東日本大震災以降、まち一丸となった「観光」を掲げて注目を集めてきた、宮城県気仙沼市。さまざまな立場の人が集い、議論を重ねながらいくつものツアーや取り組みを行ってきた。
気仙沼のキーパーソンの一人である、「株式会社男山本店」の代表取締役社長・菅原昭彦さんは「震災以前の気仙沼では、『食』を核にまちづくりを一生懸命やっていたが、今考えると緩やかだった」と話す。
気仙沼はなぜ「観光」に力を入れ始めたのか。その取り組み内容とは。
菅原さんと、「一般社団法人 気仙沼観光コンベンション協会」の誘致推進課長・熊谷俊輔さん、「アサヤ株式会社」の専務・廣野一誠さんの三人に話を聞いた。
■震災直後の「地域に恩返しをしよう!」という決意
創業1912年の蔵元「株式会社男山本店」の5代目であり代表取締役社長の菅原昭彦さんは、東日本大震災の当日、港の近くにあった本社にいた。社員や家族を連れて避難し全員が助かったが、国の登録有形文化財にもなっていた本社屋は、津波により全壊してしまう。
しかし、少し高台にあった酒蔵は、わずか数メートルのところで難を逃れ、発酵を始めたばかりのもろみが奇跡的に生き残った。菅原さんは迷ったが、地元の友達に背中を押され、もろみを搾って酒を造り始める。なんと3月20日頃のことだった。
「このことが大きく報道され、それを見た方たちから手紙やメール、電話などをたくさんいただきました。地元の人たちも、被災しているなかで大勢が発電機を動かすために手を貸してくれたんです。震災当日から10日間くらいは無我夢中でしたが、そこから私の世界観が大きく変わっていきました」(菅原さん)
酒蔵と地域の関係を改めて考えさせられ、菅原さんはこう誓ったのだという。「助けてもらったのだから、今度は地域に対してもっと恩返しをしよう!」。それは、自ら「人間が変わった」と語るほどの“脱皮”だったようだ。
そうした熱い想いで活動するなかで、菅原さんはしだいに「これはチャンスだ」と考えるようになった。
「会社あるいは地域が、思いきり変わることができるチャンスをもらったんじゃないかと。そこで社員には『ゼロからやっていきたい。良い伝統は続けるけれど、変わらなきゃいけない部分に関しては変化を恐れず、むしろ楽しむぐらいの気持ちでやろう』と話しました」(菅原さん)
社員との合言葉は「日々変わる。常に進化する」。その気概は次々に変化を生んでいった。例えば、震災前までは11月から3月までの冬期しか行っていなかった酒造りを、雇用を守るために夏期にも実施し始めたのだ。売上は不安定だったが、社員は一人も解雇しなかった。
「変化を恐れないと考えたことが、その後のまちづくりの原点になり、役立ちましたね」。そんななかで生まれたアイデアが、震災前に実施していた「海中貯蔵」の復活だった。日本酒の瓶を海中に沈め、海の揺らぎで熟成させる取り組みだ。
「筏(イカダ)がなくなって実施できなくなっていたんですが、復活させよう! と。以前は自分たちで瓶を沈め、イベントで飲んでいただくだけの小規模な取組でしたが、それを今度は旅行とくっつけてお客さまに沈めていただき、1年後また引き上げに来て貰おう、いろいろな楽しい思いができる仕組みも用意しようと考えました。大きなチャレンジだったんですよ」(菅原さん)
取り組んできたのは地元の人たちだけではない。力を貸し、専門的な立場から支え続けてきたJTBグループの存在も大きいという。
菅原さんが真っ先に相談したのが、2011年5月からボランティアツアーを開催していたJTBコーポレートセールスだった。菅原さんの想いは実を結んで2012年3月から「海中貯蔵ツアー」が始まり、同社は計5回のツアーを企画。延べ100名以上が参加し気仙沼を訪れた。ツアーで訪れた人が地域のファンとなり再訪する流れができ「東北ふるさと課(化)」というプロジェクトになった。「海中貯蔵旅」は本年も11月に実施に向け準備中である。
■アイデンティティを残す「観光」をJTBと練り上げる
商工会議所の会頭も務める菅原さん。菅原さんとJTBグループとの付き合いは、気仙沼市長のもとで2012年4月に立ち上げた「観光復興戦略会議」から始まっていた。
「これまで気仙沼を力強く支えていたのは水産業です。しかし、水産業はインフラの問題などがあってどうしても復興に時間がかかる。そこですぐに『観光』に取り組むことにしたのです。『観光復興戦略会議』を立ち上げ、JTB総合研究所の当時常務取締役だった高松正人さんに委員長になっていただき、私が副委員長を務めました。高松さんと相談しながら、観光業を立て直すための方策を戦略的に考えたのです」(菅原さん)
海・山・川・里があるなかの暮らし、良い伝統、文化、風土、食——。そうした気仙沼のアイデンティティを残していく必要があると実感した菅原さんたちは、オンリーワンのコンテンツによる観光の振興を考える。それこそが、「気仙沼=被災地」として広く知られてしまったところから「脱・被災地」をはかるためのフックになるというねらいもあった。
一方まちでは、ボランティアや仕事などで気仙沼を訪れた人たちに対して、地元の人たちがもてなすことによって交流が生まれていた。一緒にまちを歩いて説明をするなど、主体的な市民が誕生していたのだ。
「これからは全市民による全市民のための観光に切り替えましょう、と話し、一部の観光事業者や役所や誰かに任せて終わりではなく、ちゃんと推進する原動力になるような組織を作ることを、2013年に戦略書へ盛り込みました」(菅原さん)
そうしてできた組織が「一般社団法人 リアス観光創造プラットフォーム」。菅原さんは理事長に就任した。
「我々にとっては高松さんが入っていただいたことが原点で、そこから始まっています。その後、観光でなんとかしようと目指すなかで、JTBコーポレートセールスさんとの出会いがありました。地域に入っていただいて議論し、商品にするまで共に磨いていく作業のなかで、『こう考えればこういうパッケージになっていくんだ』と学びや気づきをいただきました。とても心強いし、考えが形になっていくことが弾みになりましたね」(菅原さん)
今後についても、菅原さんは「手を貸していただけたら」と願っているという。
「気仙沼の観光はまだこれからで、コンテンツそのものを強化しなくてはいけません。JTBさんは『気仙沼の観光が本当に自走するために身を引いたほうがいいのではないか』と心配されたことがあったようですが、こちらはまだ手を貸していただきたいなと思っています。甘えるということではなくて、作り上げるための考えの整理などで、お手伝いいただけたらうれしいんです。何かまた一緒にできたらと、常に考えています」(菅原さん)
■観光とは、地域に根差した文化や歴史を感じてもらうこと
「一般社団法人 気仙沼観光コンベンション協会」の誘致推進課長である熊谷俊輔さんは、観光開発の他、被災を語り継ぐ「震災復興語り部」の取り組みも同協会内で行っている。
また、先述の「リアス観光創造プラットフォーム」が中心になり水産業や観光業に関わる人を集めて作った「観光チーム気仙沼」のメンバーでもあり、行政や民間が共に歩む取りまとめもしている。
熊谷さんは、震災を目の前にして圧倒的な無力感を感じるなか、「人のできることは本当に限られている。それぞれの役割があるのだ」と気づかされたのだという。
「こんなぼろぼろになった気仙沼に観光が要るのか、来る方がいるのかと思ったこともあります。でも、4日後には駅前の観光案内所を開き、お客さまをご案内する仕事に戻りました。行政や消防、サービス提供の方など、さまざまな役割・仕事を持った人たちが、それぞれの形で地域に貢献していくしかないのだと決断したんです」(熊谷さん)
その後、「気仙沼が好きだ」「本当にいいところだ」と言ってくれる人たちとの交流を続けるために努力することこそが、自分の役割なのではないかと考えるようになった。
「観光業は、『こうすればお客さんが来るだろう』とか、けっこう素人の思い付きで成り立たせている部分があると思うんです。日本では、行政も含めて公的な資金を使ってそういう観光業をやってしまい、ふたを開けてみたら失敗だったケースがたくさんあるのが現状です。そういうなかで、観光業の専門の方々の意見や知識を地域に取り込んでいくことが、観光地として成り立たせ、まちづくりにつなげていくために必要なのだと学びました」(熊谷さん)
気仙沼には魚市場を中心に発展してきた歴史があり、文化の多くが水産業に紐づいている。これらがあって初めて気仙沼という土地をアピールできることを認識できたのだという。「観光とは、その地域に根差した文化や歴史を感じていただくこと。それをJTBさんと一緒に考えるワークショップで気付かせていただきました」
■今こそ「観光」の出番。観光資源に気づかされて
震災後5年が経ち、風化が懸念されている今。以前は足を運んでいた人でも、最近は東北へ行くことが減っているようだ。熊谷さんは「観光の力で気仙沼に来ていただく取り組みは、今こそ最も必要なのではないか」と確信し、観光業に取り組んでいる。
また、今進められているのが、「観光DMO」の組織または仕組みを作ること。2015年の夏から検討を始め、既に原案はできあがっているという。「DMO」とは、マーケティングや関係者との合意形成など観光事業のマネジメントを担い、観光地域づくりを行う組織・機能で、Destination Marketing/Management Organizationの略だ。
欧米などの観光先進国では、DMOが集客に重要な役割を果たしている。熊谷さんも、スイスへ視察に行ったばかりだ。「新しいことにはどんどんチャレンジしたいと思っています」
今後のビジョンを聞くと、次のように話してくれた。「観光客の多くは『食』が目当てですね。JTBさんからは、『地元の食べかたなどが観光客には新鮮で、非常に響くし需要もある。これは観光資源としてやっていける素材です』と教えていただきました。ただし、『食』は取りまとめが難しい分野なので、腰を据えて進めていきたいと思っています」
「やはり水産業を観光資源として見せていきたいです。具体的な取り組みも始まっています。震災後にUターンをした廣野一誠さんという若い人たちやこれまで観光業とは縁遠かった漁師さんをはじめ漁業水産業に関わる人たちが、漁業・水産業をお客さんに見て・知って・学んで楽しんでいただき、同時にアクティビティとして収益も取れる仕組みにしたいと活動しているんです。そこには私自身、一生関わっていきたいと思っています」(熊谷さん)
■「漁業も漁具もおもしろい!」という若者の発見
熊谷さんが応援する廣野一誠さんとは、1850年に創業された漁業資材の販売会社「アサヤ株式会社」の取締役だ。現在33歳。気仙沼出身で、東京の大学に進学し、震災当日は東京で広告・営業のコンサルティングの仕事をしていていたが、2014年冬に家族を連れて帰郷。父が経営する同社へ入った。
「2013年の夏に帰省したとき、がれきの撤去が進み、実家の近所が平地になっているのを見て『一番大変だった混乱期に、俺はここにいなかったんだな……』と感じたんです。いずれ家業を継ぐつもりでいたので『いつ帰ろう』とは思いながら、仕事の自信がなく躊躇していました。でもそのとき、東京でのうのうと暮らして戻ってきて何が跡継ぎだ、という感覚が芽生え、早く帰って一緒に復興をやろうと決めました」(廣野さん)
帰郷したものの、地域に貢献するようなプランはまったく持っていなかった廣野さん。そこで「まずはとにかく知っていこう!」と、いろいろな漁業関係者に話を聞いた。
「『漁業ってこうやるんだよ』『牡蠣はこうやって育てるんだ』などと聞いたら新鮮で、好奇心や興味がすごくわいて『おもしろい!』と思ったんです。こういう漁業の様子は一般になかなか知られていないので、発信できたらおもしろいんじゃないかなと。観光系のイベントをやっている方とご縁があり、イベントを企画するようになりました」(廣野さん)
しだいに廣野さんは、自身の勤める会社のことも「観光資源になるのではないか」と考えるようになった。
「当社で扱っているのは、漁師さんが使う漁具です。この地域に根ざしてやっているので、社員が日常的に漁師さんと話をしています。『これって何に使うんですか?』と聞くと、『これこれこういうことなんだけど、昔はこんなことをやっていたんだよ』とうれしそうに、かつおもしろく説明してくださる。そういう人が多いことがとても印象的だったんです」(廣野さん)
廣野さんのアイデアは、JTBの商品である「地恵の旅」(企業や学校等向けに地域活性化の成功事例を訪ね、創造力を養い新たな組織活性化に役立てる旅のプログラム)にも組み込まれている。
■協業しながら「観光」を盛り上げていきたい
廣野さんも、熊谷さんが所属している「観光チーム気仙沼」に加入した。「僕は後から混ぜていただいたのですが、一番暇そうだということで(笑)リーダーを務めさせていただくことになったんです」(廣野さん)
廣野さんたちメンバーは、JTBグループの協力のもと、時間をかけてある観光商品を作り上げる。それが、2015年5月にリリースされた「JTB 地恵(ちえ)の旅 気仙沼」だ。海の男たちの意気込みを聞きながら魚市場を取り巻く仕事を実体験し、絶品のカツオを食べることができるプログラムで、大好評で2016年も問い合わせ、申込みがきているという。
「気仙沼らしいコンテンツを作っていこう! と、企画をまとめていきました。地元側の意図や希望を、プロの目でアドバイスしてもらいました。開催の結果、企業や学校向けの「地恵の旅」は初年度は2件の企業団体が来ましたし、自分たちで作った個人旅行者向けのプログラムは「しごと場・あそび場 ちょいのぞき」と名付け、なんと昨年度は約数回の開催で800名がいらっしゃったので、本年度は月に一回の開催をしようと思います」(廣野さん)
廣野さんは「今後も地域に人を呼び寄せるためのおもしろい切り口を提供したいですし、今後もJTBさんと一緒にやらせていただきたい」と話す。プロフェッショナルの力を借りながらも、自分たちは自身の持ち場で努力をする決意。気仙沼には、震災前にはあり得なかった新しい産業が育っているのだ。
「僕は漁業に興味を持ってもらうイベントを、会社の事業として継続していきたいです。漁業者も減っていますが、実は魚の需要も今どんどん減っています。でも、気仙沼で本当においしい海産物を食べると『あの牡蠣、また食べたいな』と体験が残るんですよ。漁業を盛り上げる活動として、観光をも、両輪で盛り上げていきたいと考えています」(廣野さん)
【関連リンク】
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