1945年8月15日、日本は終戦を迎えた。正午には、昭和天皇自ら「玉音放送」を行った。その日、人々はどのように終戦を知り、受け止めたのだろうか。当時の人々が書いた日記や作文を掲載し、70年前の8月15日を追体験したいと思う。
■「敵が沖縄からでも、デマ放送しているのだろうと思った」
まずは、現在の福岡県久留米市で旧制中学校に通っていた14歳の少年が書き留めた日記から。
十三時頃だったか、山本君が息をきらしてきて、「日本は無条件降伏したげな」といった。僕は、おったまげてしまって、物もいえなかったが、気をおちつけて、よく聞いたら、十三時にラジオがいったそうだ。そして、はじめに、天皇陛下御自ら御放送遊ばされたそうだ。僕は、それは敵が沖縄からでも、デマ放送しているのだろうと思ったが、町をあるいてみると、街角という街角は、みなその話でもちきりだ。
僕はいくらなんでもそんな馬鹿なことがあるものか。まだ戦力はいくらだってあるのに。それに、陛下御自ら御放送遊ばされるなんてそんなおそれ多いことがあろうはずがないといいあった。家にかえってみると、近所の人々がいろいろ噂しあっている。みな非常に憤慨している。山本君のお母さんは、「せめて、あの子供の仇だけでもとりたかったのに」とおっしゃって、声をうるませるので、かわいそうでみていられない。
七時の報道のあとで、首相の演説があるというので、山本君と二人で多田へききに行って、今日の新聞(西日本)をみた。大きく「大東亜戦争終完の御聖断下る」とあり、その下に詔書が謹載してあった。
道を通る人は、みんなプリプリおこっている。ラジオはサッパリ聞こえなかった。海軍大臣は自決された。
米英中ソ共同宣言に応じたのはあの広島に使用した残虐極まる原子爆弾によって、大和民族が絶えてしまうのを御慮いになって、この御聖断をお下し遊ばされたとうけたまわる。しかし、我々の考えとしては、あくまで闘い、最後の一人まで戦って、死にたいのである。まだ、こんなに兵力も武器もあるのに……。
たとえ、大和民族が絶えてしまおうとも、恥さらしな降伏をするよりも、世界の人々から、日本人は最後の一人まで戦って敗れたとたたえらえる方がよい。やがて、兵隊は武装解除となり、中等学校以上の学校はなくなり、工場は休み、米英人はわがまま勝手に本土へやってくるだろう。
こんな事がはじめから知れてるなら、ありったけの兵器を特攻兵器として仇敵撃滅に使用したろうに。もう今日となってはあの飛行機も無用の長物になってしまった。特攻隊の人なんか、どんなに地団駄ふんでくやしがったろう。
今日に限って、ブンブン飛ぶ味方機をみてうらめしくなる。まだあれだけ飛行機があるのになあ。実際、くやしかった事は、筆の下手な僕には書いて表せない。くやしくてくやしくて。国武さんの伯母さんも飯島さんもくやしいといって泣かれる。
この日記を書いたのは、竹村逸彦さん。ものこごろついた時から軍国教育を受け、当時は「軍国少年」だった。この日記は1945年から1946年にかけて書かれたもので、竹村さんが久留米市に寄贈。現在は、同市の六ッ門図書館で9月6日まで開催中の展覧会「戦後70年 平和資料展 少年が見た久留米の戦争」で展示されている。
竹村逸彦さんの日記
■「私は『もう学校へ行かなくてもいいのかな』と思いました」
次に埼玉県の国民学校6年生の女子生徒がその数カ月後にその日を振り返った作文から。
昭和十六年十二月八日から昭和二十年八月十五日の間に、私たち国民は食糧増産や飛行機や軍艦戦争に使う武器を作る為に働いていました。勝つのだ勝つのだといっていましたがとうとうアメリカの勝ちで日本は無条件降伏したのです。十四日の夜は熊谷や私たちの村も爆撃したのです。その時はもう死んだのか生きているのかわからなくなってしまいました。
みんな火でうづめつくされてしまいました。十四日の夜が明けて十五日になりました。熊谷の方の人たちは焼け死んだ人もたくさんあるという事でした。私は「もう学校へ行かなくてもいいのかな」と思いました。負けても行くのだそうです。その時はみんなおどろいて働く人は一人もいません。
お昼の時ラジオのニュースで重大放送がありました。熊谷付近は焼けてしまったので、電気は通じていませんでしたのでラジオを聞く事ができません。その日の夕方「日本が負けた」というのを聞きました。
この作文を書いたのは、吉田タケ子さんだ。作文は現在、埼玉県平和資料館が所蔵。この続きには、「政府は国民にうそをいって、アメリカの方がたくさん軍艦を沈めたのに、日本の戦果の方を大きくしたり」していたこと、「東條は戦争を始める時、内閣としていばっていました。終戦になって直ちに戦争はんざい人となりました」「今は東條のにくらしい事が思い出されて急にくやしくなる事もあります」という率直な気持ちが書かれ、正確な情報が広まっていった様子がうかがえる。
埼玉県平和資料館に所蔵されている吉田タケ子さんの作文
■「英国および米国各地では、国民がうき足立って大騒ぎ」
一方、なかなか日本の降伏を信じられない人たちもいた。ブラジルに渡航し、サンパウロで働いていた30代の男性の日記から。
本日はサンパウロ市ラジオは朝から日本のニュースを報じ騒しい。
午後の新聞は、日本は降伏をしなければならぬ、また平和交渉が進められていると、大騒ぎである。
英国および米国各地では、国民がうき足立って大騒ぎであると報じている。
とにかく当地新聞ラジオの模様によって、恐らく一週間は持ち切れまい。
あまりの事に先はわかり切っている、と思って、今日は一日、市内には出かけなかった。
夜なべ仕事をしていたら、ガゼッタ社のサイレンが鳴って驚かした(夜八時半頃鳴る)。
九時半近く、またサンパウロ市ラジオは日本が無条件降伏したと放送した。
九時頃、高橋君が、東京ニュースをわざわざ知らせに来た。よると、今朝東京放送は、東京湾犬吠埼付近二百海里に敵艦約四百隻を持って来軍し、十三日朝より大海戦中にて、目下日本は潜水艦隊その他によって、もう攻撃を加えている云々。
■「英米が負けた事は負け、本当に知らせる他にみちはない」
日本が敗北したという放送を聞いた2日後の8月16日、男性はこう記している。
自分は今だ日本より確報はないが、最後の一人を決心して、今さらロシヤの外交やボンバ(原爆のこと)の一つ二つが落ちて降伏などは夢にも考える事は出来ぬ。(中略)今日の現実にとうとう一部の同胞のろうばいは、みるにつけ残念の限りである。
夜十時過ぎて邦人間は東京よりの放送で、みな、いきを吹き返した。
東京より今朝米国は、ワシントン駐在のスイス大使を通して日本に平和問題を申込んで来たとただ通知があったよし。
尚昨夜は東京より、東京湾その他にて英米艦船約二百隻が、我が軍に降伏して来たと放送があったよし。
また鈴木貫太郎首相が辞職して、本日東久邇宮殿下が新内閣を拝命したと報じている。尚殿下は本年五十七才になられるよし。以上いずれも東京ラジオニュース。
その他の新聞も全部日本の事はやや判明したように報じている。いかなるブラジルの新聞とて、これ程の世界の大事件を勝った日本を降服、降伏では自国に起こる数々の大問題につじつまが合わせられまい。感情はぬきにして、英米が負けた事は負け、本当に知らせる他にみちはあるまい。
この日記を残したのは、1906年生まれの楡木久一さん。栃木県に生まれ、1931年にぶえのすあいれす丸でブラジルに渡航。サンパウロ市に居住し、行商、飲食店、洋服の修繕などの仕事に従事した。現地の新聞やラジオに接していたが、日本の降伏を「デマニュース」と断じるいわゆる「勝ち組」だった。楡木さんの日記は、「楡木久一関連資料」として国立国会図書館憲政資料室に所蔵されている。
■「お母さんが小さな声で『ああ、よかった』と言った」
この日記は、香川県高松市の小学4年生だった少年が書いた。「その日」は晴れだった。
きのう回覧板が回ってきて、今日の正午にラジオで重大放送があるのでかならず聞くようにと書いてあった。きのうお父さんは、「いよいよ本土決戦になるから、最後の一人になるまで戦えという天皇陛下のお言葉が伝えられるのだろう」とおっしゃった。
昼前に寮の中庭にラジオを用意して、みんながその前に集まった。ラジオの具合が悪く、おじさんがいろいろやっているが、ガーガーと雑音ばかりする。そのうち男の人が甲高い声でむずかしいことを言っているのが聞こえてきた。放送が終わっても、ぼくには何のことか分からなかった。
寮のおじさんが「戦争が終わったんだ。日本は負けたんだ。今のは天皇陛下のお声だ。おいたわしい」と言って、目からなみだをこぼした。
その時、お母さんが小さな声で「ああ、よかった」と言った。
日記を書いたのは、首藤隆司さん。1936年、愛媛県に生まれ、1945年に高松市空襲で罹災している。日記は首藤さんが「夏休みに戦争が終わった〜ある国民学校生徒の日記」(文芸社)として2012年に上梓したもの。日記はその後も続き、終戦の約1カ月後、9月14日には、学校で野球クラブができ、父が闇市でミットを買ってきてくれたことが「夢のようだ」とつづられている。
その日の日記は、こんなふうに締めくくられていた。
野球というのは、なかなかおもしろいスポーツだ。戦争が終わってから、毎日が楽しくて仕方ない。
(編集注:これらの日記や作文について、一部、漢字やかなを現代語表記にしている他、原文を損なわない程度に誤字を直し、改行を加えた上、掲載しています。詳細は原典をご覧ください)
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