回の五輪の個人総合種目で金メダルを獲得しただけでなく、ロンドン五輪の団体総合で金メダルを獲り、北京五輪では銀メダルとなった。また、世界選手権でも団体でメダルを数多く獲得している。
さらに、控え選手の層も厚い。アメリカの女子体操の代表選考は世界的に見ても最もレベルが高かった。マイヤーズによると、アメリカ人の中からも新しい採点方式に反対する声は上がったが、新方式の施行で大きく得をしたのはアメリカである。
当初の抵抗にもかかわらず、新しい採点方式は施行されているし、まだ反対の声は残っているものの、それで元に戻ることはないだろう。新しいシステムでは、体操競技は宙返りや重力に逆らうような跳び技や下り技に注力するようになった。
これは刺激的で、興奮をもたらす。ゆか競技や平均台のダンス的な要素は損なわれ、よりアクロバティックな演技が求められるようになり、体操競技はこれまでにないほど運動競技らしくなった。より高い得点を得られることがわかっているために、若い女性選手たちはとっくに超えている身体の限界をさらに突破しようとし、競技もより難しく、さらに印象に残るものになってきている。
2016年で10点満点からの減点方式から採点方法が変わって10年目になり、バイルズがリオ五輪に出場することで、私たちは新採点方式が理想とする体操選手の勝利を目にすることになるだろう。
上限のない採点方式の時代は本格的に始まっており、仕組み的には体操選手が得点ボード上に獲得できる数字に天井は設けられていない。これは本当に胸躍るものだ。ヒラリー・クリントン氏が人気ラッパーのリル・ウェインを引用して言った言葉を借りるなら、「天井さえなければ、空は無限に広がる」からだ。
ハフポストUS版より翻訳・加筆しました。ハフポストUS版より翻訳・加筆しました。
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