12月9日に死去した作家、野坂昭如氏。タレント、歌手としても幅広く活動し、戦中体験を伝える活動にも取り組んだ。その生き様を、3つの言葉で振り返る。
言葉狩りの横行する世の中こそ、文化は退廃する(1976年1月23日、東京地裁)
有罪判決を受け会見する作家、野坂昭如被告(左)と面白半分社長の佐藤嘉尚被告(東京・千代田区霞が関の法曹会館) 撮影日:1976年04月27日
野坂氏は、永井荷風が書いたとされる短編小説「四畳半襖(ふすま)の下張」を、自らが編集長を務めた雑誌「面白半分」に掲載。これがわいせつ文書に当たるとして、1973年2月にわいせつ文書販売罪で起訴された。1976年1月23日、東京地裁での論告求刑公判で意見陳述した野坂氏は「言葉によって与えられるオルガスムスこそ、基本的人権」と、表現の多様性を主張した。
1980年11月28日、最高裁で罰金刑が確定したが、最高裁は「芸術性・思想性などの観点から全体として」みることが必要だと指摘。それまで曖昧で恣意的だと指摘されていた「わいせつ」の判断基準に、一定の枠をはめた。
「お金と言葉のけんかみたいなもの」(1983年11月21日、朝日新聞記者とのインタビューで)
雪が舞う国鉄長岡駅前で市民に訴える野坂昭如候補(新潟・長岡市) 撮影日:1983年12月17日
1983年11月21日、野坂氏は参院議員を辞職し、衆院選に新潟3区から立候補することを表明。ロッキード社からの受託収賄罪で実刑判決を受けた田中角栄元首相に挑んだ。「田中的政治を断ち切らなければならない」と、自民党の金権体質を批判したが、田中氏は約22万票を得て再選。一般市民らからカンパを募って戦った野坂氏は次点で及ばなかった。
落選後の1985年3月、「ふつうの人間が自分たちの正しいと考えることを政治に反映させるために、これまでと違う党をつくろう」と、「市民党」の結成を呼びかけた。戦後民主主義を問い直す原点は、戦争体験だった。
「戦争で、最もひどい目に遭うのは、子供たちだ」(2015年8月16日付朝日新聞朝刊)
1945年6月、14歳で神戸大空襲に遭い、養父は死亡。福井県に疎開していた1歳の妹も栄養失調で亡くした。自身と妹をモデルに描いた『火垂るの墓』は1967年に直木賞を受賞。1988年にはスタジオジブリの高畑勲監督によってアニメ映画化された。『戦争童話集』『石のラジオ』など、戦争体験に根ざした作品は多い。
自ら「焼け跡派」「闇市派」と称し、戦争体験を語り継ぐことに熱心だった。
よく、戦前派、戦中派、戦後派といわれるが、ぼくはどこにもあてはまらない。焼け跡から始まっているのだ。
ある日、それまでの生活が断絶された。家族も家も学校も、ぼくの場合、昭和二十年六月五日を境に消えた。混乱しているゆとりもない。今日生きていくのが精一杯(せいいっぱい)。闇市をうろついた。一面の焼け野原から、ぼくらのすべては始まる。
「火垂るの墓」を書くことで、戦争を伝えられるとは思っていなかったし、それは今も同じ。ぼくは未(いま)だに自分が小説家なのかどうか、あやふや。
だが、少しは戦争を知っている。飢えも心得ている。あんな馬鹿げたことを、繰り返してはいけない。戦争の愚かしさを伝える義務がある。あれこれあがいた結果、書くことが残った。(2012年3月13日付朝日新聞朝刊)
日刊スポーツによると、「朝まで生テレビ」の司会、田原総一朗さんは「『民主主義は何で必要なんだ』と考えもつかないような言葉を語り、番組になくてはならない人だった」と振り返り「日本は空気を読まないと生きていけない国。野坂昭如さんは自ら落ちこぼれ、空気を読めないと言い切ることで自由に生きた」と評した。
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