東京オリンピックまで1800日。1964年大会と比べてみた

2020年東京オリンピック開催まで1800日を切った。1964年大会の1800日前ってどんな感じだった?

8月20日で2020年東京オリンピックの開会式まで、残り1800日を切った。新国立競技場の建設が白紙に戻り、エンブレムには盗作疑惑も出ている。こんな状態で大会に間に合うのか? 1964年の東京大会のときを振り返ってみた。

神宮周辺(1959年6月6日撮影)

■たった5カ月前に、開催地が決定したばかり

1964年の東京大会(開会式は10月10日)の1800日前は、1959年11月6日にあたる。東京での開催が決まったのはこの年の5月26日。開催地決定からわずか5カ月経ったばかりだった。

『朝日新聞』(東京)1959年5月27日朝刊1面 / 国立国会図書館

9月30日に発足したオリンピック組織委員会ではまず、オリンピックの開催時期をいつのシーズンにするか話し合われた。塩田潮著『東京は燃えたか 東京オリンピックと黄金の1960年代』によると、組織委で真っ先にあがったのは5月開催案だった。1958年5月に東京でアジア競技大会が開催された時、連日好天気が続いたためだという。

しかし、IOCに提案したところ、5月は長い冬が終わったばかりで「練習の期間がない」として、ソ連や北欧諸国が反対。その後、梅雨と台風シーズンを避けた8月開催案も出たが「東京の夏は蒸し暑くて選手が力を出せない」とイギリスが猛烈に反対。結局、10月開催と決まったのは1962年6月のIOCモスクワ総会での事だったという。

■エンブレムはまだない

残り1800日の状態でも、エンブレム(シンボルマーク)はまだなかった。シンボルマークが決まったのは、翌1960年のことだ。

1964年東京オリンピック シンボルマーク

1960年3月、組織委は10人のデザイン関係者を招集し「デザイン懇談会」を組織。それまでのオリンピックと異なり、独自のシンボルマークを導入すること、シンボルマークの採用のためのコンペを実施すること、大会関連の印刷物や入場券、メダルのデザインなどの審議も、懇談会がハンドリングする対象にすることなどが決定された。

その後、懇談会は当時の著名なデザイナー6人による指名コンペを実施。1960年6月に亀倉雄策氏の作品が選ばれた。亀倉は1957年に、グッドデザイン賞などのロゴを手がけていた。

なお、この時の懇談会で座長になっていた勝見勝氏は、亀倉氏の推薦によるものだった。

亀倉氏は当初、のちに日本オリンピック委員会(JOC)委員長に就任する竹田恒徳氏からデザイン顧問を依頼されている。竹田氏は、1964年オリンピックの開催地を決める1959年5月の国際オリンピック委員会(IOC)総会用のパンフレットのデザインも依頼するなど、亀倉氏を信頼していた。しかし、亀倉氏は「選ぶ側より選ばれる側になりたい」と断り、勝見氏を推薦した。

応募された東京オリンピックマーク

■メインスタジアムはあった。しかし…

1964年大会の開会式などが行われた「国立競技場」は、開会式の1800日前には既に存在していた。東京でのオリンピック開催実現に向け、その前段となる「アジア競技大会」を東京で開催するためにつくられていたのだ。

国立競技場は1957年1月に工事が始まり、1958年3月に竣工。たった15カ月の工事期間しかなかったため、それまでその場所にあった「明治神宮外苑競技場」の解体は、時間短縮のために大量の爆薬が使われ、24時間休むことなく作業が続けられたという。

国立競技場(1964年4月23日撮影)

メインスタジアムは存在していても、他の競技場は別だった。当時、東京都内の広大で利便性のある土地は、ほとんど在日アメリカ軍に接収されていたため、広大な敷地を必要とする競技場や選手村の用地を取得するには、アメリカ軍との交渉が必要だったのだ。

選手村の候補地として、現在の代々木公園一帯にあった東京ドーム約20個分の広さを持つ「ワシントンハイツ」があがったが、返還交渉は難航。結局、移転費用を全額日本側が負担することで、ようやく話がまとまったのは1961年10月のことだった。それまでに、候補地は二転三転した。

米軍から返還されたワシントンハイツは大半を選手村として使用(上部)し、一部が国立屋内競技場(下)とNHK放送センターとなる(東京・渋谷区代々木、1964年03月撮影)

それから1年以上を経た1963年3月、ようやく国立代々木競技場の工事が着工する。大会開催まで20カ月しか残されていない状態だった。しかも、世界でもまだ例の少なかった「吊り屋根方式」を用いることもあり、期限内の完成は不可能だと見られていた

建設中の国立代々木競技場(1964年6月6日撮影)

しかし、24時間の突貫工事を続けた結果、1945年8月31日、開会式まで後39日というぎりぎりの段階で完成。日本の造形美を表現した建築として、国内外から高い評価を得ることになった。

なお、ワシントンハイツにあったアメリカ兵のための宿舎827戸などは、選手村の施設として再利用されることになる。しかし、それまで住んでいた兵士らの移転が進まず、選手村が開村したのは1964年9月15日で、開会式まで1カ月を切っていた。

完成した国立代々木競技場(1965年撮影)

■費用の押し付けあい

ワシントンハイツの問題が長引いた理由の一つに、国と東京都での意見の食い違いがあった。(※1)

東京都側は、選手村の位置が別の場所であることを前提として、都市整備を行っていた。そのため、「金も余分にかかるし、時間も危なくなる」と反対していた。

さらに、ワシントンハイツを東京都が国から買い取る金額でも厄介な問題が生じていた。大蔵省は、東京都への売却額を約90億円としていたが、東京都は無償での交付を要求。国は売却額を、アメリカ軍の移転先の宿舎整備に充てる予定であったため、大蔵省側は色をなして反論したという。結局、東京都側が45億円を払って買い取ることになった。

■武道館もまだない。

1800日前には武道館もなかった。1961年6月、柔道がオリンピックの競技種目に決定されたのを受けて、建設が決定される。1963年10月3日に着工して急ピッチで工事が進められ、1964年9月に竣工した。

オリンピックで柔道の会場となる武道館の完成は間近だ(東京・千代田区の北の丸公園 1964年5月撮影)

その他、1950年代後半から始まった高度経済成長の影響で、東京への急速な人口・産業の集中が顕在化し、オリンピックの開催有無にかかわらず、道路、地下鉄・鉄道などの都市交通の整備が喫緊の課題とされ、各所で工事が行われていた。そのため、オリンピック開催が決まった時、都の担当者は「この資金不足の時に、なんで競技場のようなお荷物をつくらなければならないのか」と感じたという。(※2)

その後、担当者は1960年開催のローマオリンピックを視察。ローマでは、オリンピック開催を口実に大規模な都市改造が行われているのを目の当たりにし「こんなやりかたもあるのか、これならオリンピックを」と思い直したという。

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※1、※2:塩田潮著『東京は燃えたか 東京オリンピックと黄金の1960年代』より

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