日本初の女性報道写真家としてスタートを切ってわずか1年あまり。家族の猛反対を受けて、笹本恒子さんが断腸の思いで写真の道を諦めたのは1941年のこと。その半年後、27歳で他社のカメラマンだった男性と結婚したが、同年12月の真珠湾攻撃によって時代は太平洋戦争へと突入していった――。
そして迎えた終戦。笹本さんは再びカメラを手にする。1950年には日本橋丸善のギャラリーで戦後初の個展「生きたニュールック写真展」を開催。同年に設立された日本写真家協会には、会長・木村伊兵衛以下70名のメンバーの中で唯一の女性として名を連ね、フリーの写真家としての充実した日々を送っていた。
だが仕事に夢中になればなるほど、次第に「家族」とうまくいかなくなっていく――。どうやって笹本さんは、自分の「居場所」を見つけていったのか。前編に続いて、歳を重ねても自分らしく生きるヒントを聞いた。
■「自分の腕で生きていこう」とずっと思っていました
――報道写真家のキャリアを経て27歳で結婚されていますが、笹本さんがパートナーに求める条件はどんなものだったのでしょう?
話が合って、自分の仕事を持っている人。絵描きでも音楽家でも作家でもいいけれど、そういう自分の力のある男性がいいな、とは思っていましたね。
自分の腕で生きていこう。若いときから年中そればかり思っていました。周囲にそんな人がいたとかいうんじゃないけれど、なぜかいつでもそう考えていましたね。
――そういう意味では同業のカメラマンの夫は理想のパートナーだったのでは。
今考えると本当にそうだったわね。でも当時の私は仕事があんまりにも面白くて忙しくて。二晩くらい寝ないで仕事をしていたこともよくありましたから。夜行列車で東京から大阪へ行って、5人くらいのカメラマンと一緒に色んなものを撮影して、また夜行で東京に帰ってきて、明くる日に私が現像したプリントを持って行ったら、他のカメラマンはみんなまだ寝ていたり(笑)。
そのくらい忙しい毎日だったから、「別々に暮らしましょう」って私から言ったのよ。別れようと思ってたわけじゃなかったけど、それがいけませんでしたね(笑)。
彼は「仕事ができる人はおおいに仕事すべきだ」という考えの持ち主で、私の撮影現場にもアシスタントとして同行してくれて、「夫婦だと知られてしまうとまずいから、僕のことは苗字で呼んでいい」と自分から言い出すような、本当にできた人だったの。
結局、彼との結婚生活は10年と少しで終わりましたけれど、今になって彼のありがたさがよくわかりますね。その後、私も彼も他の人と再婚したのですけれど、彼は生涯、私の悪口を一度も言わなかった。彼が再婚後の奥様とのあいだに生まれた2人のお嬢様とは、実は今でも親しくしているの。このホームにもお見舞いに来てくださったことがあるのよ。
――その後、2度めの結婚生活はいかがでしたか?
あまりそれは言いたくないわ(笑)。しいて言うなら、気の弱い人でした。だから嘘をついてしまう。
――本の中では、そういった苦労話や愚痴、弱音などはほとんど描写されていませんね。
それはそうよ。だって人を傷つけることになるのが嫌ですから。愚痴なんて言ってもしょうがないでしょう? そりゃあ何度か死んじゃおうと思ったことはありましたよ。浮き沈みももちろん。
でも......自殺をするのは親不孝になる気がしたのよね、最後のところで。親からもらった命ですから。だから生きてきた。そうしたら101年が経っちゃったわ(笑)。
■身に付けた技術はすべて人生に繋がってくる
――再婚されてからは一家の大黒柱として家計を支える日々の中、60年代には写真の仕事からいったん離れ、生業の軸がオーダー服のサロン、フラワーデザイン、アクセサリー製作などに移っていきますね。
何かを作ることが好きなんですよ。服も絵も、今日つけているネックレスも着ている服も、自分で作ったもの。洋裁の技術が身についたおかげで、姪のイブニングドレスもウェディングドレスも全部作ってあげられましたから。
インテリアスクールに通い始めたのなんて50歳のときよ。
――笹本さんが50歳を迎えたのは1964年、東京オリンピック開催の年ですね。55歳で定年退職する時代だったのでは?
願書を出してもなかなか返事が来ないから電話をかけたら、「一度来てください」って言われて。杖でもついたおばあちゃんが来ると思われたんでしょうね(笑)。でも行ってみたら「どうぞ、入学してください」と歓迎されて。そこでパースの描きかたも学びました。
――そして71歳、多くの同世代がリタイアしている年齢で、再び写真の世界に復帰。その後も明治生まれの女性たちのポートレートなどを撮り続け、写真家として生涯現役を貫かれています。
何かを学ぶにしても、仕事をするにしても、年齢は関係ないでしょう? 私は71歳で写真家の仕事に復帰しても、年齢のことなんて一切言わなかったわ。「自分は何歳だから」と考えて行動するのは好きじゃないの。
2010年に小西康夫さんの写真展に出かけたとき、そこで初めて年齢を明かしたんですよ。「私、実は今年で96歳になるんですよ」って。そうしたら皆さん、とってもびっくりされて(笑)。それでその日のうちに私の写真展を開催することがあっという間に決まってしまったの。
――その写真展が転機となって、「96歳の現役報道写真家」として、「笹本恒子」の名前に再びスポットライトが当たることに。
それまでは一切、年齢のことは言ってなかったから、皆さんさぞ驚かれたんでしょうねえ。その写真展をきっかけに、翌年には97歳で吉川英治文化賞や日本写真協会功労賞をいただいて。人生、いくつになっても何が起こるかわからないものですね。
——どんな時代、どんな場所でも、そしていくつになっても、新しい世界に果敢に挑戦しては自分の居場所を作っていく姿が印象的です。
なんでもね、覚えておくっていいことですよ。だから、勉強はできるときにしておきましょう。みんな繋がっているのよ。絵を描くときのように構図を取ればいいんだと気付いたから、写真の世界にもすんなり入っていけたし、絵画で身についたカラーコーディネートのセンスは洋裁やフラワーデザインにも生きてきた。
なんでも欲張ってものを勉強しておくと、それが必ず役に立ちますよ。だからまず挑戦してみること。若い人たちにそれだけは伝えておきたいですね。
笹本恒子(ささもと・つねこ)
1914年東京都生まれ。40年、財団法人写真協会に入社、日本初の女性報道写真家としての道を歩み始める。戦後はフリーのフォトジャーナリストとして活躍。一時現場を離れるが、85年、写真展開催を機に71歳で復帰。2011年、吉川英治文化賞、日本写真協会賞功労賞、2014年ベストドレッサー賞特別賞を受賞。
笹本さんの最新刊、波乱万丈の半生と100歳を迎えてから入居した老人ホームでの日々を綴った『好奇心ガール、いま101歳 しあわせな長生きのヒント』(小学館刊)が発売中。
(取材・文 阿部花恵)
撮影協力/株式会社学研ココファン
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