【戦後70年】新聞から影を潜めた「本土決戦」 1945年8月12日はこんな日だった

8月12日未明、ポツダム宣言を受け入れる意思を表明した日本に対する、連合国の米英中ソ4国からの回答を、サンフランシスコ放送が流し始めた。

8月12日未明、ポツダム宣言を受け入れる意思を表明した日本に対する、連合国の米英中ソ4国からの回答を、サンフランシスコ放送が流し始めた。

日本政府の関心は1点。連合国側に要請した「国体の護持」、つまり天皇制の維持が認められるかどうかだった。回答は、これに正面から答えたものではなかった。

午後6時24分に外務省に到着した駐スイス大使館の加瀬俊一公使からの電文には、以下の通り書かれていた。

From the moment on surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.

[ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係](テキスト) | 日本国憲法の誕生より

天皇と連合国最高司令官の関係、具体的にはこの「subject to」をどう解釈するかで、再び激しい議論が戦わされることになる。

外務省は「天皇および日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官の『制限下に置かれる』」と翻訳し、受け入れに傾いた。

これに対し陸軍は「隷属する」と、独自の訳文を作成し、大本営や一部の将校らが「これでは国体が護持できない」と、受諾に強く反対する。

午前10時半ごろ、東郷茂徳外相と面会した昭和天皇は「自分はこれに満足である」との意思を伝えた。

午後3時半からの閣議では、陸軍の一部将校から突き上げられた阿南惟幾・陸軍大臣が、受け入れに絶対反対を主張。全面受け入れ案の東郷外相と真正面から対立する。さらに、国体護持について、もう一度連合国側に確認すべきだという案も出て、結論が出ないまま休会となった。(*1

朝日新聞(東京本社版)1945年8月12日付1面

原爆投下まで紙面で踊っていた「本土決戦」「一億敵殲滅戦」といった言葉はこの頃になると影を潜めていた。この日の朝日新聞(東京本社版)1面は「大御心を奉戴し赤子の本文達成 最悪の事態に一億団結」「国体護持を祈る」との記事が載っている。

事態は正に最後の関頭というべく、国体を護持し、民族の名誉を保持し得るか否かの最後の一線に立ち至っているのである。この段階に於いて軍官民すべての日本国民に要請されるのは、我々の祖先がそうであった如く、あくまで冷静に現実を直視し、事に処してはあくまで果断、そして陛下の赤子たる本文に生きることである。(中略)この点さえ全たければ、たとい今後如何なる困難が更に加わろうとも、日本民族として最も根本的なるものは微動だにしないであろう。(*2

新聞社もすでに昭和天皇のポツダム宣言受諾の方針は、情報として入手していた。前日、「国体護持」を求める談話と「徹底抗戦」を呼びかける訓示が並んで掲載されたのを受け、「国体護持」の談話をより強調する狙いがあったとみられる。

(下村宏)情報局総裁の(8月11日付1面で)いわんとしたところを相当明確にした報道、解説ぶりであった。(中略)敗戦、降伏となっても、大御心のままにしたがって一致団結すれば道はひらける、という趣旨をくり返し強調しているわけである。すでにポツダム宣言受諾を想定して、そのさいの国民の衝撃を緩和しようというねらいであったといえる。不安、恐慌状態を予防し、かつ強硬な戦争継続論者にむかっては、天皇の大御心にしたがうことが忠君愛国であるという論法を展開しようというものである。(*3

ソ連の圧倒的な兵力の前に、満州を防衛していた関東軍の部隊は次々と後退、敗退を重ねていた。8月12日、「満州国」の首都、新京(現在の長春)にあった関東軍の総司令部幹部(山田乙三・総司令官や瀬島龍三参謀ら)、そして満州国皇帝・溥儀が、約300km南の通化へ、特別列車で退却を始めた。

関東軍は張作霖爆殺や満州事変などを独断で推し進め、強大な軍事力を背景に日本の中国大陸侵略の最前線に立った。日本を日中戦争や太平洋戦争に突入させる大きな要因となった関東軍は、「日本の生命線」と称した満州を捨て、朝鮮半島の防衛をにらんだ敗走を始めた。

関東軍総司令部とともに、満州国政府も通化に移転することになっていたが、インフラのまるで整っていない通化への移転には、内部でも多くの反対があったという。

関東軍は民間人の避難を護送する部隊を持たず、「開拓団」として主に日本の農村部から移住した人々は、ソ連軍の攻撃に遭ったり、集団自決したりして多数の被害者を出すことになる。避難の際は軍人や南満州鉄道職員の家族を優先させたとの証言も多くあり、戦後は生存者、帰還者から「民間人を見捨てて逃げた」との批判が噴出する。(*4

8月13日に続く)

*1 半藤一利『日本のいちばん長い日(決定版)』文芸春秋、1995

*2 朝日新聞(東京本社版)1945年8月12日付

*3 『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』朝日新聞社、1991

*4 半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』文芸春秋、1999

文中の引用は現代表記に改めました。

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